【8. 駆け落ち屋】
さて、そんなこんなで、ドリーローズがご婦人たちに夫の浮気を慰めてもらっていたとき、王宮のピカピカに磨き上げられた廊下の曲がり角で、ジェラルド・ゴルトベルク伯爵は知り合いの一人に声をかけられていた。
「やあ。なんだか最近仕事ぶりがよくないんじゃないですか、ジェラルド殿?」
「これはこれは、アデノット伯爵。何ですか、仕事ぶりって」
ジェラルドが聞くと、アデノット伯爵は意地悪そうな目つきで言った。
「駆け落ち屋」
「ああ~」
ジェラルドはニヤリと笑った。
それからジェラルドは別に取り立てて気に留めない様子で、
「ホント、あなたって失礼なこと言いますよね~。何なんですか駆け落ち屋って。変なあだ名をつけないでくださいよ」
と、ポンっとアデノット伯爵の肩を軽く叩いた。
「変なあだ名で済む話じゃないでしょう。今のところは国王陛下の覚えがめでたいとかで許されていますが、ハンプシャー公爵夫人との駆け落ちがたいした問題にならなかったのには、マジでびっくりですよ」
アデノット伯爵が呆れたように言うので、ジェラルドは苦笑した。
「ハンプシャー公爵夫人とは駆け落ちしたつもりじゃなかったんですけどね……」
「ほうほう、よく言いますねー。西の国で一緒に暮らしてたっていうじゃないですか」
「ええ、でもそれは旅行なんですよ。ハンプシャー公爵夫人が自身のルーツが西の国にあるとかで、一度じっくり西の国をまわりたいと言ってたのでね。ハンプシャー公爵が乗り気でなかったから、私がハンプシャー公爵の代わりに連れて行ってあげたんですよ」
「そうですか? 2年も同じ邸で暮らしていたというではないですか」
アデノット伯爵が疑わしそうに眉を顰めて聞いてくるので、ジェラルドは困ったように微笑んだ。
「安全とか考えて、大きなお屋敷を一つ借りたんですよ。西の国をあちこちまわるなら長期滞在になりますから拠点を定めておいた方がいいと思ったんでね。使用人だって何人か雇っていましたし、そんな駆け落ちだなんて騒ぐ感じじゃありませんよ。駆け落ちならそんな堂々と派手なことはしないでしょう?」
「でも男女の仲だったんでしょう?」
「ははっ」
ジェラルドは軽く笑って流した。
アデノット伯爵は片目を細めて、のらりくらりと調子よく話をするジェラルドを忌々しそうに眺めていた。
「いいかげん人目が気になりだしたハンプシャー公爵が迎えに行くまで、君はハンプシャー公爵夫人と夫婦にでもなったつもりだったのですかね?」
「もう、アデノット伯爵ったら、厳しいなあ」
ジェラルドは降参するように頭を掻いて見せた。
するとアデノット伯爵が不愉快そうな顔で、
「君の異例の出世もハンプシャー公爵夫人のおかげだと噂ですよ。なにせハンプシャー公爵夫人は国王陛下の昔の恋人。なんなら今でも愛されてる。いつだって国王陛下はあの美人のハンプシャー公爵夫人を目で追っているのですから」
と吐き捨てるように言った。
「そういう根も葉もない噂はやめてくださいよ。2年も外国で遊んでいて何が出世ですか。僕はダメ貴族の筆頭ですよ」
とジェラルドが首を竦めると、アデノット伯爵は、
「ダメ貴族が、どうして王宮の法務関係の室長とかやってられるもんですかね。エリートじゃないですか」
と食い下がる。
だいぶやっかみが入っているのだ。
ジェラルドは、はははと笑ってお茶を濁そうとした。
「手厳しいなあ。まあ、面と向かって言ってもらえるだけマシですけどね」
「ふん。ハンプシャー公爵夫人がトレボロー伯爵に乗り換えて、残念でしたね」
アデノット伯爵が意地の悪い言い方をしたので、ジェラルドは腹に思うところがあるのか、アデノット伯爵に無言でじろりと鋭い目を向けた。
