選択肢はふたつ
部屋に残ったのは私ひとり。
何をどう切り出していいのか分からなくて、当たり障りのない話題を探す。
水鏡の向こうの母も黙ったままだ。私と同じに言い迷っているのか、それとも私が口を開くのをじっと待っているのか。母の顔にはかすかな笑みが広がるばかりで、何を考えているのかさっぱり分からない。
明るい栗色の髪、琥珀色の瞳。日本人離れした白い肌。外国の血を引いているから、と言われて納得してたんだけど、外国どころか異世界の人だったなんて、誰が想像する?
昔の話をねだるたび「まぁ色々あったんだよ」そう言ってはぐらかされていたし、答えてくれない母に焦れて父に聞いても曖昧に笑うだけで、そしていつの間にか新婚時代の話とか、私や弟の小さい頃の話にすり変わっていたりした。
子ども心にも、両親は結婚前の事を言いたくないんだなと感じて話題に載せないようにしてきたんだけど、それは全部こういう事だったからだったのか!
この事態を素直に受け入れるかどうかは別にして、ようやく長年の疑問が解消してスッキリした。
「ねぇ、お母さん。今度、お父さんとの出会いとか、色々聞かせてね」
『ん。今さら隠し立てすることもないしね。今度ゆっくり話すよ』
苦笑を浮かべながら肩を竦める母を眺めつつ、込み上げてくる懐かしさを持て余した。
早く帰りたい気持ちと、もう少しこっちにいたい気持ちがないまぜになって、胃の辺りがじりじりと焦げる。
「ところで、そっちは私がいなくなってどのくらい経ってるの?」
あっちとこっちの時間の流れは少し違う。それに加えて、どの時間に繋げるかはルルディがある程度調節出来るらしいので、いま話をしている母がいつの母なのか分からない。
『んー。半日ちょいってとこかな? 昨夜、晩ご飯の時間になっても部屋から出てこないから呼びに行ったら、誰もいなくて、なんとなく覚えのある力の残滓が残ってておかしいと思ったんだ。もっとよく探ろうと思っていたところに、ルルディから最初のコンタクトがあった。あの子、相変わらず器用だよね。まさかパソコンと水鏡を繋ぐとは思わなかった! 昔から発想が斬新で、センスあったんだけどさぁ、ちょっと見ない間に磨きがかかって……』
「お母さん、話が脱線してる。その話はまた後で。ね?」
『ん? あ、ごめん、ごめん。で、だ。昨夜のうちに何度か連絡を取り合って、状況を説明しあって今に至る。──八重香、左目の事も聞いている』
「そっか。──ドジっちゃった」
姿が見えるんだから、もう目の色が違うのはばれていたと思うけど、見えないのもバレてたんだね。
どんな反応をしたらいいのか分からないので、とりあえず軽い口調で応えたら、母の顔が見る間に曇った。
『すまない、八重香。こんな重いものを背負わせるような事になるなんて、思ってもいなかった』
波風一つ立たない水の向こうで、母は泣きそうなほど顔を歪めている。
「お母さん」
呼んだ声は母の耳には届かなかったらしい。
きつく握られて白くなった拳が、机を思い切り叩いた。振動がこっちまで伝わってきそうなくらいの大きな音がして、私は反射的に身が竦んだ。
『全て、私のせいだ。私は……どう詫びたらいい』
──ダン!! と大きな音がもう一度。
「お母さん、手、怪我しちゃうよ? やめなって!」
止めたいのにここからじゃそれも出来なくて、もどかしくて唇を噛んだ。
『父さんや君たちに囲まれて幸せで、自分が誰なのかをずっと忘れていたよ』
──ダン!! 三度目の音。
「お母さんってば!」
届かない苛立ちに、呼ぶ声が悲鳴のように甲高くなった。
ようやく私の声に気付いたのか、母は机を叩くのを止めて拳を解いた。そして、崩れるように両手で顔を覆った。赤くなっていた手が、みるみる青黒く腫れていく。
『こんなことも起こりうると、初めから予想しておくべきだった。──人並みの幸せなんてものを欲しがっちゃダメだったんだ、きっと』
