護衛剣士クリス・フラン
夕刻の魔狼騒ぎが嘘のように、夜の森は静かだった。
『銀狼商会』の野営地には、パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが小さく響いている。
火にかけた鍋からは湯気が立ち上り、暖かい野菜スープの匂いが辺りに広がっていた。
ダイフクは火から少し離れた場所で、もしゃもしゃと草を食べている。
時折こちらを見ては、自分は問題ないとでも言うように鼻を鳴らした。
「できたぞ、ほら。食おうぜ」
ユウトが作った野菜スープを木皿によそうと、クリスは木のスプーンを握り締めて感嘆の声を上げた。
「うまそうだな。すごいぞ」
「そうか?ただの干し肉と野菜の煮込みだぞ。味付けは塩だけな」
「それでも料理だ。私は料理ができないからな」
「知ってる」
「なぜ分かる?」
「なんとなく」
「ほほう……商人の勘というやつか!」
謎の理由で感心するクリスに対して、ユウトは苦笑した。とても魔狼の群れを単身で撃退したとは思えない。
そして凄腕の剣士であることが分かったクリスだが、彼女が剣ではなく包丁を持つ姿は想像できなかった。実際、料理はできないらしい。
「さっきは助かったぜ。本当に強いんだな」
「会った時に言っただろう。狼の群れくらいなら楽勝だ」
ユウトにとっては一匹でも命の危機となる魔獣を三匹、瞬く間に切り伏せた。剣士クリスの強さは本物だ、とユウトは認めた。そして、旅には護衛を雇えと条件を出した受付嬢アルメリアの助言は正しかったこともよくわかった。もしも優秀な護衛がいなければ、今ごろ自分は魔狼の夕食になっていただろう。
「雇ってよかった」
本心からのつぶやきを聞いて、クリスは驚いた顔をした。そしてほんの少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「当然だ。私は強いからな。師匠に剣だけ教わって生きてきたんだ」
「それ以外は?」
「教わっていない」
「だろうな」
「ふふん。だが、剣なら負けん」
そう言って胸を張るクリスの横顔は、何よりも誇らしげだった。
師匠から受け継いだものは唯一、剣の技術だけ。それが彼女が大切にしている誇りなのだろう。
ユウトは少しだけ羨ましくなった。一つのことに胸を張れるのは強い。
クリスは懐かしそうに、焚き火にかけられた鍋を見つめる。
「師匠も料理は下手だった。狩った動物の肉は焼くか、焦がすかしかなかった」
「豪快だな」
「だが強かったぞ。私なんて足元にも及ばなかった」
クリスは少し笑いながら語る。師匠の話になると機嫌が良くなるらしい。
「どんな人だったんだ?」
問われたクリスはしばらく考えた。何かを思い出すように、じっと焚き火の炎を見つめる。
「師匠は……変な人だった」
「へぇ。お前が言うと説得力あるな」
「本当だ。私よりも強くて、私よりも変人だ。ずっと山奥で暮らしていたんだ」
「仙人みたいだな」
「たしかに浮世離れした人ではあった。孤児だった私を引き取って、剣を教えてくれた。動物や魚を捕る方法を教えてくれた。薪の割り方を教えてくれた。生きる方法を教えてくれたんだ」
「文字は?」
「教わってない」
「なんでだよ。生きるためには大事だろ」
「師匠も読めなかったらしい。お人好しで、たまに来る行商人にはよく騙されていたと思う」
ユウトは思わず吹き出しそうになった。仙人のような剣の達人でも、できないことはあるらしい。
教える側が読み書きができないのだから、教えようがないだろう。
「師匠さんは今どうしてるんだ?」
「死んだ。老衰だ」
クリスはあっさりと答えた。寂しそうではあったが、悲しそうではなかった。事実として受け入れている顔だった。
「最後に師匠から、山を下りろと言われた。人と生きろ、と。だから街へ下りた」
「それで冒険者か」
「私でもなんとかできそうな仕事だと思ったからな」
クリスは野菜スープを飲んだ。少し熱かったらしく慌てている。かなりの猫舌だった。
「だが……世の中は難しい。人は、剣や戦いのように単純ではない」
「だろうな」
「みんな嘘をつく」
「たまにな」
「私は嘘を見抜けん」
「知ってる」
ユウトは焚き火に薪を放り込みながら笑い、相槌を打つ。
クリス・フランの不器用な生き方は、これまでの短い付き合いだけでも十分すぎるほどに伝わっていた。
彼女は剣士としては優秀だ。しかし、人を疑うことを知らない。相手の言葉を信じることが前提になっている。だから騙される。騙されてきた。何度も何度も。
「ユウトは商人だろう。やはり嘘をつくのか?」
不意の質問だった。
なんと答えるべきか、ユウトは少し考えた。
過去を思い出すクリスと同じように、じっと焚き火を見つめる。
「嘘を、つくこともある。でも、騙すためじゃない」
「違うのか?」
「商売だからな。うまく説明できないが……あぁ、俺だって言葉が上手い方じゃないな」
値引き交渉。駆け引き。営業。商売において、全部を正直に話す人間などいない。
しかし、だからといって騙したいわけでもない。
「ふふ……商人は皆、口が達者なのだと思っていた」
「そうじゃない奴もいるさ。変な奴がな」
二人は軽く笑い合い、野菜スープを食べ、硬いパンをかじる。
しばらく沈黙が続き、焚き火がぱちりと鳴った。
ダイフクは地面に座って首を寝かせ、うとうとし始める。夜風が吹く。森が揺れる。
「なあ」
ふと、クリスが口を開いた。
「なぜユウトは商人をやっているんだ?」
問われたユウトは視線を上げ、夜空を見上げた。
月が見える。満天の星が見える。彼にとっては知らない星空だった。
この世界へ来て、何度見ても慣れることのないものだ。
「……世界を見たいからだな」
「世界?世界はここにあるぞ。見えているものが世界だ」
「もっと先にな、俺には知らない町があって、知らない国があって、知らない人が住んでる。せっかく生きてるんだ。いろんなものを見てみたい」
知らない物を見てみたい。それはユウトの本心だった。
街にいるだけでは見られなかったもの。知らなかった景色。知らない文化。知らない食べ物。知らない人たち……この世界には未知が溢れている。
「商人なのに金儲けじゃないのか。本当に変な奴だな」
「よく言われる」
「だが悪くない。私は剣しか知らん。だから、知らないものを見るのは少し楽しみだ」
腕組みをしてうんうんと頷くその言葉に、ユウトはまた思わず噴き出した。
なぜ、自分も一緒に知らない物を見る前提で話しているのだろうか。クリスはどうやら、お人よしという点も師匠から受け継いでいるらしい。
「(やっぱりこの世界は……おもしろいな)」
焚き火の向こう側。剣しか知らない女がいる。
こちら側には、商売しかできない男がいる。
そして、仲間には売れ残っていた倍馬だっている。
つくづく凸凹で、変な組み合わせ。どこかが欠けた者たちの旅だった。
だが、悪くない。そんな気がした。
「さて、飯を食い終わったら魔狼を解体して魔石を取るか。一個1万セル(銀貨一枚)くらいにはなるぞ」
「あ、そういうところはちゃっかりしてんのね」
「冒険者だからな」
──目的地である難民村まではあと一日。
『銀狼商会』の最初の旅は、まだ始まったばかりだった。
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