俺の名は。
今日も、目覚ましが鳴る前に起きた。鶏の大合唱がいつもよりうざったらしく感じる。訪れてほしくなかった朝が訪れた。
「明音……」
ボソリと呟いたその音は同時に鳴った目覚まし時計によってかき消されていた。
ーー今日は明音がここからいなくなる日。
あの帰り道から、明音とはなんとなく気まづいままでいる。登下校も別々だし、話す事もほぼなくなってしまった。そんな状態のままこの日を迎えたのだ。
そう思えば嫌でも目が冴えてくる。時間を無為に過ごすために、もう一度布団の中へ潜り、まどろみの中へもう一度戻ろうとする。だか、目を瞑り続けても眠気は訪れず、もんもんとぐるぐると明音との日々が思い出されていた。
ーー学校さえあれば、授業に集中できたのに。
今日は休日であり、明音が旅立つまでの時間はたっぷりとあった。タイムリミットさえ過ぎれば、きっとこの気持ちも楽になるのに。
利也は枕を頭に押し付けて、そんな事を考えていた。
「利也、ご飯ー!」
母さんの声がいつも通りに聞こえる。なんとなく、なんでか、ウザいからうるさいへ、そして話しかけるなと利也の心情は変化した。
ーー今は一人にしてくれよ。
一層強く枕で周りをシャットアウトして、利也は暗闇の中に身を潜めた。利也の重たい雰囲気を察したのか、母は肩をすくめそれ以上の接触を避けた。
それを素直にありがたいと思えないあたり、利也の複雑な感情が垣間見える。
いろんな思いが頭の中に渦巻いていながらも、ずっと目を瞑っていた利也はいつの間にか夢の中に落ちていた。
目が醒めると日は既に沈みそうで、かろうじて太陽の頭だけ向こうの山から顔を覗かせていた。
「はっ、今!今何時だ!?」
ーー確か、八時に明音は。
時計を確認して、今が七時前という事に安堵し、落ち着いたところで気づく。今更焦ったところでなんなのだと。もう、見送りもしない。別れも済んだと思っているはずなのに。
眠気は覚めてしまい、布団の中へもう一度戻ろうとは思えず、机に向かって教科書を広げる。
もちろん勉強に集中できるわけもなく、背もたれに体重をかけて天井を見上げ、時間が過ぎ去るのを待つ。秒針が動くのがとてつなく遅く感じる。それでも一定のリズムで音を出す時計の音に徐々に焦りが生まれる。
「焦っても意味ないんだって!」
自分で自分を叱咤する。むしゃくしゃした気持ちが抑えきれない。半ば泣きそうになっていたところで扉が乱暴に開いた。
「そんなに抑えきれないなら行けばいいんじゃない?」
怒っているような、悲しんでいるような、母はそんな表情をしている。ただ、見てられないという気持ちは伝わってきた。
「か、母さんには関係ないだろ」
それを聞いた母の表情はものすごい剣幕で怒鳴り立てる。
「関係ない?あるわよ、大アリよ!あんたたちが仲良くしてるのいつから見てると思ってんの!?本当最後の最後で見てらんない。本当見てらんない!!」
一歩、また一歩と近づいてくる。普段おちゃらけているだけに、真剣さが伝わってくる。
「俺が行っても意味ないだろ!」
「確かに明音ちゃんが行かなくなるって事はないだろうね。けど、心は!気持ちは変わるはずだよ」
図星を突かれて、利也は顔を俯ける。唇を思いっきり噛み締めて、溢れそうな思いを必死で留める。
「これだけ言ってもあんたは。はぁ。ちょっとこっちこんね!」
無理やり手を引かれて誘導される先は玄関。さすがに母の思惑を察した利也は、
「何すんだよ!行かないって言っとるやんか!」
「なんでもいいけんとにかく行っといで!」
外へ放り出された。すぐに鍵が閉まる音がして、すぐに扉を開けようとするがもちろんガチャガチャと音のするだけで、一向に扉が開く気配がない。
「なんなんだよ、くそっ……」
利也は諦めて、ふらふらと歩みを進めることにした。駅に行くわけにもいかず、近くの公園のベンチに腰をかけ、時間をつぶすことにして、頭とは関係なしに焦る心を落ち着かせる努力をする。
ーーあと、一時間もないのか。
公園に備え付けられている時計を見れば、七時半を過ぎていた。長い長い一日もついに終わりを迎えようとしている。
騒がしい心を落ち着かせる為に、瞑目し深呼吸をする。目を開けた刹那、見えるはずのない人物がそこに立っていた。
ーー何故か伊藤さんがいる。
幻覚かと疑ったが、頬をつねってもビンタしてももう一度目を瞑っても消えない。そこでやっと現実なのか?と疑問を持ち始めた。
伊藤はというと利也に近づいてきて、利也の座っているベンチに腰掛けた。
「よぉ、利也。元気に……してはないよな」
「明音のところには行かないのか?きっと明音も来てほしいだろうよ」
「見たらわかるでしょ、この通りですよ。それよりどうしてこんなところにいるんですか」
