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「剣崎さん!?」

 その叫びと共に、ムカデの頭に黒い一文字が走った。

 瞬間、締め付ける力から解放される。

 ……鋭くムカデを突き刺した黒いナニカは、山井さんの手首から伸びたものだった。

 壁の目、突然ムカデになった掛け布団、山井さんの変質した不気味な黒い触肢。

 理解が、追いつかない。

「こっち、早く!」

 私の左手を山井さんが強引に引っ張った。

 混乱した思考を置いて、ベッドから引きずり出された途端、今度はマットレスがワニの口のように閉じられ、残っていたムカデを貪った。

 あと少しでもあそこに残っていれば、ああなっていたのはきっと……。

 自分の喉奥が酸っぱく、窄まる中でも、山井さんは私の手を強く引いて部屋から抜け出していた。

 突如、今度は廊下の壁からたくさんの眼が開かれて私達を見つめる。

「逃さないよ~」

 ズズズ……と重々しい音が響き渡り、廊下の土壁から砂埃が舞い落ちる。

「あれ、戸が……」

 困惑の声を上げる。見れば、山井さんが引戸を開こうとしているも、戸が動く気配はない。閉じ込められたんだとかろうじて理解するのとほぼ同時、両脇の壁からズゾゾゾ……とさらに大きな音が上がる。今度は、壁が徐々に迫ってきているんだ。

 私もすぐに山井さんに加勢するが、そいつはびくともしない。

「ぺしゃんこになっちゃえ!」

 壁の眼が一斉にニタリと細くなる。

 次から次へと意味不明な景色が脳裏に流れ込んできて、本当に頭がおかしくなりそうだ。

「剣崎さん、離れて!」

 その言葉で我に返る。すぐさま、私は引戸から離れた。

 山井さんが戸に向けて手を伸ばした瞬間、それは黒い触肢になり、そして巨大な剣のように変化する。

 声を荒げ、山井さんが黒い剣を豪快に振るうと引戸は真っ二つになって吹き飛んだ。

「行こ!」

 返事をするよりも早く、山井さんのもう片方の手が私の左手を掴んだ。

 引っ張られて廊下から飛び出た瞬間、背後でバタンッ!と言う音が耳を貫き、私の背筋を縮こませる。

 広がるのは、大きな畳の部屋。

 そこに、それはいた。

 赤く長い髪、赤く鋭い眼光。

 間違いない、あの路地裏にいた女の人だ。

「あはは、やるじゃん?」

 そいつは瞳を細め、舌で唇をなぞりながら微笑んだ。

 ズキンッ。

 無い右側に幻肢痛が走る。両の膝がカクカクと震え出す。私の本能が訴えている。あの女の人はやばいって。

「剣崎さん」

 すると、山井さんが柔らかい声音で告げた。

「大丈夫だから、私に任せて?」

 振り向いた彼女の瞳は前髪に隠れて見えない。でも、山井さんの足は小刻みに震えていた。


 震えが止まらない。

 お姉ちゃんやお母さんみたいな、凄い魔術師は見てきていたが、こんな重圧感は初めてだった。

 それにあの赤い女。

 きっと、お母さんが言っていた人だ。

 ティンクル・キャロライナ・ブリーチ。フリーメイソンの中でも名の通った、ブリーチ家の誇る怪物。

 魔術師としての実力に天と地ほどの差があるのはわかっている。私はお姉ちゃんみたいにはなれなかったんだから。

 でも、今は怖がっている暇なんてない。

 奥歯をぐっと噛みしめる。

 私がやらなきゃ、二人とも死ぬしかないんだ。覚悟は、決まっている。

「夜舞家のガキ、どっちがいい?」

「……何が?」

「貴方をぐちゃぐちゃにしてそっちの子に見せつけてあげるのと、そっちの子をぐちゃぐちゃにして貴方に見せてあげるの。今なら選んでいいよ?」

 赤い女は、不気味に不敵に笑う。

 思わず、背筋が寒くなる顔だった。あの人、私達の反応を見て楽しんでいる。人を嬲り殺す事を愉しんでいるんだ。

 すぐさま、私は前へと踏み込んだ。

 右手を黒い槍のように伸ばし、あの女の腹部めがけて貫く。

 あれの言葉に付き合っていたら、私もこの怖気に呑まれてしまう。

 その前に、決着をつける。

 きっと躱される。すぐに反撃がくるだろう。

 だけど、どんなことをしてくるのか想像もつかない。さっきのムカデも、ワニの口も、迫ってくる壁も、明らかに規格外のものだった。遠隔で、あんな好き放題に、あれだけの量の物体を変化させる魔術なんて見たことがない。それも我が家の防護結界の中で。

 だから、何をしてきてもいいように──。


 ぐちゅっ。

 

「えっ」

 黒い槍は、存外あっさりと赤い女のお腹に突き刺さった。

「それね」

 赤い女は、痛みに怯むことも、眉をひそめることもなく、平然としていた。

「さっき使ってた黒くてきしょいの、そういう感じなんだ?」

 刹那。

「──あがっ!?」

 私の喉元が掴まれる。

 おかしい。

 そんな動きなんてまったく無かったのに。

 視線の先。そこには畳から“生えている”もう一人の赤い女がいた。

 直後、視界がぐるんと回る。

 衝撃音。

 味わったことのない強烈な痛みと共に、呼吸が止まり、全身の力が抜ける。

 そのもう一人に、すさまじい怪力で叩きつけられたと気付くまで、かなりの時間を要した。

「あー、ちなみにその土手っ腹突かれてるのさ、あーしのダミーね?」

 その言葉と同時に、すぐ近くで、何かが溶解するようなぐちゅぐちゅという気味の悪い音がした。

「山井さんっ!?」

 ──それどころじゃない!

