プロローグ
幻想と現実の境目はどこにあるのか。
妄想癖の強い患者がいるとしよう。自分は神に愛されていると謳い、周りの者は彼を辟易とした想いで遠目に眺めている。
詐欺師なら敬遠されるのはしかたないが、本人がはっきりと目にし、手に触れていると感じている。そんな彼にとって信実であるものを、他の者がそれを理解できないからと言って、単純に妄想であると片付けてよいのだろうか。
(それと同じだ。俺の見ている物なんて、結局誰も同じのを見れないわけだ。そんな状況で、俺のことを知らない誰かに、「あんたは変な夢でも見たんだろう」と言われても文句は何も言えない。たとえ、俺にとっては現実感あふれる光景だったとしてもな)
暇を持て余しすぎたが故に始めた哲学的思考が、思いの外深みにはまってしまった。
しばらく考え続けているが、少年はその思考のループから抜け出すことができない。先程から、ずっと同じ問いを頭の中で繰り返している。
(そうなると、俺が何を見て、何を思ったとしても……極論言っちゃうと他の人には関係ないってことだ。それなのに、俺は見知らぬ他人のために東奔西走。誰にも褒められないし、報酬がもらえるわけでもない)
そんな活動に意味があるのか、と問いただされたら少年は何も答えられないんだろうなと思う。
(その問いには答えられないけど、それでも、辞めるって選択肢は最初っからないんだよなぁ)
何の答えにもなっていないが、とりあえず自分の中でようやく結論が出た。それに安堵し、少年はストローに口をつける。
甘い。強烈な甘さが口内に広がっている。
煙を吹き出すかと思うほどに酷使した脳に、ねっとりとした甘味の刺激が突き抜ける。少し溶けてしまっていたが、それがいい。
より直接的に舌を覆ってくれる甘さに少年は酔いしれた。
(そうそう、これぐらいの甘さじゃないと飲んだ気になれないんだよなぁ)
今回の新作シェイクは、実に素晴らしい出来だと少年はこくこくと頷く。
(甘さ控えめ、とか何が嬉しいんだよ。だったら、最初っからお菓子とか食うなよな。「すっきりとした甘さで何個でも食べれますね」じゃないんだよ。一個で満足させろ、何個も食べてもらう前提で作るんじゃねぇ)
哲学的な思考から、色々なものを敵に回しそうな暴力的な思考に少年の脳内が切り替わってきた時、不意に、級友に味覚障害を疑われた出来事を少年は思い出す。
「失礼な」と記憶の中の友人に、少年は口を尖らせて抗議する。
酸いも甘いも魅力的なのは少年も重々承知している。料理だって人並みにはこなせるという自負がある。少年は決して、極端な甘味しか感じられないような舌の持ち主ではない。
それでも、どれでも好きなものを食べていいですよと言われて用意されたとしたら、少年はこんな暴力的な甘味を選択するであろう。
現実は、苦いことが多い。だったら、食べ物くらいは甘いものを食べていたいじゃないか。
少年は、誰に主張するわけでもなく、心の中で一言つぶやいてから、再びお気に入りのシェイクを吸い始めた。
(そろそろ、始まるかな。母さんのサイン会)
少年は、今いる複合施設の上階にある書店の様子を伺うように、天井を眺めた。
少年の母親は自らが執筆した本の発売記念のイベントに参加する予定である。それは、発売したばかりの新刊に彼女が自分の名前を書き入れるという内容になっていた。
少年の母親が前の仕事を辞めて、極力家から離れないようになってから、コツコツと書き続けた物語。少年はその内容を、未だ出ていない続刊の話まで、よく知っていた。
(もう、母さんと俺だけの話じゃないんだよな)
幼い頃に寝物語で聞かせてもらった話が本になるというのは、改めて思うと少年にも感慨深いものがある。
「……ん?」
そんな風に少年が幼い頃の思い出に思いを馳せていたら、ふと、ガラス越しに見えた男が気になりだした。彼の視線が、とてつもなく気になりだしたのだ。
彼の視線は少年に向けたものではない。だったら何が気になるあというと、彼の何かを追って動く視線、それが徐々に少年へと近づいてくるということだ。
見た目は高校生ぐらいだろうか。少年のいる店の前で何かの存在に気づいて立ち止まり、その何かをじっと見つめている。その何かはふらふらと動いているようで、どうやら少年に近づいてきているらしい。
彼の顔の動きがピタリと止まった。彼の体の向きは、見事に少年と正対している。
(……まさかな)
少年は念の為、視点を下げた。ああ、シェイクが残り少ししかないと少年が嘆いていると案の定、頭の上から声が降ってきた。
「ねぇねぇ、カイト。ここ、ものすごい美味しそうなチョコレート売ってるわよ。見た?」
頭上の彼女は、自分に熱視線を向ける相手のことに気づかずに少年に話しかけてくる。
「私が触れたら他の人には見えなくなるんだし、ここまで、持ってきてもよかったんだけど止めておいたの。だって、それじゃあ、ドロボーじゃない?」
どことなく言い訳っぽい論調で彼女は話を続けている。もしかしたら、途中までは試みたが断念した行動なのかもしれないなと少年は察する。
「あれはきっとカイトも気にいるわね。間違いない。今すぐ、見に行くべきよ。ひと目見た瞬間に気に入っちゃうわ。すぐに買って食べたくなるくらい」
(……それは暗に俺に買いに行けってことだな。あわよくば自分にも食べさせろと)
彼女が見ただけで絶賛するチョコレートとやらに興味はあるが、今はそれどころではない。
「シーリス、見られてる」
少年は口元を隠して、頭上から降ってきている声に目を合わさずに忠告する。
「へ? 見られてるって、どういうこと?」
チョコレートに気を取られ過ぎか、彼女は呆けた返事をする。その態度に、少年は少しだけイラッとした。
「あんたさぁ。自分が見られてるってのが、すごーく特殊なことだってのは、ちゃんと分かってるよな」
苛立ちをそのまま棘のある言い回しに変換して、少年は彼女に再度忠告する。
「え、うそ」
その言葉で、ようやく彼女は今の状況を理解できたようだ。慌てた様子で、その気配をかき消した。
伏せていた少年の視界、彼の胸の辺りに光が飛び込む。とりあえず、彼女は定位置に戻ったようだ。これなら、たとえ『見える』相手からも彼女は身を隠すことができる。
(そうそう、しばらく隠れてろよ。今はまだ、気づかれたくない)
こんな唐突に、心の準備なしで接触したくない。彼が味方なのか、敵なのかも判別できないのだ。
少年は息を潜めて、彼が立ち去るのを待つ。
しばらくして彼の様子を少年が確認すると、いつのまにか彼は少年の視界から姿を消していた。少しだけ気分が楽になって、少年は息を大きく吐く。
(……顔は覚えた。できれば、調べてから声をかけたいな)
少年は胸の辺りに手を添える。そこには確かな感触があった。
「とりあえず、近くを探してみよう」
服に隠したペンダントをギュッと握り、少年は席を立つのだった。