「……」
アデノット伯爵はジェラルドのその視線に気づかないまま、ふうっとため息をついて言う。
「君がハンプシャー公爵夫人を捨てたのか、ハンプシャー公爵夫人におまえが捨てられたのか、みんなが噂し合っていますよ。まあ、ハンプシャー公爵夫人が尊大な態度でトレボロー伯爵を呼びつける様子も気に入りませんがね。まったく、風紀ってもんが乱れまくっていますよ」
「……」
ジェラルドはやっぱり何も答えなかった。
アデノット伯爵はジェラルドが不愉快そうにしているのには全く無頓着のまま、無邪気に文句を続けている。
「こんなに堂々と駆け落ちなんかやらかしているのに、あの艶やかなハンプシャー公爵夫人となると皆遠慮して何も言わなくなるんですからね。議論になれば誰も彼女には勝てないと思って。彼女もそうやって思っているから、何事もなかったように澄ましている。国王陛下が彼女に甘いのも問題です。ハンプシャー公爵夫人が取り澄ましているから君もさも当然のようにしているし。まったく嘆かわしい」
ジェラルドは、話がトレボロー伯爵から外れたので、ようやく返答をした。
「だから、駆け落ちなんかじゃないってことですよ」
「そんな言い訳はギリギリですな。大声で言わない方がいいです。表だって国王陛下の前で批判する人はいないでしょうが、私みたいな考えの人は大勢いますからね。でも、ハンプシャー公爵夫人だって、君と浮名を流したことで注目の的なんですからね。すっかりゴシップ女王として社交界の噂の的ですよ。君はハンプシャー公爵夫人に本気だったのかもしれないけど、君の軽率な行為がハンプシャー公爵夫人の名を貶めてることもちゃんと考えておきたまえよ」
アデノット伯爵が罵るので、ジェラルドはいいかげんムッとした。
誰がハンプシャー公爵夫人に本気だったって!?
こっちの気も知らないで、本当好き勝手なことを言ってくれる!
トレボロー伯爵の名を出すが、彼の本音だって聞いたことがあるのかい?
噂通りの女好きで、ハンプシャー公爵夫人の申し出をもろ手を挙げて喜んでいるようなら世話ないが、もしそうじゃないなら彼が気の毒だとは思わないか!?
彼は親切心をただ利用されている被害者かもしれないぞ……。私のように。
ジェラルドは、ぺらぺらとよけいなことを喋る男め、とアデノット伯爵を睨んでいる。
ジェラルドにしか分からないことがあるのだ。
ハンプシャー公爵夫人――国王陛下の元恋人だったが、国王陛下が現王妃と結婚する際に政治的な理由で別れ、名門中の名門のハンプシャー公爵家に嫁いだ。美しくて聡明で、よけいなことを喋らない見事な女性だよ。賢くて健やかな男児を授かり、女なら誰しもが彼女の存在に一目置くだろう。
そんな彼女が俺なんかと駆け落ち騒動を引き起こさずにはいられなかった理由はなんだ!?
彼女の覚えがめでたかったために、ゴルトベルク公爵家次男でありながら、俺が国王陛下から『伯爵』の称号を賜ったのはなぜだ?
彼女の産んだはきはきとした男児が横に置かれ、ハンプシャー公爵の弟が次期家督を継ぐことになった理由はなんだ!?
俺はハンプシャー公爵に逆らいきれず彼女を途中で手放してしまったが、俺の後を継ぐトレボロー伯爵は彼女の期待に応えられるのか?
しかし、ジェラルドがそれをアデノット伯爵に軽々しく全部吐いてしまえるはずもなく、真実は胸に秘めておくしかない。ジェラルドはぐっと堪えた。
「……よく理解していますよ、アデノット伯爵」
ジェラルドは、ご忠告感謝しますとでも言いたげに深々と頭を下げて見せながら、中身のない薄っぺらな同意を口にしたのだった。