伊藤からの反応はない。目線も交わらず、伊藤は夜空を見上げ、火をつけていたタバコを咥えて煙を吐き出す。
ーーもしかしたら、伊藤さんは俺のこと見えてないのかも。
そう利也は思ったのだが、伊藤は利也に向け語りかけてくる。
「あの時、後悔するなって俺は言ったはずだよな。今頃、明音はもう決めてるはずだぞ。男のお前なんかより、しっかり前を向いてさ」
ーーそれくらい知っている。明音は煌めいているから。
そう、利也は自分で理解しているのだ。明音は強い女の子という事も、今の自分が酷く情けない事も。
それでも踏み出せない自分に失望さえしているのだから。
一匹の鈴虫の音色と風の音だけが二人の間に存在する。また、伊藤はタバコの煙を吐き出した。
「入れ替わりがあって、完全に俺の記憶と利也の今が一致しているのかは俺には分からない。あれから入れ替わりもなくなって、現状を知る事もできないしな。でも、今日この日に明音が旅立つのは変わらないはずだよな」
「明音が俺のことなんか待ってないって思うんだよな。んで、俺はお前の未来を応援してるって。明音の決意の邪魔になるって。でも、心の奥ではこうも思ってるよな?明音の決意は揺るがないって。だって一番近くで見てたんだもんな」
伊藤はタバコの灰を落とし、悟った風に話しかけてくる。
「そうです。その通りですよ。だから行っても意味はない」
ーー意味は……ないのだ。本当に、本当にそうなのだろうか?
「お前がここにいなくて、俺の独り言になっているなら万々歳だ。元々独り言なんだけどな」
伊藤はベンチから立ち上がり、またタバコを吸う。
やはり、伊藤は自分の事は見えていないようだ。でも、それは独り言ではない。利也の中で独り言と片付けるにはあまりに心を抉る。心をざわつかせる。
「あの場所に行けとは言わない。ただ、利也自身の後悔がない道を選ぶんだ。
ーーお前はもうその道を知ってるはずだろ?」
ーーそうだ、何をすべきか俺は気づいているんだ。
その一言が、今日一日を。否、決別を決めたあの日からの自分の愚かさを気づかせた。
「俺のすべき事は……」
口に出さなくても、分かる。知っている。
ーー明音に会おう!!
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伊藤はタバコを地面に置き、足で火を消した。そして、手を差し伸べてくる。
利也は至って落ち着いている。心に迷いはもう無い。あるのは明音に対する思いと、たった今、本当の意味で気づいた気持ちだけ。
差し出された手を掴み、引っ張られる。それから、足元のタバコ見てそう言えばと思い、
「タバコのポイ捨ては、ダメですよ。伊藤さん」
「分かってる、後で拾っとくよ」
何気ないやり取りが、二人を微笑ませる。
「もう、自分で言っててわかんないんですか?自分で決めろとか言いながら、結局はそうやって明音に会いに行かせようとしてるでしょ。矛盾してます」
とはいえ、自分の気持ちに気づかせてくれた事に感謝はしてる。会いに行きたくて、会いに行くべきなのだから。
伊藤自身もそれがただの冗談と分かっていて、口を開く。
「やりたいようにしろとは言ったな。お前は俺で、俺は未来のお前なんだよ。お前のやりたいことなんて分かってるに決まってる」
衝撃の事実に、利也は驚かない。やはりそうかと納得する気持ちの方が断然大きい。伊藤が未来の自分なら、電話がつながらないことも、同姓同名なことも、明音を知っていることも、俺の気持ち全てを理解していることも辻褄が合うのだ。
自然と笑いがこみ上げる。顔をくしゃくしゃにして笑い、内に溜まったものを全て開放した。伊藤もなぜか笑っていて、一層可笑しかった。
「よしっ!!」
ーー急ごう。明音の元へ。
「それじゃあ、行ってこい!走れ!!」
バシッと背中を叩かれたが、それすらも走り出す速度上げる要因にもなりえた。
自分で自分に感謝するというのも恥ずかしくて、心のうちで。しかしはっきりと告げた。
ーーありがとう、と。
* * * * * * * * * * * * * * *
それからの利也は今までにないスピードで自転車を漕いでいた。
残り時間は十分程度。飛ばして飛ばして間に合うかと言う具合だ。
焦る心が体を追い越しそうになる。必死に体を前に前にと押し出す。
足に乳酸が溜まり始める。しかし、いつもよりも疲れを感じるのが遅い。
火事場の馬鹿力というやつなのか、それとも伊藤が利也の体ではしゃぎまわった時の産物なのか。
よく分からないが、それならそれで都合がいい。飛ばせ、自転車を。飛ばせ、俺自身を。飛ばせ、俺の心を。
ーー間に合え。
駅の灯りが遠くに見えた。
ーー間に合え!
