第1話:英雄の凱旋と新たな火種
世界は、美しく、そして不完全な「音」を取り戻した。
ギデオンが作り出した偽りの静寂が破れ、王都に人々の活気が戻ってくるまで、そう時間はかからなかった。感情という名の「雑音」を取り戻した人々は、泣き、笑い、怒り、そして歌った。その混沌とした喧騒は、俺がこれまで聞いたどんな音楽よりも、力強く、そして心地よかった。
「―――面を上げよ、【奇跡の調停者】相川ヒロト。そして、【銀閃】のセリア」
数日後。俺とセリアは、王宮の謁見の間に再び立っていた。玉座に座る国王テオドールの顔には、以前のような疲労の色はなく、心からの安堵と感謝が浮かんでいる。
「そなたたちの活躍、この国は決して忘れぬ。大法師ヴァレリウスの裏切りにより、一時的にとはいえ、そなたたちを国賊として追ってしまったこと、王として深く詫びる。許せ」
王自らが頭を下げる姿に、周りの貴族たちが息を呑むのが分かった。俺は慌てて首を横に振る。
「いえ、俺たちはただ、やるべきことをやっただけですから」
「謙遜は不要だ」と王は力強く言った。「そなたは、この国を二度も救った。一度目は森の呪いから。そして二度目は、世界全体を巻き込む狂気からだ。その功績に、最大限の報奨を約束しよう」
国賊の汚名は正式に撤回され、俺は【王室付き特命調停官】としての地位を再確認されると共に、王城への自由な出入りと、国王に次ぐレベルの機密情報へのアクセス権という、破格の権限を与えられた。セリアもまた、Aランク冒険者としての名誉を回復し、さらに王家直属の騎士【ガーディアン】の称号を賜ることになった。
かつて俺たちを捕らえようとした騎士や魔術師たちが、今は尊敬と畏怖の眼差しで俺たちを見つめている。なんとも居心地の悪いものだったが、隣に立つセリアが、少しだけ誇らしそうに胸を張っているのを見て、まあ悪くないか、と思った。
もちろん、全ての者が俺たちを歓迎しているわけではない。貴族たちの中には、俺のような得体の知れない若者が、突如として国の英雄に成り上がったことを快く思わない者もいる。特に、ヴァレリウスが統括していた宮廷魔術師団の古参たちからは、体系化された魔法の秩序を乱す異物を見るような、冷ややかな視線を感じた。新たな火種は、もうすでに燻り始めている。
その夜は、俺たちのための盛大な祝宴が王宮で開かれた。美味い料理と酒、美しい音楽。だが、俺は人の少ないバルコニーに逃げ出し、すっかり習慣となった儀式を執り行うことにした。ギデオンとの戦いが終わっても、これは終わらないらしい。
「本日もスキルガチャの時間でーす!」
脳内に響く軽快な電子音。さて、平和な世界で引く、記念すべき最初のスキルは――
【スプーンを念力でほんの少しだけ曲げることができる】
「……だろうな」
俺は思わず苦笑した。これぞ俺の日常。このどうしようもないスキルこそが、俺が俺であることの証明のような気がした。
「何一人で笑ってるのよ、今日のスキル?」
いつの間にか隣に来ていたセリアが、シャンパングラスを片手に尋ねてくる。俺がスキル内容を伝えると、彼女はきょとんとした後、ふふっ、と声を漏らして笑った。
「あなたらしいわね。本当に、最後までブレないのね」
「これでもう、世界を救う必要もないだろうしな。これからは、パーティーの余興でスプーンでも曲げて暮らすさ」
軽口を叩きながら、俺たちは静かになった王都の夜景を見下ろした。彼女との間には、もう以前のような緊張感はない。共に死線を潜り抜け、国中を逃げ回った経験は、俺たちを単なるパートナー以上の、唯一無二の存在へと変えていた。
「これから、どうするの?」とセリアが尋ねる。
「さあな。特命調停官なんて大層な役職をもらったけど、俺にできることなんて、たかが知れてる」
「そんなことはないわ」彼女は、真っ直ぐな翠色の瞳で俺を見つめた。「あなたのその『たかが知れてる』力に、私は、この国は救われた。これからも、あなたにしか解決できないことが、きっとある」
その言葉は、ストン、と俺の胸に落ちた。そうかもしれない。俺の戦いは、まだ終わっていないのかもしれない。
そんな感傷に浸っていた、その時だった。
祝宴で賑わうホールの方が、急に騒がしくなった。一人の衛兵が、血相を変えて国王テオドールの元へと駆け寄り、何事かを耳打ちしている。王の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。
やがて、王は俺たちを手招きした。
「ヒロト、セリア。すまぬが、祝宴はここまでだ。…緊急の謁見要請が入った」
王の視線の先、謁見の間の入り口には、明らかにこの国の者ではない、異国の豪奢な衣装をまとった一団が立っていた。彼らの顔には長旅の疲労と、それ以上に、どうしようもない焦燥の色が浮かんでいる。中心に立つ、大使らしき男が、俺たちの姿を認めると、すがるような目で叫んだ。
「おお…! あなたが【奇跡の調停者】殿か! 我々は、東の大国、砂漠の王国アークライトからの使者! どうか、我々の国をお救いください!」
男は、その場に膝から崩れ落ちんばかりの勢いで、深く頭を下げた。
「我が国の守護神…偉大なる『太陽の船』が、一週間前から、その歌を止めてしまったのです!」
歌を、止めた? 意味が分からず首を傾げる俺の隣で、セリアが「まさか…」と息を呑んだ。
どうやら、俺がスプーン曲げで平和に暮らせる日は、まだ当分先のようだった。




