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高校に入れば何かが変わる、という話を、俺はあまり信用していなかった。
制服が変わったところで、中身まで自動更新されるわけではない。
中学校を卒業した翌月、急に社交性が実装されたり、行動力が二倍になったり、将来の夢が画面中央に表示されたりはしない。少なくとも、俺には何も表示されなかった。
榊野高校の入学式から、一週間。
窓際から三列目、後ろから二番目の席で、俺はそれを実感していた。
「じゃあ、今日の放課後、駅前行かない?」
「行く行く。制服でプリ撮ろうよ」
「部活どうする?」
「まだ決めてない。バレー見に行くかも」
教室のあちこちで、すでに会話が完成している。
入学したばかりなのだから、全員が知らない者同士だったはずだ。それなのに一週間も経つと、誰が誰と昼を食べ、誰がどの部活を見学し、誰が誰を下の名前で呼ぶかまで、だいたい決まり始めている。
人間関係の構築速度は、こちらの想定よりかなり速い。
気づいたときには募集が終了しているあたり、人気商品の予約販売に近かった。
「みつきは、今日どこか見に行くの?」
前の席の男子が、振り返って尋ねてきた。
名前は確か、田辺だった。
いや、谷辺だったかもしれない。
入学直後は自己紹介が多すぎる。一日に三十人以上の名前を聞かされても、脳には保存容量というものがある。顔と名前が一致しているだけで、すでに優秀な方だと思う。
「まだ決めてない」
「運動部は?」
「たぶん入らない」
「じゃあ文化部?」
「それも、まだ」
「帰宅部?」
「今のところ、一番活動内容が分かりやすい」
そう答えると、田辺か谷辺は笑った。
冗談として受け取ってもらえたらしい。
実際には、半分以上本気だった。
帰宅部は活動日が明確で、追加費用もなく、対外試合もない。人間関係のトラブルが発生する可能性も低く、毎日決まった時間に解散できる。部活動として考えれば、かなり完成度が高い。
「俺、サッカー部見に行くけど、一緒に来る?」
「サッカー経験ないから」
「見学だけでもいいって」
「経験者ばかりの場所へ未経験者が一人で行くの、見学というより公開処刑に近くない?」
「そこまでじゃないだろ」
田辺はまた笑い、前を向いた。
会話はそこで終わった。
別に失敗したわけではない。
誘いを断って、相手も気を悪くしていない。必要な受け答えはできている。問題があるとすれば、その先へ進む理由が俺の中にないことだった。
サッカー部へ行きたいとは思わない。
かといって、田辺と話したくないわけでもない。
ただ、話を続けるための次の言葉が見つからない。
人間関係というのは、何もしていないと自然に深まるものではないらしい。当たり前のことだが、実際に自分でやるとなると難しい。
水をやらなければ植物が枯れるように、会話を与えなければ関係も育たない。
俺の場合、鉢だけ置いて満足しているところがある。
昼休みになると、教室の人口分布が変化した。
机を寄せて弁当を広げる集団。
購買へ走る集団。
別のクラスへ移動する集団。
すでに決まった席へ、決まった人間が集まっていく。
俺は自分の席でパンの袋を開けた。
母親から弁当を作ろうかと聞かれたが、断っていた。弁当を持ってくると、食べ終わった後も弁当箱が机の上に残る。パンなら袋を捨てれば痕跡が消える。
昼食にまで撤収性を求めているあたり、自分でも高校生活への態度が後ろ向きだとは思う。
けれど、一人で食べること自体はそれほど苦痛ではなかった。
スマートフォンを見ながらパンを食べていれば、昼休みは普通に終わる。誰かと話さなければならない緊張もない。相手が食べ終わる速度を気にする必要もない。
一人には一人の利点がある。
問題は、その利点を説明すると負け惜しみに聞こえることだった。
「あれ、ここ使っていい?」
二人組の女子が、俺の前の空いた席を指した。
「あ、どうぞ」
「ありがと」
二人は椅子を持って、別の机へ移動していった。
