鱗のある獣
【ルス湖畔。未明:タキリから約50リード】
濃い霧が黒い水面から立ち上っていた。ナジェール河とルス湖の境も青灰色に霞んでいる。
ウナギ捕りの漁師は、湖畔の葦の間にある倒木を目印に小舟を停めた。昨日はさっぱり魚が捕れなかった。今日はせめて、仕掛けた罠にウナギの一匹でもかかっていてほしいところだ。
ドプン
柳の小枝を編んだ籠を引き上げたとき、小舟が揺れた。
一度ではない。
ドプン……ドプン……
二度、三度。平底の小舟がゆるりと左右に傾ぐ。海と繋がっているとはいえ、ルス湖に波はない。
漁師は揺れる舟べりを掴んで振り返った。
「なんだぁ?……おわああああぁぁ!」
深い霧の向こうから黒い水面がせりあがってきた。
§§§
【ナジェール下流域山中。早朝:タキリから約30リード】
カーン、カーンと西の方から音が聞こえる。
猟師の子は聞き慣れない音に何事かと息をのんだ。湿った冷たい空気は針葉樹のツンとした香りがする。
「お父、あれなんの音?」
「知らせ鐘だ。湖の方で何かあったらしい」
猟師の親子は河辺まで行くと、手近な岩に上ってナジェールの流れを見た。
朝霧がけぶる河面は、背の高い木々の間をいつも通り悠々と湖に向かってうねっている。
「お父。河に皺が寄っている」
「たいへんだ」
猟師は息子の手を引いて駆けだした。
§§§
【河畔の村。朝方:タキリから約10リード】
「お兄ぃ、起きて! 起きて早う鐘を鳴らしとくれ!!」
赤子を抱えた妹に揺り起こされて、鐘突き男は寝ぼけ眼をこすった。
ろくに事情も分からぬまま「早う早う」と急かされて鐘突き櫓に向かう。
「早う上がって鐘を鳴らして」
「そう急かすな。俺は脚が悪いのだぞ」
戦で怪我をした。なんもかんもをそれでごまかして妹夫婦の家に転がり込んで、毎日だらだらすごしてきた。ろくに働けぬ負い目はあった。昼と夕に鐘を鳴らすだけの閑職に就いて働いているふりをしていた。
木組みの鐘突き櫓の梯子を上るのは、両腕で体を引き上げればいいので、歩くよりも楽だった。すぐに鐘突き櫓のてっぺんに吊り下げられた一抱えほどの大きさの鐘の真下にまでやってくる。
朝日に輝くガラ大山脈の白い峰々の麓をゆるやかに流れるナジェールは、今朝は朝靄に包まれていた。
下流の村から鐘の音が聞こえる。中天に鳴らす昼の休みを知らせるカーンというのどかな音ではない。
河での異常を知らせる早鐘。
「なんだ?」
木々の向こうに見え隠れしている河の流れに目を凝らす。
河面を覆う白い靄の向こうで黒い影がうねるように持ち上がり、巨大な水柱が上がった。
鐘突き男は必死になって鐘を打ち鳴らした。
§§§
【タキリ】
「おい! 黒騎士さんはどこだ?!」
「昨夕から帰ってきていません。何があったんですか」
「わからん。そっちの人は領主館から来た偉い学者先生だよな。来てくれ」
ワルドに急かされながら、ラリーはローガンと一緒に、町の通りを河岸に向かって走った。
新しく南側に農業用水路を作るために、根付き岩をどける作業をしていた河岸工事の現場には、人がいなかった。働いていた男達は、今は全員、岸の少し高い堤防に上がって不安そうに河を眺めている。
「いったいどうしたというのですか」
「ローガンさん、見てください。波が打ち寄せています」
「波?」
ラリーが指さした河岸を見てローガンは戸惑った。
たしかに大きな波が寄せて、河岸の岩にあたって波頭が砕けている。岩のない砂州や河原は大きく寄せる波で洗われて、昨日までは水に浸かっていなかった場所に溜まっていた枯草や落ち葉が渦を巻いている。
ローガンは急いで革ケースを取り出し、眼鏡に鎖を付けた。
鎖に着いたダイヤルを回すと魔導眼鏡はくっきりと河面の様子を映し出した。
日差しに光る河面には、常のような上流から下流への穏やかなせせらぎではなく、見たことがないような凹凸が規則的に並んで下流から上流に次々と打ち寄せていた。
