第三十五夜・これは多分、ある種の異世界渡航
困ったことになった。
パジャマの裾をグッと掴み、キョロキョロと辺りを見回すが、どちらを向いても見知らぬ風景が広がるばかりなのだ。
その上、そこにいる人々はどの人もみな時代掛かった服を着ているし、耳慣れない言葉を発している。
小学六年生。英語は習っていたけどキャベツの歌と体のパーツの歌、あとは短い会話しかできない。
身をかがめて何かを拾い集める女性三人が見えた。
勇気を振り絞り「はろー」と伝えるが、怪訝な顔をされる。それから彼女たちは、こちらのことなどまるで見えないかのような顔で作業に戻ってしまった。
どうしたらいいか判らない。
なぜこんなところにいるのかも判らないが、ここがどうやら日本でないのだろうということだけは理解ができたのだ。
ふと気づく。
これはもしや、昼間に本で見た『ミレーの落穂拾い』ではないか。
そうだ、と確信する。
部屋にあった有名絵画をまとめた図鑑。それに載ってた風景とそっくり同じなのである。
なんということだ。
地を踏み締める素足が絶望感に震えた。
日本に帰るにはどうしたらいいのだろう。もう家に帰れないのだろうか。
よろめきながら尻餅をつくと、ヒヒヒと耳元で何かが笑うような音がして、目を開けると今度は青々とした不思議な風景が広がっていた。
道端も空も独特の青色で、だが左からは眩いばかりの光が漏れ出ている。痛いほどに鮮烈なそれに、目を眇める。
そこは、何かの店のようだった。やはり外国人と一目で判る人々が食事をしているのである。
恐々としながらも風景をよく観察すると、これは『夜のカフェテラス』だと気づいた。
その頃になると、「不用意に何かに触れると見知らぬ土地へと飛ばされる」というルールを理解し始めていた。
どうしたらいいか判らず佇んでいると、「何も頼まないのなら邪魔だからここにはいないで欲しい」とジェスチャーをされる。
店員の手が自身の二の腕にあたり、「しまった!」と思った時にはもう遅く、ヒヒヒの声と共に、気がつけば今度は砂漠のような場所に立っていたのである。
荒れ野じみた場所には人一人いない。
こんなに何もない場所ならば、言葉が通じなくとも、或いは時代がおかしくとも、誰か人がいるところの方が多少はマシというものだ。
今日から正月のはずだ。
一富士二鷹三茄子。それをしつこいくらいに唱えたのが良くなかったのだろうか。
裸足の足の裏にジャリっとした感触が気持ち悪い。
メソメソと誰も聞くことがない泣き声をあげながら周囲を見回すと、足の先が何かに触れたのである。
泣きながらしゃがむと、それはひどくひしゃげた時計であった。
ああ今度はダリか、と項垂れる。図鑑で見て一番気に入った絵だ。
振り返ればそこかしこになんとも珍奇で面妖な形の時計があったのだ。
こんな空間に放り出されては時計なんぞなんの意味もない。
べそべそメソメソと泣きながら「日本に帰りたい……」と呟き時計に触れる。
自分のシクシクという情けない泣き声が何故か遅れて聞こえてくる。
時計の針を乱暴にぐるりと回してから、耐えきれなくなって大声で泣いた。
ヒヒヒ。
例の音だ。その音が耳元を掠めかと思うと、薄暗い部屋だった。
真冬だというのに、額に汗が浮かんでいた。目元も涙でびしゃしびしゃだ。
ふと指先に固いものが触れる。
ゆっくりと手元を見ると、傍には一枚のポストカードが転がっていた。
夢魔。フュースリーのあれだ。
夢魔は、怖い夢を見せるモノではなかったか。
震える手でポストカードを拾い上げ、枕元へと置いてあった「絵画の図鑑」、その間に挟む。
それから本棚の本を何冊かどかせて、図鑑を横向きにしてから、今し方床に置いた本を次々とおさめて塞いでいった。
図鑑を封印をするかのように、なるべく見えないように。
カーテンを開け放ち部屋の電気をつける。
部屋が明るくなると、やっと気持ちが落ち着く。
夢魔の絵が脳裏にチラつく。呼吸が荒かった。
あれは夢魔が見せた悪夢だったのだろうか。
それともただの偶然だろうか。
でも、足の裏に伝わる嫌な感覚、店員に心底鬱陶しそうに追い払われた絶望感。
それらはとんでもなくリアルだったのだ。
あれから何年も経ち随分な大人になったが、未だに夢魔の絵が苦手である。
悪魔はきっと、ヒヒヒと笑うのだろう。
おしまい。
夢のストックはまだたくさんありますが、毎日投稿は一旦ここで終了したいと思います。
ストックはどれも文章が散らかったままですので、清書しいつか投稿したいと思います。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。




