よん
アンバイタスの大通り。
辺境伯になったばかりの頃はこの地に頻繁に巡視に来ていた。
ここは我が領にとっても国にとっても最前線の要所である。
領民たちが町をあげて歓迎してくれている。『ご結婚おめでとうございます』と。
現地に忍ばせた情報員からの報告では、妻は『メル』と名乗って一人で住み、外国語に堪能なことや字が綺麗なことから翻訳と代筆で生計を立てているという。町の人との関係は良好で、付き合っているような男もいないと。……いても関係ないが。嘘、泣く。
通りに面した建物の屋根裏部屋に人影があった。上手く隠れているが、そこにいることが既に分かっているこちらとしては気配で分かる。
アマデオの予想どおり、妻は自分の滞在中、部屋に引き籠もるようだ。
サヴェリオ・ルーセンベリとの王命による結婚が無効になり、元夫はドレスを贈るような親密な女性と結婚し、この地には視察に来ただけだと思っているようだ。
……自分の所為とはいえ、傷付くな。自分がどれだけ妻を愛しているか、妻本人に全く伝わっていなかったということだ。
ベケネ家の仇を取ってからという自分の中のけじめなどに拘らなければ良かった。そんなものに拘って、些細な誤解で妻を不安にさせて、浮かれた自分はその不安にも気付かずに妻を傷付けた。
今日、捕まえてもう離さない。
「サヴェリオ様、顔」
アマデオに指摘されて無表情に戻す。
いかんいかん、愛する妻をこの手に取り戻し、デロデロに甘やかすことを想像したら顔が緩んでしまった。
逸る気持ちを抑え、ぱからぱからと大通りを騎乗で進む。「領主様おめでとうございます」と祝ってくれる領民に対してにこやかに手を振り応える。
ああ、祝ってくれ。
我が愛する妻と共にこの領地を守り抜くことを誓おう。
代官邸の敷地に入ると、クルトとその家族が出迎えてくれた。
にこやかに応じた自分を見て怪訝そうだ。……まあ、自分はこの癖の強い男を苦手としているが、今日はそんなことどうでもいい。
代官の執務室に入り、定例の報告を受けた後、妻のことをクルトに告げると、クルトはぽかんとした。……この男には珍しい顔だ。
「ぶはっ!」
後ろでアマデオが吹き出した。
「アマデオ……お前か」
睨み合ってから頭突き合って手を握り合っての力比べの結果、アマデオが勝利した。
確かにクルトにも言わないように進言してきたのはアマデオだが、最終的に決めたのは領主の自分だよ?
まあ、この二人にとってはこれも仲良し遊びの一種なのだろう。ここに父がいなくて本当に良かった。……手が付けられなくなるもんな。
「というわけで、夕方、捕縛してくる。夜はこちらで過ごすから、準備をよろしく頼む」
クルトは溜め息をついて了承した。
「……」
建物を見上げた。
今更緊張してきた。
ここでラーラが暮らしていると思うと、柱のささくれさえも輝いて見える。
クルトによると、妻がこの町に来て二年くらいだという。それは、領主館を出奔してほぼ真っ直ぐアンバイタスにたどり着いたということだ。その道中で我々を散々欺いてきた情報の芽を植えていったのだ。
今度はそのことでアマデオがクルトに鼻で笑われていた。
自分の仮婚約がなくなったのはベケネ家を始めとした外交官たちのおかげである。その裏で、彼らが自分自身を守るためにこのような自衛ともいえる術を身に付けざるを得なかったかと思うと、胸が痛んだ。
自分はあまり情報戦や権謀術策には向いていない。武力で押し切る方が簡単だし性に合っている。そういうのは父やアマデオ、父が育ててくれた人材が適材適所にいる。……皆、癖が強いけど、領民のために同じ方を向いて働いてくれている。本当に、癖が強いけど……。
商会の事務所は既に無人だった。クルトの伝で鍵は預かっているので、建物に普通に入る。足音を消したりしない。むしろ足音を消した方が勘の良い妻にはすぐに気が付かれるだろう。建物に階段は一つだけ。そのまま足早に上がりきり、妻の部屋の扉の前に立つ。
さあ、泣いても叫んでも話を聞いてもらわねばならない。
……妻よ、覚悟。
ノックをするが返事がない。
見張りから、今日は妻が建物から出ていないことは確認している。
扉には鍵がかかっていたが、簡易式なのですぐに開けられた。……こんなもの施錠とは言えない。こんな部屋に二年も妻がいたとは。自分に対する怒りが沸いてきたが、息を吐いて落ち着かせながら扉を開けた。風が扉を抜けていった。
「ラーラ、私だ」
寝台と机と棚があるだけの部屋。寝台には本がたくさん積んである。きっと引き籠もっている間に読もうとしたのだろう。
隠れる場所は寝台の下くらいだが、気配がない。
閉まりきっていない窓を開けると、屋根に足跡がついていた。危なげない軌跡を描き、隣の建物の前で途切れている。
逃げられた。
もうバレているのであれば、コソコソする必要はない。
「アマデオ、逃げられた。総動員で居場所を突き止めろ」
短く「は」と返事をしたアマデオは、「……顔」と呟いて指示を出しに出て行った。
もう取り繕わなくていいだろう?
