①
路地裏の闇の中。
私の世界はゆっくりと時を進めている。
ぐるりと一転する視界。
徐々に見えてくる自身の肉体。だが、見ている角度が明らかにおかしい。
視界は、後ろへ向かって宙返りするように回っているのに、何故か地面に着いたままの私の足が見えてくるのだ。
私の身体を、私が見ているのだ。
──私の頭が、身体から刎ね飛ばされたと気付いた時、私の視界は真っ黒になった。
◆
──跳ね起きる。
はぁ、はぁ、と荒い息遣いが聞こえる。
額からの雫が頬を伝っていく。
乾き切った喉奥が張り付いて痛い。
右腕からズキズキと軋むような感触がする。
あの光景が悪夢だと気付いた時、やっと私は肩を撫で下ろすことができた。
「……何時?」
スマホは時刻が二時を回ったところを教えてくれた。
深く、ため息をついて肩を落とした。
身体を捻ってベッドから立ち上がり、キッチンへと足を運ぶ。
レバーを上げ、コップへと水を流し込むとそれをすぐにあおった。
「ふぅ……」
ようやく、バクバクと破裂しそうだった胸を落ち着かせられた。
最近、よくあるんだ。
こうして悪夢を見て飛び起きることが。
電気を付け、汗でぐしょぐしょになったシャツと肌着を脱ぎ、玄関の方へ向かい、洗濯機に放り込んだ。
そろそろ夏の時期だけど、べとべとの身体はやはり冷える。洗濯機上のラックからタオルを取り出し、左手で汗を拭い取るとする。
が。
上手くいかず、ぽろりとタオルは床板に落ちてしまう。
もう一度ため息。
そして、左手で拾い上げた。
食事の時も、勉強の時も、今だってそうだ。左手での生活は慣れない。
部屋に戻り、ぎこちない動作で新しい肌着とシャツを着て、ベッドに戻るとする。
右肩の先は今でもズキズキと痛むように感じる。もう悪夢は終わったとわかっているはずなのに。
病院では幻肢痛と言われた。
なんでも、ちょっとした拍子に脳が勘違いをしてもう無い右腕があるように感じ、痛みを覚えるのだそうだ。
最初は激しく締め付けられるような感覚が辛かったが、最近は少しだけ慣れてきた。こうしてことあるごとに痛むんだ、仕方ないと思う。
その後、すぐにベッドへ潜り込んだが、結局カーテンの向こうが明るくなるまで眠りにつくことはできなかった。
「剣崎ー」
はっ、と起き上がる。
「大丈夫かー?」
いつもは厳しい現国の林先生だが、少し複雑な顔でそう告げた。彼は、他の生徒が居眠りなどしようものなら凄まじい剣幕で捲し立てる。
「……はい」
「そうか」
私の返事を確認すると、彼の視線は音読を指示した別の生徒へと戻っていった。
……誰からも視線を感じない。本来なら変な注目を浴びるところなのに、誰もこちらを見ない。
わかってる。自分が周りから腫れ物のように扱われていることくらい。少し寂しくも感じるけど、これもそろそろ慣れてきた。
空が茜色になるより少し前、私はとぼとぼと一人で帰路に着く。もう友達がいないわけじゃないのだけど、皆この時間は部活動に励んでいる。
校門へと向かう道中、体育館の隣にある武道館から音がする。男女それぞれの掛け声。バタン!ダダン!という踏み込みの音。様々な打突の音に、竹刀が擦れる音。
私は、この音が嫌いになった。
むしゃくしゃとする胸の内をさらに奥へとしまい込み、いつものように早足で青春の音から抜け出すのであった。
世間的に、私は事故で右腕を失った剣道少女と見られていると思う。それも、落ちた天才だとかなんとか。
全国制覇を果たしたのは去年、一年生の夏だった。インターハイでは個人戦まで勝ち進めることができ、幸いにも、その時最後に当たった対戦相手は以前中学時代に対戦したことのある大柄の女の子だった。私は、記憶を頼りに危なげなく勝つことができた。
“剣持夏帆は、一度戦った相手には負けない。”
中学の頃からの私へ関するそういった噂があると聞いたことがある。あながち間違いでもないかもしれない。
かつて私は天才だなんて呼ばれていた。
ガス爆発による事故。
半年前、炎に包まれ、家族と右腕を失うまでは。
いや、正確には──。
「あっ、剣崎さん?」
校門を抜けようとした時、ふと横から声がかかった。
「あれ、山井さん」
そこには、クラスメイトの山井恋がいた。時々クラスで話していた、前髪が長く少し暗い雰囲気の女の子だ。
「今帰り?」
「うん、そうだよ」
一緒に帰る?と喉元まで出ていた言葉を思わず呑み込んでしまう。きっと、以前の私ならちゃんと言えていたと思う。
「じゃあその……一緒に帰らない?」
なんて戸惑っていると、あちらから声がかかった。
正直、気は進まない。
別に山井さんが苦手というわけでもないが、どうにもあの日以来、あまり誰かと談笑する気になれないのである。
「……うん、そうしよっか」
だが、ここで断るのも山井さんに申し訳ないように思った。
会話は他愛のないものだった。
山井さんは決して話上手なわけではないが、それでもあれこれと明るい話題を振ってくれる。なんとなくだけど伝わってくる。心配してくれているんだなと。
ただ、話はそんなに弾まなかった。
