エピソード2:家族ごっこ④
土曜日の夜、時刻は間もなく22時。
玄関の鍵をあけた政宗は、脇にあるスイッチを入れて廊下の明かりを灯す。
「……やっと帰ってこれたな。ケッカも統治もお疲れ様」
軽く振り向いて、後ろへ続く2人へ苦笑いを向ける。2番めに入ってきたユカが、風がない空間に安堵の息を漏らした。
「あー……寒かったー!!」
最後に入ってきた統治が、ドアに施錠しながら同意する。
「そうだな、流石に冷える。食事が不規則になることも増えるから、体調管理に気をつけよう」
「そうやね。お腹すいたー」
ユカはリビングの手前にある洗面所に入り、手洗いとうがいをすませる。家主が留守にしていた家の中の空気は冷たく、蛇口から出てくる水は鋭利な刃物のようだ。
「……冷たっ……」
肌をさす水温に顔をしかめつつ、これから聞くであろう『話』に対して、何を聞いても受け入れようと腹をくくる。
――ケッカと統治に、話したいことがあるんだ。急で悪いけど……今日の夜、時間作れないか?
翔子と正治が意気消沈のまま退室した『仙台支局』で、使った食器などを片付けているとき、政宗がポツリとこう言ったから。
ユカと統治はそれぞれに頷いて、夕方から夜にかけての仕事をこなし……今、3人だけで集まっている。
コンビニで買った弁当をレンジでチンしつつ、温かいお茶とインスタントの味噌汁も用意して。
いつものダイニングテーブルにそれぞれが腰を下ろすと、政宗が塩カルビ弁当の蓋をあけながら、口を開く。
「2人には、あんまり話をしたこと、なかったと思うけど……俺の父親は、俺が生まれる前に死んだんだ。母親はそこから、俺を育てるためにずっと仕事をしてるって……そう、思ってた」
覚えているのは、一日の大半を過ごした保育園と、1人で過ごしたアパートの一室。
母親の姿をまともに見るのは、入園式など、どうしても親の参加が必須の行事くらいだった。
仕事が忙しい中で時間を作って参加していた、それは事実だろう。
ただ、その『仕事』の中に……異父兄弟の子育ても含まれていたかもしれない、なんて、思いもしなかったけれど。
「俺の記憶の中にいる母親は、愛想笑いがすごく上手い人だった。体裁を気にして、園の行事に祖母を参加させるようなことはなかったけれど……彼女が見ていたのは、保育士や周囲の母親の視線だけ。俺の方なんて、見てもいなかった」
世間でも『児童虐待』という言葉がある程度浸透していたこと、また、外面の良さを異様なまでに気にする人物だったため、物理的に不自由することはなかった。
両実家とは一切関わりが無かったため、彼は祖父母の顔を知らない――幼すぎて覚えていないし、当然ながら誰かが母親代わりになってくれたわけでもない。母親は認可外の保育所などを駆使して働き続け、小学生になったら、彼に鍵を持たせて家から出ないように言いつけた。もしも出かけた先で怪我をしたり、他人に迷惑をかけてしまうと……自分が対処しなければならないからだ。
かろうじて食事を用意してくれていることもあったが、その全てがレトルトで……置いてあるのは500円玉だけ。それで、夕食と朝食を賄う。この金銭のやり取りだけが、彼と母親との繋がりだった。ちなみに、お釣りやレシートを請求されたことはない。母親にとっては、そんなはした金を受け取ったところで、何も変わらないのだから。
彼は母の手料理の味を知らないし、家族揃って食事をした記憶などない。
誰もが当たり前に持っているような思い出は、何も、ない。
不幸と呼ぶにはあまりにも残酷な偶然が重なり、彼の母親が仕事に逃げたことは、しょうがないのかもしれない。
でも、そのしわ寄せが全て子どもに向かうのは違う、と……誰も彼女に指摘する人がいなかったのだ。
母親に褒めてほしくて、彼なりに色々なことを頑張った。重ねてになるが外面の良さを気にする人物だったため、手がかからない、勉強も運動も出来る彼のことを、家の外では――例えば、入学式などでどうしても一緒に行動しなければならない時――謙遜しつつ自慢していたのだ。
家の中では一度も、顔を真っ直ぐ見てくれたことも、褒めてくれたこともないけれど。
そんな中、彼が小学校1年生の秋、母親が他界した。
体調不良を放置して機械的に働き続けた――ただこれも、今となってはどこまで事実だったのか分からないが――結果、手遅れになってしまったのだ。まだ若かったこともあってあっという間に進行した病気が、彼から唯一の家族を奪い去る。