小さく震える肩で囁くように零された後悔。聞いているこっちまで胸が痛い。
「そんなこと言わないでよ。お母さん、幸せだって言ったじゃない。幸せは間違いじゃないよ。大丈夫、お母さんは間違ってない。それに私は大丈夫だよ? こっちの世界に来たのは、初めは有無を言わせずだったけど、二回目の召喚は私の意思だし、戦うって決めたのも私。傷を負ってしまったのは誰のせいでもなくて私のミスだし!」
『しかし……』
「しかし……じゃないよ! 私、これでも頑張ったんだよ? 周りにいっぱい迷惑かけたけど、でもみんなに支えて貰って戦って、勝ったんだよ!? それまで否定しないで」
母が先代聖女だったってことは確かに私が召喚された遠因だったかもしれない。けど、遠因は遠因ってだけだ。私の身に起こったことが全て母のせいだなんて全然思わない。
別に今回の召喚に限った話じゃないけど、どういう環境に置かれたとしても、人はその中で悩んで、選んで、行動する。理不尽な環境に叩き込んだ人間がいるのなら、それを憎んでも良い。でも、その環境の下で、自分がした事には自分で責任を持つべきだ。それ自体は他人のせいにすることじゃない。
辛くて苦しくて「どうして私が!?」って思ったことは一度や二度じゃない。
けど、それでも立ち上がったの私の意思だ。なけなしの根性で頑張ったことまで、なかったことにされたらたまったもんじゃないよ!?
『やえ、か?』
「あのね、辛いことも悲しいこともいっぱいあった。逃げたいって思うこともあったよ。でもね、私、こっちに来たこと後悔してない。たくさんの人に出会って、色々学んで……私はお母さんが生まれて、育って、聖女として守ったこの国が好きだよ。妖魔から守れて良かったって思う」
こっちに来てから出会った人たちの顔が、脳裏に次々と浮かんだ。
「ねぇ、お母さん。ごめんねって言うんじゃなくて、褒めてよ。『よくやった』って褒めてよ」
それが、一番嬉しいから。
『八重香…………ああ、そうだな。八重香の言う通りだ。ありがとう。私の故郷を守ってくれてありがとう。よく……やって、くれた』
「うん!!! 我ながら頑張ったと思う! 帰ったらたくさん話するから、ちゃんと聞いてね?」
今はまだお母さんには内緒だけど、私、初めて好きな人が出来たんだよ? でも、迷惑になっちゃうから告白はしないんだ。こういうのって結構苦しいね。帰ったら話すから、だから慰めてね。と、心の中で付け足して。
『──しかし、いつの間にか大人になってたんだなぁ。負けたよ』
「ふふーんだ。子どもはね、いつまでも子どものままじゃないんだよーだ! 私、もう十九歳だよー? 来年には二十歳! 成人でーっす」
重たい話をしていたのに、最後にはそんな軽口を叩き合って、親子水入らずの会話を終えた。
『悪い、そろそろルルディを呼んでくれないか? 八重香の目の事を話し合いたい』
「目の事?」
何だろう? と訝しみつつ、隣の部屋に待機していてくれたルルディを呼んだ。
彼女が私の横に並ぶのを待って、私は今しがたふと思いついた疑問を口にした。
「あ、ねぇ。さっき術の重ね掛けはダメだって言ってたけど、それって違う術者が掛けるのがダメなんだよね? 同じ術者が掛けるのは問題ないの?」
左目が見えるようになる──その希望を捨てたくなくて、私は焦っていた。
母とルルディが何を話すのか、門外漢の私は静観するべきだったんだろうけど、つい割って入ってしまった。
途端、ルルディ動きが止まる。水鏡の向こうの母も、困ったような顔をした。
「ええ。そうね。かけることが出来るのは、ただ一人。エリカ様だけよ。術者が同じなら術のパターンも同じ。つまり重ねても支障は起きない」
「じゃあ、日本に帰ったらお母さんに術をかけて貰えばいいのね? 瞳の色はカラコンで何とかなると思うし、万事解決……」
『そうはいかないんだよ、八重香』
水鏡の向こうから、母の固い声が割って入った。
