やさしさの距離
新井一が葉山文乃を好きだということは、高校二年の後半には、あまり秘密ではなくなっていた。
彼が何か言ったわけではない。新井という人間は、「好きです」と言うだけでも、まず下書きを作り、天気予報を三回確認し、最後には相手に負担をかける気がしてやめてしまうような人だった。
それでも、彼が文乃にとても優しいのは確かだった。
文乃が日直の日には、彼は残って黒板を消した。
文乃がペンを忘れると、彼の机には必ず一本余分に新品のペンがあった。
文乃が数学の間違えた問題を分からないと言うと、彼は途中式をとても細かく書いた。隣のクラスメイトが見て、「それ、遺書でも書いてるの?」と言うほどだった。
新井の友人が言った。
「お前、分かりやすすぎるよ」
新井は言った。
「分かりやすい?」
友人は言った。
「葉山さんに一問説明するのに三色のペン使ってるじゃん。俺に説明するときは『答え見ろ』しか言わないのに」
新井は少し考えて言った。
「お前は自立を覚えるべきだ」
友人は言った。
「ほら、葉山さんにだけ違う」
新井は否定しなかった。
ただ、こう言った。
「困らせたくないんだ」
それが彼の原則だった。
誰かを好きになるなら、相手を困らせてはいけない。冷やかされるようにしてはいけない。噂に押されて動かされるようにしてはいけない。何かを借りているような気持ちにさせてもいけない。いちばんいい優しさとは、静かで、軽くて、跡を残さないもののはずだった。
友人は聞き終えると、数秒黙り、言った。
「その考え方、なんか高度だな」
新井はほっとした。
その日から彼は、高度な人間になろうと努力し始めた。
最初に問題が起きたのは、席替えだった。
文乃はずっと数学があまり得意ではなかった。ある休み時間、彼女は新井に聞いた。
「次も後ろの席になるかな」
彼女はとても何気なく聞いた。手の中でペンを回し、目は黒板のほうを向いていた。
新井は言った。
「たぶん」
文乃はうなずいて言った。
「それならよかった」
新井は、そのあと一時間ずっと考えた。
「よかった」とはどういう意味だろう。
自分に後ろに座ってほしいという意味だろうか。
それとも、ただ何となく言っただけだろうか。
もし彼女が数学を質問したいだけなら、隣に座るべきなのは高橋のほうではないか。高橋は数学が得意で、字も読みやすい。性格も明るく、誤解されにくい。
午後、担任が席替えをすることになり、何か希望や事情がある人はいるかと聞いた。
新井は立ち上がって言った。
「先生、僕は後ろのほうならどこでも大丈夫です。高橋は数学が得意なので、葉山さんの近くにしたら、質問しやすいと思います」
クラスの誰かが「おー」と声を伸ばした。
新井はすぐに言った。
「最近、葉山さんは数学で少し大変そうなので、高橋のほうが合っていると思います」
それはとても客観的な言葉だった。
客観的すぎて、文乃はうつむき、彼のほうを見なくなった。
新しい席が決まると、高橋は本当に文乃の隣になった。新井は窓際の後ろから二番目の席になり、二人の間には三列分の机があった。
友人が彼の肩を叩いた。
「すごいな」
新井は聞いた。
「何が?」
「身を切って成就させた」
新井はその言葉が少し重すぎると思った。でも同時に、少し安心もした。
その日の午後、文乃はもう彼に数学を聞かなかった。
高橋の説明は、たしかにうまかった。新井は三列の机越しに、文乃がうなずき、ペン先を計算用紙の上で動かしているのを見た。これでいい。
彼女がよくなるなら、それでいい。
二度目の問題は、雨の日だった。
その日の放課後、雨はひどく降っていて、校舎の入口には人があふれていた。文乃は階段の上に立ち、鞄を胸に抱えていた。制服の袖口が風に揺れていた。
新井は傘を持っていた。
彼女が持っていないことにも気づいていた。
友人が肘で彼をつついた。
「チャンス来たぞ」