さらに、その灯りは近づいてくる。
ーー間に合え!!
電車はまだ来ていない。
ーー間に合え!!!
「明音ッ!!!」
乱暴に自転車を投げ捨て、駅へと飛び入る。
田舎の駅だけあって、改札はなく駅員のおっちゃんにお金を渡して、ホームに入場するシステム。だか、それすらも時間が惜しいのだ。
「おっちゃん、後でお金渡すから!」
田舎のコミュニティは狭い。だから、利也はこのおっちゃんのことも知っているし、おっちゃんもこの二人を知っていた。
冬間近なのに汗だくで、しかも必死の形相では言い寄る利也に、おっちゃんは全てを把握して、
「明音ちゃんはまだいるから、早く行ってこい!」
そう、発破をかけた。
一人だと思い込んでいた。好きな子が遠くに行ってしまう。それを応援する悲劇の主人公を演じていた。でも、それは違う。間違っていた。こんなにも暖かい人たちがいるのだ。
感謝してる、色んな人に。ありがとう、本当に。
ならば、それらに応えるためにも明音にきっちり伝えなければ。
階段を上りホームに着いた瞬間、線路の向こう側に明音が見えた。
「明音!やっと……」
向こう側へ渡る。額を流れる汗を腕で拭い明音の元へ急ぐ。
「……間に合った」
ハアハアと、息が切れて思うように言葉が出てこない。その間に明音の方の口が開いた。
「もう、会えないのかと思った」
顔を上げ、明音を見ると涙ぐんでいてやはり後悔する。
「このままじゃ、どうせ戻っても顔を合わせもできないんだろうなって思ったじゃない。寂しかったよぉ。……よかったぁ」
震える声で、ぽかぽかといささか重たいパンチに痛みを感じる。それ以上に、あの時の行いに痛みを感じた。
「もっといっぱい明音と遊べばよかったって。しっかり明音の話を聞けば良かったって。ちゃんと明音の本心を理解できてたらって、後悔してる。
でも、もうこれ以上後悔したくないから、ここに来たんだ」
呼吸を整えて、はっきりと口に出す。後悔したくないと。
同じだった背丈は、見ない間に少しだけ利也の方が大きくなっていた。
「私も、利也が来てくれて後悔はないよ?
ーー最後に会えて良かった」
泣きながら笑う明音がそう言った瞬間に、寂しさを実感する。ふと、利也からも涙が溢れた。溢れ出した涙は、堪えられず、次々と頬を濡らした。
「電車、もう来ちゃったね」
いくら離れたくないと思っても、時の流れは止まることなく残酷に二人を引き離しに来る。
甲高いブレーキの音が駅のホームに鳴り響き、扉が開く。
肩を震わせ、涙を流す。時間がないことを悟り、焦って言葉が纏まらない。
明音はそんな利也を見て、
「ありがとう」
それだけを言い残して、背を向け電車に乗り込む。
ーー行かないで。まだ言いたいことが山ほどあるんだ。
言葉を探しても出てこない。頭をフル回転させても出てこない。
だから、思っていることを言い繕うことなく、そのまま発した。
「ずっと俺、明音が好きだよ!!」
恥ずかしさも忘れて、大声で叫んだ。明音の方は一瞬びっくりした表情を浮かべたが、すぐに柔らかく暖かい笑みを見せた。
「ーー知ってるよ。本当にぃ……遅いんだからぁ」
電車のドアは閉まり、ゆっくりとゆっくりと出発した。
* * * * * * * * * * * * * * *
どこにでもいる冴えないおっさんの話をする。
そのおっさんは現在37歳。平々凡々なサラリーマン。特技はないが、自慢できることならある。
ーーそれはちょっぴり不思議で特別な青春を過ごしたことだ。
そんな男の名前は伊藤。
「俺の名前は……伊藤 利也」
男は今日も始まる気怠い仕事を前に、空を見上げこう思う。
「さてさて、今日も労働労働頑張るか!」
『俺の名は。』
<了>