2 君の王子様
「呪いが強まってるみたい」君はそう言った。なんでも、昔は人の記憶からまで消えるということはなかったらしい。それなのに、次第に昼間から姿が消え、段々と記憶からも失われていく。その過程で、忘れない僕に出会ったんだと――。
「お兄ちゃん、どうしたんだい」
ある晩、店先で不思議そうに「やまと」のおじさんが言った。
「コロッケ? それともハムカツかな」
よく君が隣で買う商品だった。卑しい僕には既に男としてのプライドは存在しなかったから、買ってもらうのが当然となっていた。今だって、すぐ傍で君がコロッケを二つ注文しているのに、おじさんは僕の方だけを見て首をひねっている。
少しずつ君は、夜からも姿を消してしまうみたいだった。
結局僕が初めて買ったコロッケを手にして、いつもの高台のベンチに腰掛けた。ほかの人から見たら、どんな光景なんだろう。宙に浮いたコロッケが一口ずつ消えていくのかな。黙々と口を動かす君を眺めながら、僕は考えていた。
「私の姿、まだ見える?」
「見えてるよ」
「朝がきても、覚えてる?」
「忘れない」
いつも自信満々な君にしては珍しい、打ちひしがれたその顔は、今にも泣き出しそうだった。コロッケを食べ終えても君は思いつめていて、だから僕は、その片手を握った。
「夜を追いかけよう」
西に向かえば、少しは夜を長続きさせられるはずだ。そんな僕の計画に、君は神妙な面持ちで頷く。冷静になればバカバカしい話だけど、僕も自分の提案が凄く立派なものに思えたんだ。その為に図書室で地図や路線図を借りてきて、夜になると一緒に眺めて計画を練った。こんなに真剣に何かに取り組んだのは、僕史上はじめてのことだった。
当日、僕は持っているお金を全部財布に突っ込んできた。使い込まれなかった昔からのお年玉をありったけポケットに入れて、放課後になると帰宅しないまますぐに駅から列車に乗った。姿を消した君もついてきていて、夜の七時を過ぎて日が暮れると、僕の隣に現れた。夏の夜。もう少しで夏休みを迎える三日月の夜。
乗り換えて、ひたすら西にある駅を目指した。切符を二枚買おうとしたけど、君はそれを遮った。僕は、一人分しか買わないことに、君の存在が否定されてるみたいで嫌だったんだけど、現実問題としては君の言うことが正しかったんだ。少しでも遠くへ向かうにはお金が必要で、帰るときにも復路の代金がなければ途方にくれることになる。なんだか悔しかった。
途中で新幹線に乗り換えて、一層速度を得た僕たちは、目的の駅で更に深夜を走る夜行列車に乗る。
これは、僕と君との逃避行だ。一晩だけの、誰の目にも止まらない、世界への挑戦だ。どこまでも逃げてやる。君を失わない世界に、僕らはどこまでも行ってやる。
真夜中、いつまでも追いつけない月を僕が睨んでいると、隣に座る君が僕の右手を握った。
「眠くないの」
随分変なことを聞くなあって思った。
「眠いわけないよ。誰のせいで夜行性になったと思ってるの」
「さあ。そっか、学校でいっぱい寝てるもんね」
ばーか。僕は呟いた。ばーか。君も真似してくすくす笑うから、僕も真似してくすくす笑った。通路を通りかかった乗客が、僕の方を不気味そうにチラ見したけど、知ったことじゃなかった。それよりも、月下美人だよと僕はその人に教えてあげたくて仕方なかった。僕の隣には、月下美人がいるんだよ。けれど、それを言う前にそそくさと隣の車両に移ってしまったから、僕らは一層おかしくなって笑った。
夜は遠く、朝はしつこく。僕らは必死に夜を追いかけ、朝から逃げ惑っていたけれど、次第にそれらはいつもの通りに迫っていた。
途中の駅で僕らは降りて、西を目指して歩いているうちに、どうしようもない行き止まりに突き当たったんだ。ひたすらに広い海。どれだけ夜が長かろうと、僕らの足では到底渡りきることのできない夜の海。今だけでも魚になれたらな。君のせいで、僕は変なことを考えるようになってしまった。