「どうして?」
『さっき言ったろう? こっちの世界ではほぼ力が使えない。つまり、私は術をかけられるほどの力を発揮できない。そっちに召喚して貰って、術をかけたとしよう。しかし、八重香がこっちに戻ってくれば、君自身の力もほぼ失われる。左目の視力を維持するのは困難だと思うぞ』
「それはつまり……視力を取るならこっちに残らなきゃダメってこと?」
それも一度、母にこっちへ戻ってきて貰わなきゃいけない。
『そう言うことになるな。私がそちらへ戻るのは、それほど困難なわけではないんだ。今ならまだ八重香が通った残滓を辿れる。──ルルディ、八重香を再召喚するのは一度目より楽だったろう?』
「ええ、おっしゃる通りです。前回の召喚時についた軌道をたどりましたから」
『と言うわけだ、八重香。君がそっちに残るのも一つの手だ。こっちの事は私が何とかする。心配しなくていいよ』
そんなあっさり帰って来なくて良いと言われても。
私、あっちの生活を捨て切れるの?
でも、こっちに残るなら……?
脳裏に家族の顔と、ディナートさんの顔が交互に浮かぶ。
『君の目はおそらくこっちの医学でも治せないし、酷使することになる右目もだんだん疲弊していく可能性が高い。それが分かっているのに、何が何でも帰って来いとは言えないよ。私は八重香の選択を尊重する』
「エーカがどのような選択をするにしても、私は私の持てる力すべてで貴女を支援するわ。だから、雑事には囚われず、貴女の心のままに道を決めて。ね?」
『今すぐ決めろとは言わない。じっくり考えて、答えを見つけるといい』
「ん。分かった。お母さん、ルルディ、ありがと。いまちょっと頭がパンクしそうだから、少し時間貰って良いかな?」
今聞いたことが頭の中をぐるんぐるん回っていて、収拾がつかない。少し時間を置いて整理して、そのうえでじっくり考えたかった。
「そうよね。エーカにしたら驚くことばっかりだったものね。気が付かなくてごめんね。──エリカ様、ではまたご連絡いたしますので、今日のところはこれで」
『ああ。分かった。ルルディ、八重香を頼む』
「はい、お任せ下さい」
すぐそばで交わされているはずの二人のやり取りさえ、薄い膜を挟んだ向こう側の世界の出来事みたいに思える。
『八重香、じゃあ、また』
「うん。またね、お母さん」
ルルディが水鏡に手をかざすと、途端に青白い光は消え失せて、部屋中が薄闇に包まれた。
私は上の空のまま彼女と別れて、宮殿の中を当てもなく歩いていた。
侍女さん達には、ルルディの用が済んだらすぐ部屋に戻るようにとお願いされていたけれど、どうしても真っ直ぐ戻る気にはなれなかった。
かと言って、ひとりになりたいわけでもなくて。
「ディナートさんに会いたい、な」
一度、そう思ってしまったら、後はもう堰を切ったように会いたい気持ちが止まらなくて。
彼に会いに行こうと決めた。もし忙しそうだったら、諦めて部屋へ戻ろう。
今頃、彼はおそらく東翼にある魔導軍の駐屯所で、帰り支度や残務整理に追われているはず。
「で、ここ、どこ?」
当てもなく彷徨っていたのが裏目に出た。
ハッと気が付いたときには、見たこともない内装の廊下の真ん中で立ち尽くしていた。
迷子。
この歳で迷子。
不名誉な単語が脳裏に浮かぶのを慌てて振り払って、周りを観察してみる。
とても静かで人の気配はない。
この聖女宮は、一つの街と同じぐらいの大きさがあるけど、でも執政部からそう遠くないと思うし、そもそも外を歩いた覚えもない。と言うことは同じ建物内なのは確実。東翼にはよく通ってるから、ほとんど知ってるし……すると今、私がいるのは西翼のどこか。だよね? なんとなく敷居が高くて、今まで西翼にはほとんど足を運んだことがないから、知らない場所がいっぱいあるのは確かだし。
と、ここまで分かれば何とかなるはず。
帰る方向が分かってるなら、迷子じゃないもーん!