「俺、母親の葬式には出たはずなんだけど……2人とは顔を合わせなかった、と、思う。マジで気付かなかった。それくらい、接点がなかったんだよな」
記憶の糸を辿って、何かを思い出そうとしても。
思い出すのは、名も知らぬ誰かの、こんな言葉だけ。
――両親がこんなに早く死ぬなんて、あの子は死神なんじゃないのか。
こう、呟いていたのが聞こえてしまった時は、思わず笑いそうになってしまったことは覚えている。
死神――生きている人間の命を奪い、死に誘う存在。確かにそうかもしれない。
しかし、死神は非日常的な存在だ。自分とは違う。
これは誰にも言っていないけれど、彼にとって、母親がいなくなったことは、日常の延長線上でしかなかった。
だって、家にはいつも……自分しか、いなかったのだから。
弁当を半分ほど食べたところで、政宗はインスタントの味噌汁をすすった。出汁と味噌の優しい暖かさが、口から食道、胃へと染み渡っていく。
すると政宗は、統治が食べている中華丼弁当を見つめ……何かを思い出したように目を細めた。
「レトルト食品って簡単で、美味しくなったよな……そうだ、保育園児に5日連続でレトルトの中華丼はしんどかった。味が濃すぎたことしか覚えてねぇし……統治、今度さ、美味い中華丼、作ってくれよ」
「ああ、分かった」
「ありがとな。それで……母親が死んだとき、俺の父親の兄にあたる佐藤彰彦さんが、俺を引き取ってくれたんだ」
天涯孤独になってしまった、そう思ったのもつかの間、彼を引き取りたいと言う男性が現れた。
亡き父親の兄だと名乗ったその男性――彰彦は、当時38歳。血のつながりのある甥っ子を、ずっと探していたという。
身長が180センチに届きそうな、ガタイの良い男性。はるばる宮城県からやってきた彼と、初めて都内のファミレスで顔を合わせた時、彰彦は……自分の弟に似ている彼を見て、人目もはばからず号泣してしまったのだ。
母方の性を名乗っていたこともあり、名字が異なる親族に半信半疑だったけれど……話をしていくと、むしろ名前なんかどうでもいいと思えた。それくらい、彼にとって彰彦は、人間らしくて大きな存在に思えたから。
「男2人になって申し訳ないが……俺のところでよければ、一緒に住まないか?」
特に断る理由がなかったため、彼は二つ返事で同意する。寂しい思い出しかないマンションの一室を引き払い、都会の喧騒とは真逆の海沿いの街・宮城県東松島市に引っ越しをした。
「俺のことは父親だと思わないでくれ。俺はお前のおんちゃん(伯父さん、という意)だからな」
そう言って笑う彰彦を、彼は『彰おんちゃん』と呼ぶことに決める。そう告げると、彰彦は「それでいい」と言って、大きな手で彼の頭をなでた。
「宮城での生活は、ずっと楽しかった。不自由なこともあったけど、伯父さん……彰おんちゃんは、それを笑って乗り越える、豪快な人だったから。今の俺があるのは、彰おんちゃんのおかげなんだ」
ここでようやく、彼の口調に余裕が生まれた。それに気付いたユカが、お椀を持ちながら口を開く。
「そうなんやね……会ってみたかったな」
「酒のつまみに質問攻めにされるだけだと思うぞ? おんちゃんの晩酌を見てて、酒って美味しんだろうなって思ったんだよな……」
彰彦はお酒が大好きで、仕事が終わると必ずビールや焼酎など、何かしらのアルコールを摂取して、同じことを繰り返していたものだ。
「早く大人になれよ、俺の晩酌に付き合ってもらわないといけないからな」
楽しかった。
彰彦と過ごした時間は、全て、彼にとってかけがえのない財産となっている。
例えば、ブルーインパルスが飛ぶ航空祭。毎年、自衛隊の基地で開催されている人気のイベントに、一度、連れ出してくれたことがある。
当日は人が多すぎて、待ち時間も長かったけれど……露店で時間を潰したり、他愛もない話をしたり。
2人で同じものを待っている時間は、とても、楽しくて。
刹那、周囲が一斉に上を向く。
つられて見上げた青空を、5台の飛行機が真一文字に横切っていった。
各々から噴射しているスモークが軌跡を可視化させ、空を彩る。
自分が出した歓声に彰彦が目を細めたことを、彼は知らない。
それくらい、夢中で追いかけていた。
その後も、コースを正確に、列を乱さず、迷いなく飛んでいくブルーインパルス。
空に描かれた大きなハートを、もう一台が射抜くように通り抜けた瞬間は、特に大きな歓声があがって。
初めて見る天空ショーは、あっという間に終わってしまった。
動画なんて残していない。写真は……あったかもしれないけれど、紛失してしまった。