「私が見えるなんて、君は不思議な人だね」
「そっちの方が不思議だよ。僕なんかよりずっと」
「似た者同士だね」
「うん」
君にかかった呪いは、王子様のキスで解けるような簡単なものではなかったし、その点でいえば僕は君の王子様ではなかった。あの時の、いつも大人びてみせる君の恥ずかしそうな顔を、僕は忘れられない。そこから先に進む気は、君にも僕にもなかった。冷めてるくせに子どもじみた僕たちには、これで十分だったんだ。
「私のことが見えるから、好きになったんじゃない。もしも私が見えなくても、私は君を好きになっていたよ」
目を開けて、朝が煙のように立ち込める中、僕は一人で家路に着いた。初めて抱きしめた君の温もりだけが、胸の奥でろうそくの炎のように揺れていた。
さて、夜にはまんまと逃げられた。どこまでも追いかけたつもりだったのに、僕らはそれを逃してしまったんだ。
*
「あれ」
ある夜、僕は誰もいない道を振り向いた。さっきまですぐ横で笑っていた君が、少し目を離した隙に居なくなっていたんだ。夜の虫がじーじーと鳴きわめく、夏のにおいと暑さがむわっと皮膚に蒸れる深夜の道の上。
「隠れないでよ。置いてくよ」
見た目の割にいたずら好きな君のことだから、僕を脅かそうとして電柱の後ろにでも隠れてるんだと思った。だから僕はそう言ったんだけど、君の返事は聞こえなかったし、電柱の裏には猫の子一匹いなかった。夜の更けた暗闇がやけに不気味に思えたけど、僕はそのまま夜を歩き続けていつもの高台で朝を迎えた。結局その夜、君が再び現れることはなかった。
*
「もう、見えなくなっちゃうのかな」
次の夜、月明かりの下で君は寂しそうに呟いた。昨晩、君はどこにも隠れていなかったし、どうやら君が消えたのではなく僕に君が見えなくなったようだった。
恐れていた事がついに起きてしまった。最悪は、ここにいるぞと足音を立てて僕たちに迫っていたんだ。
時折、僕にも君が見えなくなっていた。ふと視線を離すと、君は夜闇に紛れて消えてしまう。だけど、君はいるんだ。ひとりぼっちで、僕の傍に寄り添ってくれているんだ。ただ、僕には君が見えないだけで。
「ずっと、夜になればいいのに」
君の初めてのわがままは、とても壮大だった。
「みんな、困っちゃうね」
夜が明けない世界はとても理想的だけど、世の中にはそうでもない人はたくさんいる。眩しい太陽を望む、僕たちとはまるで正反対な人達が。僕は足元の雑草を蹴る。すると君は、笑って言った。
「たった一人、困らせたいだけなんだ」
どうして、呪われたのが君なんだろう。月下美人は、何が憎くて君を選んだんだろう。ごめんね、と言う君の目尻が光る。
「本当は私、消えたくなんてないの」
君は、初めての弱音さえも美しかった。
――僕は夜を探した。暗闇を求め続けた。君の住む世界をいつだって望んだ。
そして遂に、僕は永遠に夜を迎える方法を思いついた。それはまだ、君には言えなかった。
君の涙を見た三日後、僕は夏休みの学校の理科室に忍び込んだ。
*
日が暮れてから家に帰り、床に散らばるビールの空き缶や督促状を踏まないようにして、僕は制服のまま部屋の隅の布団に潜り込む。下手に物音を立てて今さら青アザを増やすだなんて、バカバカしいにも程があるじゃないか。
隣の部屋のいびきを聞きながら、薄暗く汚い部屋の光景を視界に入れて、思わず一人で苦笑した。弁当の空箱や空き缶、古新聞や着替えが散乱するこの部屋が、最後に見るものになるだなんて。
けれど贅沢は言っていられない。今夜も「やまと」の前で僕を待っている君のことだけを思い浮かべて、手に持ったビンの蓋を開けた。
つんとしたにおいが鼻をつく。いつしか自棄になってそこらの酒をあおった時の味を思い出した。酔っている内に済ませられるなら、最高だよな。
夢の中、君はあの高台で、一人きり笑って手を振っていた。




