94話 エルヴァンの記憶(前編)- 血の名もなく、光の外で
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――俺は、「誰でもない」。
それが、幼い頃から胸の奥にずっと刺さっていた。
エルヴァンは、王の落胤だった。
だがその事実は、決して知られてはならなかった。
母は彼を、王の影として、ただひたすら隠し続けた。
王が玉座を譲った後、たった一夜の気まぐれのように関わった市井の女性――
それが、彼の母だった。
けれど、それは恋でも愛でもなかった。
「……あの時の私は、ただ、断る術を持たなかったの」
まだ若かった母は、抗う術もなく、王に身を奪われた。
王の寵愛など一度きりで終わり、翌朝には何事もなかったかのように王宮へ戻っていった。
残されたのは、一人の命と、沈黙だけ。
「見つかれば、命はないのよ」
母は、怯えるように何度も繰り返していた。
「私たちは、誰でもないの。ただそれだけ」
そう言いながらも、夜になると、母は灯りを落とした部屋の隅で王の名を呼び、ひとり涙していた。
その声を、幼いエルヴァンは寝たふりをしながら、じっと聞いていた。
母とふたり、町外れの古びた借家で、人目を避けるように暮らしてきた。
王家の血など、自分には無関係だと思い込もうとしていた。
だがそれは、ある年の祭りの日に崩れる。
町を練り歩く王族の行列を、物陰から目にしたのだ。
真紅の絹に包まれた馬車。
その傍らを歩く、同じ年頃の少年たち。
兵に守られ、民に頭を下げられているその姿――それが、王太子(現王)や王弟たちだった。
はじめて「王子」というものを、目で見て知った瞬間だった。
「あれが……俺と、同じ血?」
そう呟いた瞬間、隣の母の手が震えた。
「違う。見てはいけない、エルヴァン。忘れなさい」
だが、忘れられるはずがなかった。
――なら、俺は、なんなんだ。
その問いは、年を重ねるほど重く、胸にのしかかっていった。
町の誰もが、彼の名を覚えようとはしなかった。
子どもたちと混じって学んでも、蔑みの目を向けられた。
働いても、正当な報酬は得られず、時に盗みを見逃されるかわりに、黙って頭を下げることを強いられた。
「名前なんていらない。力さえあれば、誰にも頭は下げない」
そう言い聞かせるように、彼は魔導の書にのめり込んだ。
その才は、まさに異才だった。
師もいない独学で、理論を飲み込み、実践し、重ね、誰よりも速く成長していった。
だが、知識を深めるほどに、国の構造が透けて見えた。
この国では、生まれと血がすべてを決める。
努力も、才覚も、志も――名と血筋の前では塵にすぎない。
「腐っている」
その呟きは、いつしか信念へと変わっていった。
慈悲深いと称えられる王家の者たち――だが、その影でどれほどの犠牲が踏みにじられてきたか。
名もなき民が、どれだけ理不尽に切り捨てられてきたか。
エルヴァンは、自分自身がその「切り捨てられた側」であることを、誰よりも深く知っていた。
「変えたい」
その想いだけが、彼を突き動かした。
この国の構造を、根本から変える。
血も名もいらない、新しい秩序を――。
「俺は誰でもいい。名前など、いらない。ただ、礎となれるなら」
そう信じて、エルヴァンはふたつの顔を使い分けるようになった。
表では、才ある若き魔導師。
人々から「希望」として語られる存在。
静かに民衆の支持を集めていった。
だが裏では、急進派の一部と手を組み、綿密な改革の計画を練っていた。
その中で、同じ志を持つ者たちと出会った。
「おまえの血は武器になる。王家の落胤だろう?」
「……血だけならな。だがそれに、意味はない」
彼が求めたのは、地位でも、名誉でもなかった。
ただ、この国の歪みを正す「力」だった。
だが皮肉にも、王家の血があるからこそ、人は彼の声に耳を傾けた。
民は無意識に、「血」や「名」のある者を信じる。
どれほど正しいことを言っても、「名もなき者」では届かないのだ。
それが、この世界の歪みだった。
それでも彼は進んだ。
表の政が揺らぎ、王家の後継が不在となったその瞬間――
彼は、王の間を占拠した。
「誰もいないなら、俺がそこに立つ。過去がどれだけ歪んでいようと、未来だけは正せる」
彼の目に映っていたのは、玉座ではなかった。
あの日、空腹で泣いていた町の子どもたち。
名前を呼ばれず、道端で冷たくなっていた少女。
明日を知らずに、働き続けていた母の背。
「もう、誰も見捨てさせはしない」
たとえそれが、偽りの王と罵られようと。
たとえ、血の正統を否定されようとも。
それで未来が変わるなら。
それで、名もなき者たちの命が守られるなら。
彼は、立つ。
名もなき王として。
血に囚われず、名の外で生きる者たちの象徴として。
そして今――
玉座の前に立つエルヴァンの表情には、かつての怒りはなかった。
あるのは、静かなる決意。
「これが、俺の正義だ」
ーーー95話(後編)へ続く
※このお話の舞台はヨーロッパ風異世界であり、現実世界の歴史とは一切関わりありません。
作中に出てくる 国・文化・習慣・宗教・風俗・医療・政治等は全てフィクションであり、架空のものです。
あくまで創作上の設定としてお楽しみいただけますと幸いです。




