に
「ベケネ子爵が……亡くなった……?」
思わず声に出てしまった。
こと、国防に関わる案件に、我が王は使者を立て御璽を押した勅命書など持たせない。そんな無駄な時間はかけないのである。
我々のような王命直下で迅速に動かねばならない者は、王命を間違わない。王命の伝達方法を間違わない。
間違いなく王命であり、内容に偽りなど無いことは分かりきっていても、理解に時間を要した。
そこには、ベケネ一家の馬車が隣国で事故に遭い、一人娘であるメルルラーラを残して全滅し、そのメルルラーラの行方が知れないことが端的に書かれていた。
そして信じられない一文で締めくくられていた。
メルルラーラを保護次第、婚姻せよ。
ベケネ家とルーセンベリ家では、お互いに有事があった際、密かに家族領民を保護する約束を結んでいた。もちろん王も知ってのことである。
一人生き残ったメルルラーラは保護を求めルーセンベリを目指すだろう。家同士の約束に基づく後ろ盾ではなく、夫として正々堂々と妻を守れと、王命が下ったのだ。
それは、メルルラーラには、誰からも横やりが入らない強固な保護が必要で、ルーセンベリ家に『客』として迎え入れただけでは足りず、容易に断れない者からの求婚で連れ出されてしまうことを王が想定しているということだ。
十五歳。確かに成人している。だが、十歳のメルルラーラの姿が脳裏に焼き付いている身としては『婚姻』に二の足を踏んでしまう気持ちも拭いきれない。
「私情は後回しだ……」
まずは一刻も早く身柄を確保せねばならない。
またしても事故が起こらないとは限らない。一刻も早く、メルルラーラをこの手に。
メルルラーラを保護した時の怒りを今も忘れられない。
長く美しかっただろう髪は自分よりも短く。
ひたすら歩いてきた足は豆が潰れ歪に固くなり。
碌に食べることが出来なかった身体はあばらが浮き。
少年に身を窶し、持ち物は小さな鞄一つ。
父と母と命がけで自分を助け出した護衛や侍女たちに報いるためだけに、震える足を一歩でも動かし、ルーセンベリを目指して来た。
自分が死んだら負けだ、と。
誰が思い通りになってやるものかと、瞳だけは輝きを失わずに。
水を一杯飲ませただけで、婚姻誓約書に署名させ、誓いの口付けを額に落とした。
花嫁衣装も誓いの言葉もなかったが、これでメルルラーラ・ベケネはメルルラーラ・ルーセンベリとなった。
妻に手を出してくる奴は叩き潰す。
義父を義母を、妻を守った護衛たちを死なせた事故の関係者の全ても叩き潰す。
サヴェリオ・ルーセンベリの名にかけて。
「また見てる。気色悪い奴じゃな」
「……妻を見て何が悪いんですか」
領主館の別館は少し小高い所に建っており、本館の庭の一部を見下ろすことが出来た。その庭で妻が散歩をしている。てとてと歩いているだけなのに可愛い。
「妻、ねえ? ならばとっとと抱けば良かろうに。ワシが二十代の頃は、朝から晩まで馬に乗って剣を振り回し、夜はエレイアに乗って……」
ん゛ん゛ん゛っと咳払いをして、話を遮る。祖父母の艶事など孫に聞かせるなよ。
「私たちには私たちの進み方があるのです。じいさまのように、酒場で会った四十も歳下の女性を数分後には寝台に連れ込むようなことは、とてもとても……」
祖父は英雄色を好むを地で行く下半身の緩さで、祖母にしっかり管理されていた……と父から聞いたのは、つい最近の話だ。容貌が似ているのに中身は全く似なかったなぁ、とポロリと父は漏らし、祖母がどれほど苦心していたか、父は息子として思う所があるようだった。
反面教師にしっかり教育された父は、母一筋だ。
祖父も節操はなかったが、祖母を愛していたのは事実だ。祖父の心と下半身は別人格だと、祖母は苦笑いしていた。そんなことを孫に説明しなくてはならなかった祖母の心境はいかばかりであったか。どんなに周囲に離縁を勧められても祖母は頷かなかった。その心は祖母だけのものである。
老いてもなお、非常に積極的で元気な祖父は、祖母を病で見送り、息子である父が辺境伯を引退した後、自分の役目は終わったと思ったのか、箍が外れたように女性と付き合いだした。
金も時間もある独身じじいは何故かモテた。そしてモメた。女性たちがじじいを取り合ったのだ。
父は何度か後始末をしたのをきっかけに、先日、祖父を領主館の別館に軟禁した。
いや、父上。……父上は領主館に住んでないよね?