新井は傘の持ち手を握ったまま、動かなかった。
もしあんなに大勢の前で歩いていって、「送るよ」と言ったら、周りは必ず冷やかすだろう。文乃は気まずくなる。彼を傷つけないために、断れずにうなずくかもしれない。
それはよくない。
彼は少し考え、人混みが乱れている隙に裏口から廊下へ回った。文乃のそばの柱の横に傘をそっと置き、反対側の階段から降りて、雨に濡れながら校門を出た。
翌日、彼は少し微熱を出していた。
友人は言った。
「偉大だな」
新井は鼻をすすった。
「言うなよ」
「大丈夫。俺、口は堅いから」
三日後、クラス全員が知っていた。
でも文乃は知らなかった。
彼女が知っていたのは、あの日、自分が校舎の入口で長いこと立っていたこと。新井が傘を差して別のほうから歩いていくのを見たこと。あとになって自分のそばに一本の傘があり、名前がなかったこと。何人かに聞いても、誰も知らないと言ったことだけだった。
傘はきれいで、持ち手に小さな透明テープが貼ってあった。
彼女はそれを落とし物置き場へ返した。
新井はあとで見に行った。
その傘は、まだそこにあった。
三度目は、噂だった。
高校二年のクラスというものは、いつも暇だ。たとえプリントが山ほど積まれていても、誰かが誰かを好きなのかどうかを気にする余裕だけは必ずある。
誰かが、新井は文乃のことが好きだと言った。
誰かは、文乃も新井を嫌いではないと言った。
「そのうち付き合うでしょ」と言う人までいた。
文乃はそれを聞いた。
認めもしなかったし、否定もしなかった。ただうつむいて問題を解き、耳が少し赤くなった。
新井が立ち上がった。
文乃のペンが止まった。
新井は言った。
「変なこと言うなよ。僕と葉山さんは普通の友達だから」
教室は一瞬静かになり、すぐにまた数人の「へえー」という長い声が上がった。
新井は続けた。
「そういう冗談は、人に迷惑をかける」
言い終えると、彼は座った。
友人が小声で言った。
「いいね、名誉を守った」
新井は何も言わなかった。
自分は正しいことをしたのだと思った。
その日、文乃は鞄をしまうのが遅かった。同じ問題集を一度入れ、取り出し、また入れた。高橋が何か忘れ物でもしたのかと聞くと、彼女は「ううん」と答えた。
それから、二人に関する噂はずいぶん少なくなった。
本当に、きれいに少なくなった。
四度目は、文化発表会だった。
文乃は先生に朗読を頼まれた。あまり乗り気ではなかったけれど、最後には引き受けた。普段は落ち着いて話す彼女も、本番前には手のひらに汗をかいていた。
発表会の前日、彼女は新井に聞いた。
「明日、見に来る?」
新井は言った。
「来てほしい?」
文乃は彼を見て言った。
「どっちでも」
新井は「どっちでも」が一番苦手だった。
なぜなら「どっちでも」には多くの意味がある。来てほしいという意味かもしれないし、来てほしくないけれど言いにくいだけかもしれない。友人は分析した。
「お前が客席にいるって分かったら、余計緊張するんじゃない?」
新井はもっともだと思った。
翌日、彼は講堂に入らなかった。
廊下で壁にもたれ、最初から最後まで聞いていた。
文乃の声はドアの隙間から聞こえてきた。最初は少し震えていたが、だんだん安定していった。最後の一文を読み終えると、講堂の中で拍手が起こった。
新井もドアの外で拍手した。
とても小さな拍手で、誰にも聞こえなかった。
発表が終わり、文乃が舞台裏から出てくると、廊下に立っている新井を見つけた。
「入らなかったの?」彼女は聞いた。
新井は言った。
「うん」
「どうして?」
「緊張させたくなかったから」
文乃は彼を見つめ、長いこと何も言わなかった。
新井は、彼女は分かってくれたのだと思った。
分かってくれたはずだった。
自分は彼女のためにしたのだから。
本当に問題が起きたのは、ある金曜日だった。
