第十一夜・透明な魚が電車を泳ぐ
バッグの中には秘密があった。
今し方、鮮魚店で買ってきた透明な魚が何匹か納まっているのである。
電車の振動で、中身がちゃぷちゃぷと揺れていた。
水はない。
揺れ動くのは魚の中身だ。
魚型の、醤油が収められた容器を彷彿とさせる風体ではあるが彼らは列記とした魚だ。
透明で、中身に何かが入っており、尚且つ水がない空間をスイスイと泳いでいるが——、確かに魚なのである。
何もかもが不思議だ。
体は総じて透明。しかしその中身はといえば、淡く色づく程度に赤や青、そして緑色。個体によって色が異なるようだった。
「中身」は、魚の胎内を行ったり来たりを繰り返している。
美しい。
美しいが、残念なことにこれらは晩飯の材料なのだ。帰宅し、これを焼いて食べるのである。
だってうちには金魚とメダカの飼育環境しかない。
それに、食べるために買ったのだから食べるしかないだろう。
店の親父が言うには、この魚を食べればなんらかの面白い体験ができる、とのことだ。
危険なものではないのかと問えば「そんなことはない」と言われた……、のだが、さて、一体何が起きるというのだろう。
チャックをほんの少しだけ開けて魚を覗き見る。
水も張っていない中を、スイスイと泳ぐ様子そのものが既に普通ではない。
と、電車の揺れによって魚が一匹ぱしゃんと跳ねた。
跳ねたかと思えばそれは宙に浮き、そして羽が生えたかのように空間をスイスイと浮かび泳ぎ出したのだ。
いけない。他の乗客に迷惑が掛かってしまう。
そんなことを考えた刹那、他の魚も仲間を探すかのようにチャックの隙間から次々と出ていき、悠々と電車内を泳ぎ出すのであった。
人の頭の一つ上、混み合ってない空間を探し出し器用に泳いでいく。
一匹、二匹、三匹……、いや、たくさんだ。たくさんの透明な魚が次々と電車内へと解き放たれていった。
最早収拾のつけようがない。
ところが人々は透明な魚に気づく様子もなく、電車の振動によって、まるでワカメか何かのようにゆらゆらと揺れているだけなのだ。
不気味に揺れる人々を見て、唐突に「ああそうか」と理解したのである。
つまりここは海の中で、だからバッグには水が必要ないのだ。
電車は海底を目指し進んでいく。
太陽の光がどんどん鈍っていき、辺りが暗くなっていった。
クジラとすれ違い魚の群れに遭遇する。魚、魚、魚。
様々な海の生物たちとすれ違うたびに、海底に到着してしまったら、きっともう陸には戻れないのだろうという確信が強くなる。
そうだ、あの魚だ。
あの透明な魚を見つければ陸に戻れるのだと、何故か判っていた。
急いであたりを泳いで探す。泳ぎは得意ではないはずだが、苦労することもなく泳ぐことができた。
ワカメよろしく、ゆらゆらとし続ける人を押し除け、時としてその合間を分け入り、時として彼らの頭上を泳ぐようにして、ようやく見つけたその魚を掴む。
——その瞬間、陸へと戻っていたのである。
ハッとして手元を見ると、「味見」として渡された透明な魚の切れ端が、醤油に浸されていた。
鮮魚店の親父がニヤニヤと笑っている。
「ね、面白いでしょ?」
まったく人が悪い。
つまりはこの魚には、なんらかの幻覚作用があるということなのだろう。
こんなもの、売っていいのだろうか。
「人気なんですよ。面白い夢が見られるって。買いますか?」
結構だ、と言うと親父は「残念」と言い、店じまいを始めた。
まったく、とんでもないものを掴まされかけた。少しばかり不貞腐れながら駅へと向かう。
やれやれとホームに辿り着くと、ちゃぷりと謎の音が耳を掠めする。
ギクリとする。ゆっくりと己の手を見ると、そこには見知らぬバッグがあったのだ。
中身は確かめずにベンチにそれを置くと、徒歩で帰宅するべく、そそくさと駅を後にしたのだった。
夢の中のあのバッグ——、あれを拾った者いなければいいのだが。
得体の知れないものには夢の中でも用心せねばならないとは、なんとも世知辛い世の中である。
おしまい。