「下流から水が寄せている? バカな! 津波だとしてもありえません。ここはルス湖から50リードは内陸ですよ」
「ローガンさん! あれを!!」
河に沿って視線を上げたローガンの眼鏡は、ナジェールの流れの先に黒い影をとらえた。
「おいおい、なんだありゃあ」
「……ケトゥス」
それは巨大な魚の背びれだった。
§§§
大山脈の山裾を緩やかに蛇行する河の、切り立った河岸の岩の隙間から生えた黒榛の木が河面に向かって張り出した枝から下がる赤黒い雄蕊の房が、流れてくる濃い霧に覆われて霞んでいく。
黒い水面を押し上げてせりあがってきた巨体が河岸にぶつかり、蔦の絡んだ黒榛の木は根元の岩ごと大きく削られて川に滑落した。落石が上げる水柱を飲み込みながら渦巻く霧とうねる水が河を遡ってタキリに向かってきていた。
「退避〜!総員河岸から退避〜!!」
「兵舎に戻って軽軍装。急げ!」
工事に集まっていた者達がわらわらと逃げ始めた堤防に、大きく盛り上がった高波があたり激しく飛沫をあげて砕けた。河面を奔ってきた冷たい霧が人々の足元をひやりと覆い始める。
振り返った視線の先、タキリの西の舟着き場の桟橋が何かに押し上げられ、バキバキと音を立てながら粉々に砕けとんだ。水をかき分けて桟橋を破壊したのは、鋭い爪のある巨大な"前脚"だった。
ゴボゴボと水の泡立つ音があたりに響いた。水底からあまりにも大きな黒い影が高く持ち上がっていく。それはルス湖からやってきた怪物の、獣のような"頭"だった。
「ケトゥス……鱗のある獣」
「実在していたのか」
呆然と見上げる人々の前で、その鱗に覆われた太い胸から首がわずかに膨らみ、怪物の口が開いた。
軋むような怪音が腹に響くうねりとなってあたりに轟く。
鋭い牙のある口から発せられたその怪物の異様な鳴き声に人々は耳を押さえた。
「なんて化け物だ」
「これはダメだ。人が太刀打ちできる相手じゃねぇ」
「町長に河辺の住人を全員避難させろと伝えろ」
町の白い石造りの鐘楼の鐘がゴーンゴーンと鳴り響く。
頭をもたげた怪物は、己と同じぐらいの大きさの存在が気に障ったのか、河辺に建つ鐘楼の四角い塔の方に顔を向けた。
ケトゥスの全身の鱗がザワザワと波うち、互いに擦れあってバチバチと音を立てた。水面から立ち上る霧が怪物の周囲で生きているかのように渦を巻く。
"鱗のある獣"ケトゥスは、大きくもたげて一度反らせた首を鐘楼の方に一気に伸ばして口を開いた。
ケトゥスの口から一直線に放たれた水撃が鐘に直撃した。そのまま左右に振られた水撃で鐘楼が倒壊する。瓦礫とともに落下した鐘の割れた音が、人々の悲鳴と共に響いた。
「ラリー! 鎧の旦那はどこだ」
「サムソンさん、ここは危険です。早く逃げてください」
人の流れに逆らうようにこっちにやってくる武器職人に、ラリーはローガンを託した。
「どうぞ、先生と一緒に町長さんのお宅に」
「ラリーさん、あなたはどうする気ですか」
「僕は……」
ラリーはケトゥスの方を見た。
怪物は頭を再び大きく後ろに引きあたりを睥睨している。逆立っていた鱗が閉じた体表が陽光を浴びて鋼のように銀色に光る。
「バカ! あんなものに生身の人間が立ち向かえるわけないだろう!!」
「でも何か方法があるはずなんです」
「そんなものは……」
サムソンは、ラリーの胸ぐらをつかんで自分の方に振り向かせると、グイっと顎をしゃくって、崩れた鐘楼の脇にある建物の上を示した。
「あの旦那に任せておきな」
三階建ての四角い石造りの建物の屋上に虹色の揺らぎがゆらゆらと陽炎のように発生していた。
「黒騎士様!」
虚空から現れた漆黒の鎧の騎馬は、白い石の建物の屋上に降り立つと、河の中央にいる"鱗のある獣"の方をひたと見据えた。
ヒーロー見参。
ーー
完全に怪獣映画回です。
甘みが足りない〜という方は、短編でヴィクトリアと旦那様が出会ったときのエピソードゼロを書きましたので、タイトル上のシリーズリンクからどうぞ!
なんとバロールの荒鷲が生身で喋りますよ!




