黒い犬
王立魔術院を出ると、世界は夕日に染まっていた。
通い慣れた道を宿舎へ向かう。
鞄に入れた魔導具はずっしりと重い。
「ああ、そう言えばインクを買い忘れていたわ」
仕事をするためには、インクが必要だ。
職場から支給されるインクは、乾燥後の安定性が少しばかり悪くて手につきやすいのだ。
――シアンの顔がチラリと浮かんだが、ちゃんとしたインクがないと仕事に差し障る。
サツキは少しだけ文具店に寄ってから宿舎に帰ることにした。
王城の敷地から外に出るのは久しぶりだ。
王城と離宮は、王立魔術院や宿舎とは壁で仕切られていて特別な許可がなくては入れない。
さらに王都と王城の敷地は壁で仕切られている。
「王都も壁で囲われているから、城は三重の壁で囲われているのね」
隣国との戦争が終結してから、三十年が経っているという。
だが、戦いの爪痕は今も各所に残っている。
「……魔法が使える人は少ないというけれど、不思議な国ね」
門番に王立魔術院所属の身分証を提示して、王城の敷地から外に出る。
徐々に暗くなってきている。シアンのことも心配だ……早く戻らなければ。
その時だった。後ろから馬車が勢いよく近づいてきたのは。
人はまばらだ。馬車はサツキの真横に止まった。
サツキは嫌な予感がして、馬車から離れようと足早になる。
「や……!」
馬車の扉が開き、サツキは手首を掴まれて中に引き摺り込まれてしまった。
鞄が地面に落ち、馬車が走り出す。
確かにこの世界の治安は、元いた世界よりも悪いかもしれない。
だが、まだ日も暮れていないうちから人攫いなんて、聞いたこともない。
馬車の扉が閉まる瞬間、「サツキ!」と自身を呼ぶ声が聞こえた。
続いて、黒い大きな犬が馬車と並行するように走り――馬車の扉に飛びつくと人に姿を変えた。
「――ウェルシュターさん」
黒い髪に金色の目は、先ほど馬車を追いかけてきた大型犬と同じ色合いだ。
いや、あの犬こそがカイルなのだ。
――馬車の扉が開かれる。
「――サツキ、もう大丈夫だ」
カイルが首元の首飾りの紐を引きちぎる。
その直後、馬車の中を閃光が包んだ……。
* * *
気がつけば、サツキはベッドの上に寝かされていた。
「サツキ!」
可愛らしい声と共に、体の上にドンッと何かがのしかかってきた。
「シアン殿下……」
「よかった! 目が覚めなかったらどうしようかと思った!」
「シアン殿下、旦那様がお使いになった魔導具の影響なので、大丈夫だと申したではありませんか」
「でもぉ……心配だったんだもん」
シアンの金色の目が潤んだ。今にも涙がこぼれそうだ。
その瞳の色を見た瞬間、先ほどの状況を思い出しサツキは勢いよく起き上がった。
「ウェルシュターさんは!?」
先ほど見た光景は、夢である可能性もある。
だが……あまりに鮮明だった。
第一王子であるシアンが、どうしてカイルに預けられたのか……実は疑問に思っていた。
本来であれば、母である第一王妃が死んだといっても、離宮ではなく王城の中で乳母に育てられるはずだ。
――だが、カイルもシアンと同じように犬に姿を変えるのだとすれば……。
疑問の一部が解決する。
同じ境遇の彼は、誰かからシアンを預けられたのだ……。
彼の兄である国王か、それとも亡くなった第一王妃か、それはわからないが……。
「旦那様は、昨日の事件について取り調べ中です」
「昨日……」
窓の外を見ると、すでに日が高く登っていた。
「仕事……」
「今日は、休みの処理をしておくと旦那様はおっしゃってました」
「そう……」
シアンはサツキにぎゅうぎゅうと抱きついている。
よほど心配かけてしまったようだ。
「心配かけてごめんなさい」
「ううん、サツキが無事でよかった」
急遽、仕事が休みになったサツキは、この日シアンと一緒にのんびり過ごすことになったのだった。
そう、王弟殿下はモフモフヒーローだったのです。
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