私は意気揚々と回れ右して、もと来た道を引き返し始めた。
けれど人生ってやつはままならないもので、こっちと思う方向に歩いて行っても、なかなか見知った風景に出くわさない。
こんなはずはないのよ。こんなはずは! と、強がって見ても事態は変わらず、焦りだけが募っていく。
このまま、遭難なんて笑えない。
誰か人を見つけて道を聞こう。それが一番いい。
立ち止まって耳を澄ますと、どこからかかすかに足音が聞こえた。それはだんだん大きな音になり、私の立っている場所へ近づいてきている。
迷子にならなくて済んだ、と安堵のため息が漏れた。
遠くに白いローブをまとった人影がひとつ。ひょろりとした痩せた姿に、昨夜会った神官さんを思い浮かべたけれど、まさかそんな偶然なんて起きないよね。
ここにはたくさんの、それこそ何百と言う数の神官さんがいるらしいから。
「すみません!」
声をかけると、神官のローブをまとったその人は驚いたように足を止め、それからゆっくりと顔を上げた。
顎のシャープな輪郭から、どうやら男性であることが見て取れた。彼は私の顔をまじまじと見ているようで、目深に被ったフードの向こうから視線を感じた。
何だろう? と小首を傾げる私の前で、彼はゆっくりとフードを取り払った。
中から現れたのは、明るい砂色の髪と、同じ色の瞳。
「勇者、様?」
ぽかんとした顔で彼はそう呟いたけど、きっと私も彼と同じぐらいぽかんとした顔をしているに違いない。
「昨日の……?」
私の問いかけに、彼はゆっくり頷いた。
「うわ、こんな偶然ってあるんですね! 昨夜はありがとうございました」
「いえ、そんなに改まってお礼を言われるようなことじゃないですから」
駆け寄って頭を下げると、彼は困ったような顔であたふたした。その拍子に彼から昨日と同じ甘い香りが漂ってくる。お菓子のような甘い香りとは違う。硬質な印象の甘さで、うっすらと青い感じもするから、植物の花の匂いなのかもしれない。
「良い匂い」
「えっ!?」
彼は驚くような勢いで後ろに飛びずさった。一瞬何事かと目を丸くしたけど、冷静に考えてみれば私が悪い。そりゃいきなりいい匂いだなんて言われたらびっくりするよね。失礼だったと気が付いて慌てた。
「あ、ごめんなさい! あなたから甘い匂いがしたので、もしかして薬草とかの研究をされてるのかなって思って。いきなり失礼でしたよね」
「え! 失礼だなんてそんな事ないです。僕の方こそごめんなさい。緊張しちゃって。その、僕、貴女のおっしゃる通り、薬草の研究をしています。凄いな、勇者様は推理まで得意なんですね!」
キラキラした目で見つめられて、いたたまれなくなった。
「あ、あの! ちょっと聞きたいんですけど、ここから東翼ってどう行けばいいんでしょうか?」
話題転換を兼ねて、本題を口にした。
ここはどこですか? と聞かなかったのは、自分が迷子だと認めたくないし、悟られたくないと言う最後のプライドゆえです!