俺に話しかけたわけではなく、椅子が必要だっただけだった。
もちろん何の問題もない。
椅子には椅子の役割がある。
俺にも、おそらく何かある。
まだ使用目的が決まっていないだけだ。
午後の授業が終わる頃、廊下は部活動の勧誘で埋まっていた。
運動部は制服の上からユニフォームを着て、文化部は色紙やポスターを掲げている。生徒会が通行の妨げにならないよう注意しているが、注意を聞いている部活は少なかった。
「一年生、陸上どう?」
「初心者歓迎!」
「吹奏楽部です! 楽器経験なくても大丈夫!」
「将棋部、週二日! 兼部可能!」
「演劇部で新しい自分を見つけませんか!」
新しい自分。
ずいぶん大きなものを部室で発見できるらしい。
落とし物として届けられているなら、少し興味はある。
俺は鞄を肩にかけ、勧誘の隙間を縫って昇降口を目指した。
目を合わせると声をかけられる。
かといって露骨に下を向くと、勧誘を避けていることが伝わる。
そこで、廊下の少し先を見る。
急いではいないが、目的地は決まっている。話しかけても成果は薄い。そういう雰囲気を出す。
野生動物に遭遇した際の対処法に近かった。
「君、一年生だよね」
失敗した。
左側から、バスケットボールを抱えた上級生が近づいてくる。
「背、高い方だよね。バスケやってなかった?」
「やってないです」
「初心者でも大丈夫だよ」
「球技がかなり苦手で」
「身長あるし、すぐ慣れるって」
身長は百七十センチほどだ。
高校生男子としては、そこまで高くない。おそらく上級生は、使える勧誘材料を順番に提示しているだけだろう。
それでも完全に否定すると、なぜかこちらが自分の身体的特徴へ厳しい人間のようになってしまう。
「少し考えます」
「今日、体育館で体験やってるから。よかったら来て」
上級生はチラシを渡し、次の一年生へ向かった。
俺は受け取った紙を鞄へ入れた。
その場で捨てるほど冷たくはなれない。
だからといって参加する気もない。
こうして鞄の中には、行く予定のない部活のチラシだけが増えていく。野球部、卓球部、写真部、ボランティア部、軽音楽部。昨日もらった茶道部の紙には、手書きで「お菓子あります」と書かれていた。
勧誘として最も具体的で、少し心が動いた。
ただ、お菓子一つを受け取った結果、三年間茶を点てることになる可能性を考えると、契約としては重い。
靴を履き替え、昇降口を出る。
四月の空は明るく、校庭から運動部の声が聞こえていた。
走る生徒。ボールを追う生徒。楽器を運ぶ生徒。校舎の窓から新入生を呼ぶ上級生。
全員が、自分の行く場所を知っているように見える。
実際には、そんなことはないのだろう。
たまたま今向かう場所が決まっているだけで、将来まで分かっている人間などほとんどいない。
それでも、何も決めていない側から見ると、歩いている人間は全員、自信があるように見える。
俺はスマートフォンで時刻を確認した。
午後四時十一分。
家までは電車と徒歩で四十分ほど。今から帰れば、五時前には着く。
着替えて、少し寝て、夕食を食べる。
宿題はまだ少ない。
動画を見るか、本を読むか、そのまま何もせず時間を使うか。
特に楽しみな予定ではない。
けれど、嫌でもなかった。
何も起きない一日は、悪い一日ではない。
少なくとも、後から処理しなければならない問題が増えない。
高校生活に期待していないというより、期待して失敗する手続きを省略しているだけかもしれない。
俺は校門へ向かった。
途中、校舎の壁に貼られた部員募集のポスターが目に入った。
どの紙にも、似たような言葉が書かれている。
初心者歓迎。
楽しい仲間。
高校生活を充実させよう。
青春は一度きり。
最後の一文だけ、妙に脅迫的だった。
一度きりなのだから、失敗するなと言われているように見える。
俺は目をそらし、そのまま歩いた。
十五歳の春に人生の方向を決めるには、まだ情報が足りない。
とりあえず今日のところは、家へ帰る。
それが俺の、入学してから七日間でもっとも一貫した方針だった。