ただ、その時のことは、感じたことは、今でも……比較的鮮明に思い出せる。
久しぶりに優しく目を細める政宗へ、統治は手元のお茶をすすった後……意を決して、続きを尋ねた。
「俺と知り合った頃は、既に佐藤さん……彰彦さんは他界されていたかと思う。ご病気だったのか?」
この問いかけに、政宗は首を横に振る。
「いや、事故だった。中学校の入学説明会の日に、突然……」
いつも通りの明日が――彰彦と2人で過ごす、いつも通りの日々が、ずっと、続くと思っていたのに。
ありがとうを十分に言うことができないまま、永遠の別れが訪れた。
もっと、一緒に遊びたかった。
もっと、一緒に食事を食べたかった。
もっと、色々な世界を見せてほしかった。
いつか、一緒にお酒を飲みたかった。
いつか、一緒に旅行に行きたかった。
いつか、大好きな人を紹介して、本当の家族になりたかった。
その『いつか』が全て、何も叶わないことを理解した、次の瞬間――
政宗は空になった弁当箱に蓋をしながら、淡々と、自身の経歴を語る。
「……中学校には入学したけど、なかなか、現実を受け入れられなかった。そんなとき、偶然、『縁故』の能力に気付いてさ、どこかに彰おんちゃんがいるかもしれないって、探し回った」
あることをきっかけに視えるようになった、特殊な世界。
この中ならば彰彦がいるかもしれない、何の根拠もなくそう信じていた。
「あのときの俺、片っ端から『痕』に話しかけてさ。今考えると、危ない橋だったよなぁと思うけど……必死だった。そんな俺に声をかけてきたのが、名杙領司さん――現当主だったんだ」
今にも雨が降りそうな、どんよりした曇り空の下。彰彦の痕跡を探すため、学校の裏庭をウロウロしていた彼は、自分に近づく『生きた人間の』足音があることに……露骨な警戒を示した。
灰色のスーツを着た、大人の男性。年齢は……彰彦と同じくらいだろうか。凛とした顔立ちと立ち姿が印象的な、迫力のある男性だ。
「末広くん、だね」
唐突に呼ばれた名字は、中学校に入学する時、彰彦と一緒に消えたものだ。
小学生の頃の名字は、母の旧姓である『末広』を使っていたため、それを知っている人間がいてもおかしくはない。ただ、小学校からの知り合いがいないこの中学校で、『佐藤伊織』という名前で過ごす日々を重ねてきた。
要するに古い名字で呼ばれることなど皆無に等しかったため……彼は顔に困惑を宿し、恐る恐る問いかける。
「あ、の……どちらさま、ですか?」
「この学校に息子を通わせている、保護者の1人です。名杙領司といいます」
低く落ち着いた声で言い放った彼――領司は、視え方を切り替えて彼の『縁』を確認した。今日までに彼のことはあらかた調べてある。勿論、『本当の名前』も調べがついているので、彼の『縁』を正確に把握することが出来た。
自分を古い名前で呼ぶ大人に、政宗は困惑しつつ、露骨な警戒心も崩さず……自分に近づいてきた用件を尋ねる。
「俺に……何か?」
そんな彼へ、領司が淡々と言葉を紡いだ。
「君が、佐藤彰彦さんの『息子さん』だと聞いたもので、一度、ご挨拶させてもらおうと思ったんです」
今の領司の言葉には、彼が決して「言われたくない」ワードが含まれている。
「――違う!!」
次の瞬間、彼は激高して領司を睨みつけた。
そして、大きな声ではっきりと言い放つ。
「俺に父親はいません!! 適当なことを言わないでください!!」
自分自身に言い聞かせるように吐き出した後、逃げるようにそこから立ち去ったことを覚えている。
そして、ユカと統治は、当主である領司が直接、政宗を訪ねた意味を、おぼろげに察していた。
彼の育ての親・佐藤彰彦は、『遺痕』認定されて……領司が対応をしたのだろう。
静かに続きを待つ2人へ、政宗は静かに結論だけを告げた。
「おんちゃんは、『遺痕』認定をされて……当主が対応していたんだ。俺がいつまでも『痕』に接触して、おんちゃんを探しているから……おんちゃんがこの世にはもういないことを、伝えに来てくれた」
領司から一連の事実を告げられたのは、政宗が生前の彰彦とよく遊んでいた、野蒜海岸だった。
話を聞いた時は、悔しくて、悲しくて……どうして自分は彼の息子として生まれてこなかったのか、そんな感情に支配されていた。
『因縁』は、人間が生まれたときに、両親から一本ずつ受け継ぐものだ。
例えば、政宗や仁義のように諸事情で養育する大人が変わったり、空のように施設で育つことになったとしても、『因縁』は変わらない。