また丸投げされたのに気が付いた時には、週に数回は祖父とお茶という名の状況確認が習慣になってからだった。
「何が進み方、だ。女性は言葉と態度で示さなければ愛情を確信出来ん生き物だぞ? 結婚当初はラーラも十五でボロボロだったとしても、今では十八となり、健康な適齢期の女性だ。お前まさか、『やりたいやりたいやりたいやりたい』と性欲ダダ漏れでよだれ垂らして隠れて見ていることが愛情だと思っておるのか? コアじゃのう。相手にとって『愛されている』と感じる要素が何もないではないか。なんならワシが……」
「くそじじい! 放っておけっての!」
思わず手が出てからの取っ組み合いになり、そのまま鍛錬に移行した。
……いつものことだが、祖父にいいように遊ばれている。悔しいが、化け物に勝てるのは持久力だけだ。それほど、祖父は別格の強さを今も保ち続けている。
「今回もワシの勝ちじゃのう! お前は悪くないんじゃが、まだまだ弱いんじゃよ」
組み伏せられながら祖父を睨み付ける。腕の関節がきまっていて抵抗出来ない。
「じゃあ、祝いの席用にスザンナにとびきりのドレス贈りたいから、諸々よろしくな!」
稽古を付けてやったお代にと、今の恋人のドレスを要求し、祖父はスキップして部屋に戻っていった。
いや、ドレスって、単価高すぎるだろうが!!
心の中で悪態をついても、十回に一回は祖父のおねだりを聞くように父から言われている身としては、家令を呼んで縫製職人を手配させる。
家令は「あまり締めすぎると暴れ出しますから、今回は希望どおりがよろしいかと」と粛々と手配してくれた。……長く勤めてくれているだけに、苦労が滲み出ていた。ウチの血筋がなんかすまん。
部屋に戻るだろう妻の後ろ姿を見ながら、気持ちが逸る。
もう少しだ。もう少しで、祖父の言う『祝い』だ。
あと一人潰す。これでベケネ家の事故の関係者は全て破滅だ。
これによって隣国の王家はまた変わることになるだろうが、手を緩める気は無い。
それが終わったら、妻に求婚し直すのだ。王命ではなく、ちゃんと望み望まれた夫婦となりたい。そしてきちんと結婚式をして皆に妻を披露するのだ。
今までは顔を覚えられると危険が増すため、妻を領主館の敷地から出すことはなかったが、これからは皆に顔を見せて堂々と妻が妻であることを自慢出来る。
皆、密かにこの祝いの準備を進めてくれている。
この三年で、館中で妻を甘やかせるだけ甘やかした。
最初はビクビクしていたし、王命による保護であることは妻も承知しているから、いつか終わりが来ると思って諦念しているのが見て取れた。
一日一日、一分一秒、妻を大切にした。
妻は自分の名前が長いのが気に入らないのか、ずっと『メル』と名乗ってきたようだ。調べられればすぐに分かることだが、少しでもベケネ家の者であることを隠すため、この館では皆で『ラーラ』と呼ぶことにした。
ラーラと呼ばれた妻は、しばらく呼ばれ慣れなかったのか、呼ばれたのに気が付くのが遅れると、赤くなって「……はい」とか細く返事をした。これがまた可愛かった。
髪は日に日に伸び、一つ結びが出来るようになったら付け毛を付けて結わえば何の違和感もなかった。自分の目の色の髪留めを贈ったら真っ赤になっていた。これもまた可愛かった。
よく食べるようになって体つきは娘らしい曲線となり、夜中に魘されて飛び起きることも少なくなった。
元々護身術は嗜んでいたようだが、体力が戻るにつれて鍛錬を始めた。妻はもう、一人守られるのは嫌だと思っているようだ。
ふと妻が振り向く。
目が合う。
お互い、はじけるように笑った後、照れてはにかむ。
妻が愛おしくて愛おしくて仕方ない。
妻も熱の籠もった眼差しで自分を見てくれている。
一度でも愛を告げれば、全てをむさぼり尽くしてしまうだろう。
まだだ、あと一人だから待っていて。
王命による結婚など無効にし、その場で君に跪いて愛を請うから。
はにかんで受け入れて欲しい。
愛している私のラーラ。