その日、文乃はとても早く学校に来ていた。目が少し赤く、顔色が白かった。新井は気づいたが、すぐには聞かなかった。
一時間目、彼女は先生に指名され、立ち上がってから長いこと黙った。二時間目には、水筒を倒した。水が机の端まで流れたのに、彼女は動かなかった。昼休み、彼女は食堂へ行かなかった。
新井はおかしいと思った。
放課後、彼女は自習にも出なかった。
夜八時十七分、新井のスマホに彼女からメッセージが来た。
「今、時間ある?」
新井はすぐに背筋を伸ばした。
彼は返信した。
「ある。どうした?」
相手が入力中、と表示された。
長い時間。
そしてその文字が消えた。
しばらくして、文乃は返信した。
「なんでもない」
新井は画面を見つめた。
聞きたかった。今どこにいるのか。
聞きたかった。そっちへ行こうか、と。
聞きたかった。家で何かあったのか、と。
でも彼はまた考えた。彼女がなんでもないと言うなら、言いたくないということではないのか。さらに聞けば、もっとつらくさせるのではないか。自分は彼氏ではない。勝手に踏み込むのは越境ではないのか。
隣で問題集を解いていた友人は、話を聞いてこう言っただけだった。
「追い詰めるなよ。言いたくなったら向こうから言うだろ」
新井は、その言葉を大人だと思った。
だから彼は返信した。
「じゃあ、ゆっくり休んで」
送信してから、彼は長いこと待った。
文乃から返事は来なかった。
その夜、文乃はコンビニの前のベンチに座っていた。
両親が家で喧嘩していて、その声は廊下にまで聞こえていた。彼女は上着も持たずに家を出た。手にはスマホだけがあった。コンビニの明かりはまぶしく、彼女の影を薄くしていた。
彼女は新井から届いた「じゃあ、ゆっくり休んで」という一文を見た。
長いこと見た。
本当は、自分でも彼に何を言ってほしかったのか分からなかった。
ただ、もう一言だけ聞いてほしかったのかもしれない。
「今どこ?」
あるいは、
「行こうか?」
たとえ最後には「大丈夫」と言ったとしても、それでもよかった。
でも、彼は言わなかった。
彼女はスマホを鞄にしまい、コンビニが閉まりかけるまで座ってから家へ帰った。
翌日、彼女はいつも通り学校へ来た。
新井は聞いた。
「少しはよくなった?」
文乃は言った。
「うん」
その「うん」を言うとき、彼女は少し笑った。
新井はほっとした。
自分はまずまずうまく対応できたのだと思った。
高校二年が終わる前、クラスで小さなイベントがあった。
担任が、一年間お疲れさまということで、軽い気持ちで「クラスで一番〇〇な人」を匿名投票で決めようと言った。
一番遅刻しそうな人。
一番委員長に向いている人。
一番数学の先生に似ている人。
一番優しい人。
投票結果は黒板に貼られた。
「一番優しい人」のあとに書かれていたのは、新井一だった。
クラスが冷やかした。
新井は席に座ったまま、少し照れていた。
誰かが言った。
「たしかに、新井っていいやつだよな」
誰かが言った。
「この前の雨の日、自分は濡れて帰って、傘置いていったんだろ」
誰かが言った。
「席替えのときもそうじゃん。葉山さんの隣に数学できるやつ座らせたし」
誰かが言った。
「噂のときも、変なこと言うなって立ち上がったし。ちゃんとしてるよな」
さらに誰かが言った。
「発表会のときも、中には入らなかったけど、ずっと外で聞いてたんだって」
その一つ一つの言葉が落ちてきた。
文乃は前の席に座っていて、振り返らなかった。
彼女はようやく、あの傘が誰のものだったのか知った。
そして、なぜ彼が席を替えたのか、なぜみんなの前で普通の友達だと言ったのか、なぜあの日、講堂の外に立っていたのかも知った。
彼女はそれらを一つずつ考え直した。
どれも、いいことだった。
そしてどれも、そのときの彼女を悲しませたことだった。
担任は笑って言った。
「新井、一言どうぞ。受賞コメント」
クラスが笑った。
新井は立ち上がった。耳が少し赤かった。