政宗がどれだけ願っても、『縁故』的には彰彦の実息になることができないのだ。
「それから……当主が定期的に俺と話をしてくれて、『縁故』や『良縁協会』のことを知った。それで、福岡で研修合宿があって、自分の息子も参加するから、参加してみないかって誘われたんだ」
政宗はそう言って、苦笑いで統治を見つめた。そして次に、隣に座るユカへと視線を向けて……目を細める。
「あの時は、何か変わるキッカケになればいいって思ってたけど……2人に出会えて、今の俺になることができたから。当主にも、統治にも、ケッカにも……俺を支えてくれた人、信じてくれた人には、本当に感謝してる。だから……」
政宗はここで言葉を区切ると、脇に置いてある自身のスマートフォンへと視線を向ける。真っ黒な画面だが、着信を知らせる緑色のランプが、先程からゆっくりと点滅をしていた。
彼は電源ボタンを押して相手が誰なのかを確認した後、再び同じボタンを押して画面を消灯させる。そして、背もたれに体重を預けると……天井を見上げ、息を吐いた。
「だから、さ……急に母方の妹とか弟とか、祖母とか言われても……正直、困るよな……」
彼の中に残る、正直な思い。それを聞いたユカと統治は互いに顔を見合わせた後、それぞれの考えを語る。
「政宗がそげん思うのは、当たり前だと思う。急に訪ねてきて、一方的に語られて、それを身内だからっている理由だけて受け入れろ、げな……押し売りと同じやんね」
「あの2人が佐藤に求めているのは、金銭的な援助だけのように思える。佐藤の身内に対して、あまりこういうことは言いたくないのだが、少々独善的すぎるように感じてしまうな」
少なくとも、自分たちは味方だと伝えると、政宗が安心した表情で肩をなでおろした。
「2人とも、ありがとな」
「ただ、今日のやり取りで終わったと考えるのは気が早いな。先程からの電話は、彼女たちだろう?」
「そうなんだよなぁ……」
政宗は心底うんざりした表情で、スマートフォンのランプを見つめる。
「書類が届くまでは無視してもいいよな……着信拒否すると、また騒がれそうだし」
「それでいいと思う。他にも何か、法的に手を打てればいいのだが……」
こう言って思案する2人へ、ユカが「はい」を手を上げて意見を述べた。
「孝高さんか瑠璃子さんあたりにでも、何となく聞いてみる? こういう対応は福岡の方が場数を踏んどると思うし」
この提案に政宗は「そうだな」と首肯しつつ……水を飲んで、息を吐いた。
「今は向こうの出方を待って、収まらない様子だったら考えるよ。2人とも、本当にありがとう。マジで2人がいなかったら……俺、潰れてたと思う」
こう言って乾いた笑いを浮かべる彼……の手元、握られた2本目のビール缶を、ユカがジロリと睨みつけて。
「そげん思うなら、お酒の量も控えてよね。今月は忙しいっちゃけんが」
「は、ハイ……気をつけます」
政宗はすぐにそれから手を離し、決まりが悪そうに視線をそらす。
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだことに、ユカは内心で安堵しつつ……同時に、政宗はまだ、全てを話したわけではないことも、なんとなく、感じ取っていた。
政宗の本名として、下の名前『伊織』は第7幕で公開していました。今回遂に、名字が揃いました!! 『末広』さんです。多分今後あまり使わないかと思うので私が忘れないように気をつけます!!
由来としては、彼の境遇を反対にしたような、なんかめでたい名字にしたくて。『末広がり』から取りました。性格の悪さが伺えます。あと、仙台市内に漢字が違うけど読みが同じラーメン屋さんがあるので……ラーメン食べたいなぁ、と、思ったからです。そんなもんです。
そして、本文中のイラストは、過去に描いていただいたものを盛大に活用させていただきました!! 1枚目、時也さんに描いていただいたこれは、彰彦といえばこのイラスト、というくらい使わせてもらっていますね。この、信頼出来る大人の表情をしている彰彦がいいんだ。どうして死んでしまったのか……。
からの2枚目。海岸で泣き崩れる伊織は、3幕公開時におが茶さんが描いてくださったものです。自分を責めまくっている悲痛な表情が良いのです。伊織として泣いている姿も貴重なのではないかと思いながらニヤニヤしています。
本作は本当にありがたいことに、絵的な貯蔵が潤沢です。私は1枚も描いていないのに。恵まれたご縁に改めて感謝しつつ。今後も大切に使わせていただきたい所存です。