 剣崎さんの悲鳴のような声にすぐ正気を取り戻した私は、全身を黒泥に変換する。

「お?」

 赤い女の手をスライムのようにすり抜け、すぐさま後退し、元の姿へと再変換する。

 いや、首の骨を今の一撃でへし折られている。首とその周りはまだ元の肉体に戻せない。

「はぁ……はぁ……、大丈夫だよ剣崎さん」

 全身を黒泥化するのは、異常に体力を使う。今日はこれで二度目だ、これ以上は……多分戻れなくなる。

「錬金術……じゃない。変化でもないね。……となれば、生体変換とかかな?」

 赤い女はニタリと嗤う。

「じゃあ、もうそんなに治癒できないでしょ?」

 ──怖気が、背筋から足まで伝う。

 駄目だ、たったこれだけのやりとりで見抜かれてる。こっちはアイツが何をしてるのかさっぱりわからないというのに。

 あの言葉が脳裏を走る。

 ──貴方をぐちゃぐちゃにしてそっちの子に見せつけてあげるのと、そっちの子をぐちゃぐちゃにして貴方に見せてあげるの。今なら選んでいいよ?

 嫌でも想像できてしまうんだ。

 ズタボロにされた自分を掴み、あの表情で剣崎さんに迫るティンクルという魔術師の姿を。

 ……だめ、だめっ。弱気になったら、私がこんなんじゃ、二人とも殺されちゃう。

 ……私が、私が守らなきゃ!

 

 相変わらず、理解は追いつかない。

 あの女の人が突然畳から生えてきたのも、山井さんが黒いスライムみたいになって下がってきたのも、何がなんだかさっぱりわからない。

 だけど、私でもわかる。

 明らかに、山井さんは限界だ。

 さっきよりも彼女の足がガタガタと震え、彼女の背中はこんなにも小さく見える。

 魔術師のことも、山井さんのそんな裏の顔も私は知らない。でもきっと、山井さんだって怖いはずだ。

 でも。

「はああああああっ!!」

 それでも、山井さんは凄い剣幕で雄叫ぶ。

 両手を黒い剣のように変化させて、赤い女の人へと飛び込んでいく。

 なんで私は、何もできないんだろう。


 ズガァァァンッ!

 

 瓦礫が舞い、思わず腕で顔を覆った。

 山井さんの決死の突撃は、片手であっさりと壁に押さえつけられてしまったのだ。

 でも、山井さんはさっきみたいに黒いスライムにならない。赤い女の人の手のなかで、ぐったりと全身を垂らしていた。

「だめっ!もうやめてっ!!」

 思わず叫び声を上げる。

 すると、赤い女の人はこちらに視線だけを寄越し、楽しそうにほくそ笑んだ。

 ──ズキンッ。

 ──幻肢痛と共に過る。

 あの記憶。

 忘れもしないあの言葉。

 ──君んとこの家族が死ぬんはな、君が弱いからなんよ。

 私が、弱いから?

 私のせいで、また誰かが?

 そんなの……!

 ──ズキンッ。

 ふと、それは足元にあった。

 畳に突き刺さる鈍色の光。

 刀、それはきっと模造刀だろう。

 ──ズキンッ!

 激しい痛み。

 そっか、これは……きっと訴えているんだ。

 私にも、できることを。

 刹那、私は残る左手で鈍色を掴んだ。


 人は、かつての彼女を天才と呼んだ。

 笠の男は、今の隻腕の少女を見てなお、剣士と呼んだ。

 剣道。

 それは、基本的に左手を使う。

 右手は添えるだけ。

 現代剣道は、最小最速の動きで有効打突を狙う為、傍からその動きはわかりにくい。だが、一閃の本質は左手にある。

 それは、左手のみとなった剣崎夏帆にとっても同じ事。


 鈍色の一閃。

 ボキンッという歪な音。

 ティンクルは思わず眉をひそめた。

 山井恋を掴んだその手には激痛が走り、一瞬にして力が抜け落ちたのだ。

 彼女は反射的に畳を蹴りつけ、部屋の隅へと後退した。

 何が起こったのか。

 何をされたのか。

 山井恋の奥の手か。

 それとも、夜舞家の他の者が隠れていたのか。

 だがしかし、そこにあったのは魔術でも仕掛けでもなかった。

 刀、あれは模造刀だろう。それを振り抜いた少女の姿があるだけであった。

 そうして、ティンクルはようやく気がつく。

 自分は、この一般人の片腕の欠けた少女に“斬られた”のだと。

「……は?」

 赤い魔術師のこめかみに青筋が浮かぶ。

 一般人に、それもただのガキに、自分の腕を折られた。それはティンクル・C・ブリーチという魔術師の自尊心を傷つけるには十分なものであった。


 その時であった。

 突如として、戦場となった和室が歪に蠢き始めたのだ。それも、ティンクルの魔術ではなく。つまりそれは、この屋敷の主の帰還を意味していた。

「……ちっ、ご到着ってわけね」

 ティンクルは、少女を一瞥し告げる。

「……テメェ、覚えておきなよ?」

 そうして、赤い魔術師はぬるりと畳の隙間へと消えていくのであった。




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