彼は言った。
「いや、別に、何もしてないです」
友人が叫んだ。
「そういうとこだぞ、謙虚すぎ!」
新井が座るとき、思わず文乃のほうを見た。
彼女は彼を見なかった。
イベントが終わると、みんなは机を元に戻した。黒板にはまだ「一番優しい人」の文字が消されずに残っていた。
文乃は廊下の端へ歩いていった。
新井はそのあとを追った。
夕方の光が窓から差し込み、廊下の半分を明るく、半分を暗くしていた。下では誰かがボールをついていた。床に当たる音が、一定の間隔で響いていた。
新井は言った。
「怒ってる?」
文乃は言った。
「怒ってない」
新井は少し止まって言った。
「君が怒ってないって言うときは、だいたい怒ってる」
文乃は少し笑った。
「今さら、見えるようになったんだ」
新井はどう返せばいいか分からなかった。
文乃は下のグラウンドを見ながら言った。
「あれ、全部あなたがしたことだったんだね」
「うん」
「傘も?」
「うん」
「席替えも?」
「うん」
「発表会も、外にいたの?」
「うん」
文乃はうなずいた。
「本当に、私のことを考えてくれてたんだね」
新井は低い声で言った。
「困らせたくなかった」
「分かってる」文乃は言った。「だから困るの」
新井は彼女を見た。
彼女はとても静かに言った。責めるでもなく、泣くでもなく。
「あなたがしたことは、どれも間違ってないみたいに見える」彼女は言った。「でも、私がそのとき感じていたものは、全部違った」
新井は言った。
「分からなかった」
彼女は体の向きを変え、窓台にもたれた。
「あなたは、もう私の後ろに座りたくないんだと思った。傘がないのを見ても、来てくれないんだと思った。みんなの前で急いで、ただの友達だって言いたかったんだと思った。私が舞台に立ったとき、見に来てくれなかったんだと思った」
新井は言った。
「僕はただ……」
「分かってる」文乃は彼を遮った。「今は分かってる」
下で誰かがシュートを決め、声を上げた。
廊下はまた静かになった。
新井は言った。
「じゃあ、僕はどうすればよかったの?」
文乃は少し考えた。
「私にも分からない」彼女は言った。「ただ、優しさって、ずっと遠くに立って相手のために考えることじゃないんだと思う」
新井はうつむいた。
文乃は言った。
「あの夜、私、時間ある?って聞いたよね」
新井の指が少し動いた。
「覚えてる」
「少し待ってた」
「君は、言いたくないのかと思った」
「言い方が分からなかったの」
新井は答えなかった。
文乃は彼を見て言った。
「あのとき、私はあなたに境界線を判断してほしかったんじゃない。ただ、もし私が本当に声を出したら、来てくれる人がいるのか知りたかった」
言い終えると、彼女自身も少し照れたように、窓の外へ顔を向けた。
新井はそこに立ったまま、長いこと何も言えなかった。
説明したかった。
彼女を困らせるのが怖かった、と言いたかった。負担をかけるのが怖かった。自分の思い込みだったらどうしようと思った。近づいたら彼女が後ずさるのではないかと怖かった。
けれど、その言葉は急にどれも軽く思えた。
最後に彼は言った。
「ごめん」
文乃はうなずいた。
「うん」
教室の中から誰かが叫んだ。
「葉山、行くよ!」
文乃は返事をした。
新井の横を通り過ぎるとき、彼女は少しだけ立ち止まった。
「新井くん」
「うん?」
「あなたは本当に優しい人だよ」
新井は顔を上げた。
文乃は言った。
「ただ、私にはときどき、そんなに遠い優しさはいらなかった」
そう言って、彼女は教室へ戻っていった。
新井は一人で廊下に立っていた。
夕方の風が窓から入ってきた。黒板のチョークの文字はまだ残っていた。
しばらくして、日直が黒板消しを持ち上げ、その文字を消した。
チョークの粉が落ちた。
新井は、「優しい」という言葉の最後の白い跡が消えていくのを見ていた。