あとは捕まえるだけなんだから。
報告はすぐにきた。酒場の二階に部屋を取ったという。
今日くらい泳がせて、朝方に捕まえようとも思っていたが、とんでもなかった。
酒場の二階など連れ込み宿ではないか! 元夫が追いかけていると知って、連れ込み宿ってなんだ!? 付き合っている男はいないと報告はきている。誰でもいいから連れ込んだのか? 誰でもいいから!?
全速力で酒場の二階に踏み込んだ。アマデオの「顔!!」は無視した。
扉を蹴破ると、妻が驚いた顔で一人立っていた。
「ラーラ!!」
びくりと肩をはねさせた妻は、「なんでなんでなんで???」という顔をしていた。誘っているのか!?
妻を抱き締めると、妻は身体を硬くしたが離すものか!!
「……相手はどこだ」
自分でも驚く程低い声が出た。
「アイテ」
妻はオウム返しに言った。
「一緒にいた男はどうした?」
「オトコ」
「まさか、自分だけ逃げたのか!?」
こんな可愛い妻に連れ込まれて、一人置いて逃げたというのか!? 残っていたところでぶっ倒すだけだが!!
「ニゲタ」
「卑怯な……っ!」
「ヒキョウ」
妻を更に抱き締める。
すると、意外に冷静な声で妻が言った。
「たとえ私が男の人とこの部屋にいたって、もう何にも関係ないでしょ」
関係ないわけあるか!!
「やはり男といたのか!? ラーラは、その男がす、好きなのか?」
……逃げた男を庇っているのか?
「たとえと言いました」
「では、一人か?」
そうだと妻が頷く。
ラーラ、ラーラ、ラーラ、何回呼んでも呼び足りない。
やっと捕まえた。
「あの、領主様?」
「領……、なんでそんな呼び方をする!? ちゃんと名前で呼んでくれ!」
誤解を早く解かねばならん。妻の中では自分はもう夫ではないのだ。
逃がしてたまるか……!
「名前って……。一領民が恐れ多いです。とりあえず、離れてください」
絶対嫌だ。
「嫌だ、妻よ」
妻、とそう言った瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
「……は?」
妻のそんな声、聞いたことがなかった。
心の底からの怒りの声だ。
早く、早く誤解を解かねば……!
「君は、妻だ。私の妻だ!! なのに君は……」
最後まで言わせてもらえなかった。
足にとんでもない衝撃がきた。思わず「ぐお」と空気を吐いて腕の力が一瞬緩んでしまった。
その隙に妻が腕から抜けて走り出した。
「ラーラ!」
妻は振り向かずに走り去った。
足は折れてはいない。折れてはいないが、……ガチで痛い。
「奥方様!?」
アマデオの声が階下から聞こえてきた。自分で捕まえたかったが、とりあえず話をしないことには誤解は解けない。アマデオが妻を確保することを期待したが、階段を降りた自分の目に映ったのは、アマデオたちさえ躱して酒場を出て行く妻の後ろ姿だった。