以前のように自然と言葉が出てこない。ちょっとした問いかけに返せない。彼女の話が全然頭に入ってこないのだ。
「……なんか、ごめんね」
「えっ、な、なにが?」
「なんていうか、その……上手く話せないし」
そんな時だった。
「──ッ!?」
突如、一緒に歩いていた山井さんが立ち止まった。
「あれ、どうしたの?」
「んー、えっとその、なんだろう……急に用事思い出しちゃって」
歯切れの悪い返事だった。
気まずい空気に耐えかねたのかとも思ったけど、何やら様子が違う。彼女の前髪の奥の瞳は、言葉とは反対に真剣に何かを探している様子だった。
「その、ごめん! また明日ね!」
そして、私が何か答えるよりも早く、山井さんは駆けていってしまった。
「……」
急な反応。
何があったのかは気になってしまうけど……今の私が変に関わろうとするのは迷惑かな。それに、なんだかよくわからないけど、山井さんにはちょっと悪い感じになっちゃったな。
そうして、私は帰路につく。
夕暮れの寂れた街並みをとぼとぼと歩いていく。妙な気分だった。さっきまで気まずさを感じていたが、一人の沈黙も居心地は悪い。家族、友人、クラスメイト、そんな喧騒に慣れていたからかも、しれない。
──ズキンッ。
「痛ッ!?」
無い右腕が痛み始めたのは、そんな時だった。
思わず足を止める。
幻肢痛がするのは、今に始まったことじゃない。ちょっとしたことですぐに痛む。
けど、痛みはちょっとしたきっかけとなった。
立ち止まった路地の先。
奥の方からぐちゃっ、という湿った音がした。
次に、鼻の奥を嫌な匂いが掠める。鼻血の時みたいな、鉄の匂いとでも言うんだろうか。
「……」
視線を向ける。
マンションと雑居ビルの間の、細く暗い路地。
ぽたっ、ぽたっと音が続く。
ほんの好奇心だった。ちょっとした怖いもの見たさだった。
なんの音だろう。なんの匂いだろう。そうやって、私の足は自然と路地裏の方へと向かっていた。
日陰に入り、影に目が慣れる。
そこには、人がいた。
赤く長い髪、赤い瞳、その頬とコンクリートを染め上げる真っ赤な液体、彼女が踏みつけている赤い塊。
「えっ……」
なに、これ。
目に飛び込んできた景色の、理解が追いつかない。しかし、私の目は見えてしまう。赤い塊から飛び出ている突起を。
あれってもしかして、人のゆ──。
瞬間、全身の毛が逆立つ。喉元まで胃液が飛び出そうとする。
「……あー」
影の奥の女性が爛々と輝く赤い眼をこちらへ向けた。
やばい! あの人、絶対に普通じゃない!
逃げなきゃ、と私は振り返る。
「──っ!?」
そこには、もう一人いた。
ボロボロの袴、ズタズタの笠。まるで時代劇から飛び出してきたかのような風貌の人。
「先生、やっといてくださいよ」
背後から女性の声。
すると、目の前の人物は何も言わずに右手で腰から鈍い光を抜き出す。
刀。
この人、私を斬ろうとしている──。
「……ほう」
剣士が、初めてその低い声を漏らした。
「その足、その構え、小娘……貴様も剣士か」
そう告げた次の瞬間だった。
──路地裏の闇の中。
私の世界はゆっくりと時を進めている。
ぐるりと一転する視界。
徐々に見えてくる自身の肉体。だが、見ている角度が明らかにおかしい。
視界は、後ろへ向かって宙返りするように回っているのに、何故か地面に着いたままの私の足が見えてくるのだ。
私の身体を、私が見ているのだ。
──私の頭が、身体から刎ね飛ばされたと気付いた時、私の視界は真っ黒になった。
◆
悪夢。
それはいつも同じ記憶の再生。
切り刻まれた家の中。燃え盛る家の中。
赤白く照らされた彼女はにこやかに告げる。
「君んとこの家族が死ぬんはな、君が弱いからなんよ」
覚えている。
バラバラにされた両親だったもの。広がる赤い湖。燃える思い出。見えない刃。逃がせなかった弟。彼女の給仕服の下から伸びる、数多の禍々しい脚。いくつもの蜘蛛がスカートの下に蠢いているような。
そして、忌まわしき、この女の顔。
「よう覚えとき。君の復讐相手の顔を」
──覚えてる。
────ちゃんと覚えてる。
───────忘れたことも、忘れたいと思ったことも無い。
◆
「きゃぁっ!!?」
飛び上がる。
咄嗟に首に手を伸ばそうとするも上手くいかず、落ち着いて左手だけで首を触れてみる。
「……ゆ、ゆめ?」
途端に妙な浮遊感から開放されて、身体中の感覚が蘇ってくる。
服に張り付く嫌な汗の感触、震えて力の入らない指先、忙しなく上下する肩、そして幻肢痛。全て私の肉体の感覚。
そして今度は視界が開けてくる。
ベッドの上、隣の勉強机、衣装棚とクローゼット、少し見づらい暗い部屋の中。全て見たことのないものだ。知らない匂いだ。
私の部屋ではない。
次々に襲いかかる状況の連続に思考が追いつかない。だけど、一つ違和感が最後に残った。
首に当てていた指。
なんだか、ぬちゃっとした感触がする。
──ガチャッ。
肩に力が入る。
「……剣崎さん、無事?」
そこにいたのは、山井さんだった。




