子犬殿下のひとりごと
――サツキが去った室内には、ベラとシアンだけになる。
「ねえねえ、今日はなんのお勉強する?」
「そうですね――今日は、地理のお勉強などいかがですか?」
「わあ! じゃあ、サツキがいた世界について教えてよ」
「かしこまりました」
シアンは第一王子に相応しい勉強をしている。
教師はベラである。
――彼女は謎が多い。
侍女の姿でありながら、高位貴族令嬢のような立居振る舞いもできるし、戦いも一流。
しかもなんでも知っている。
「……でも、叔父さまもサツキがいた世界のことはよく知らないって言ってた。なんでベラはなんでも知っているの?」
だが、彼女に理由を尋ねたところで困った顔をしてこういうだけであろう。
「シアン殿下の侍女でございますゆえ」
「ふーん」
シアンはしばらく考えていた。
しかし、いくら優秀だからと言ってもまだ四歳、結論には至らなかったらしい。
「と言っても、私が知っているのは書物に書かれていることだけ」
「――一度見たら、忘れないんだよね?」
「忘れられない――といったほうが正しいやもしれませんね」
「……それって大変なこと?」
今日もベラは困ったように笑った。
それが答えなのだということは、シアンにだってわかった。
「さあ、これが大陸の地図でございますよ」
「見たことある! 砂漠の向こうにあるのが南の国。そのまた向こうにあるのが、海の国リーヴァ!」
「素晴らしい! よく覚えていらっしゃいますね」
「――叔父様さまも、サツキも褒めてくれるかな?」
「王弟殿下もサツキ様も褒めてくださるでしょう」
「ふふっ!」
シアンの学習は王族の二年程度早いとサツキは説明を受けた。
だが、この国の王族たちは、カイルをはじめとして皆優秀なのだ。
四歳児がここまでの学習をしているとサツキが知れば、感心すると同時に勉強しすぎではないかと心配するであろう。
シアンの前に広げられた大陸の地図。
そこには、この国ルナティエル王国を中心に多くの国々が描かれている。
「ここ、僕の国!」
「ええ、殿下が治める国ですよ」
「――でも、お義母様は違うって言ってた」
「そうでございますね。シアン殿下はどうなさりたいですか?」
シアンはしばらく地図を眺めていた。
「……そうだね。ここ」
「……」
シアンが指さしたのは、砂漠の向こうにある南の国ベルンであった。彼の国には多くの獣人が暮らしている。
「僕と似ている人たちがいる?」
「……そうですね。似ているのやもしれません」
「仲良くしたいな〜」
だが、現状は難しいだろう。
ガルヴァのようにこの国で暮らす獣人もいるが……。
「それからここ」
次にシアンが指さしたのは、中央神殿がある北の国ウェンデスだった。
「――仲良くできそうもないけど……わかってくれる人もいるかな」
「いるでしょうね……数は少なくても」
「僕、みんなと仲良くできる国にする」
「……それはよろしゅうございます」
ベラは笑った。
彼女の笑みは慈愛に満ちていた。
「そういえば、お仕事行かなくて良いの?」
「……サツキ様が来てからそれほど出番がないのです」
「ふーん。でも、たまにはサツキと代わってきて」
「私への命令ですか……珍しいこと。シアン殿下はどうしてサツキ様のことを気になさるのですか?」
シアンはしばらく考えて、それから口を開いた。
「良い香りがするの」
「……番でございますか」
「違うよ〜? とっても近いけどね。だって、サツキは叔父さまの……あっ、これは秘密なんだった!」
シアンは誤魔化すように笑うと、地図に視線を落とした。
「サツキの国は?」
「この地図にはないのですよ」
「どこにあるの?」
「このあたりでしょうか? いや、ずっと上かも?」
ベラが指さしたのは、地図の上、なにもない空間だった。
シアンは不思議そうに首を傾げる。
「帰れる?」
「――不可能ではないですが、きっともうこの国には来れないでしょうね」
「や……やだー!!!!」
静かな離宮に、シアンの声がこだました。




