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1 やまとの前で

 寂れた街の端にある惣菜屋「やまと」の前を、僕はその夜偶然さまよっていた。近所の主婦から会社帰りのサラリーマンまでを客とする「やまと」は、夜の十時前という遅い時間でも明かりを灯している、働き者の店だった。そんな作りたての惣菜のにおいに、僕は卑しい動物のように、もしくは明かりに誘われる虫のように釣られていた。腹を空かせていても夜食を買う金なんてない僕が、野良犬のようにうろついているさまを見て、恐らく君は同情心より滑稽さを覚えたんだろう。一つ二つ年上の君はお姉さんの顔をして、「買いすぎちゃったから、食べて」と言ってホカホカのコロッケを僕に差し出したんだ。買いすぎたってなんだよ。そんなふうに思いながらも、育ち盛りで空腹な僕はまんまと餌付けされたってわけなんだ。


 それが始まり。そして始まった時から、君は綺麗な人だった。惣菜屋のおじさんが、毎回コロッケやハムカツを一つおまけしてくれるくらい。並んで人通りのある道を歩けば、多くの人が振り返った。僕に人目を引く力なんてないから、それは君の功績だった。まるで美しい花が人の視線を集めるように、みんなが君に見とれるんだ。

 そして君は、夜だけの人だった。なんの暗喩でもない、夜にしか見えない人。

 陽が昇れば、君の姿は消えた。本当に霧のように消えてしまい、誰の目にも触れなくなる。そして世界は君を忘れてしまう。全ての人の記憶から抹消され、夜になると再び姿を現す。

 僕は最初信じられなかったけど、一晩中きみと夜遊びをして朝になる頃、次第に消えていく様子を目の当たりにして、全ては嘘じゃないって知った。

 そして君は、いつだって「やまと」の一見さんだった。みんな君の記憶を失ってしまい、昨晩の君を覚えているのはどうやら世界で僕だけみたいなんだ。


「私はね、月下美人なの」

 高台の公園で、熱い手羽先を一足先に食べ終わった君は言う。月下美人がどんな花かは知らないけど、その名の通り美しいものには違いない。

「すごい自信だね」

 名残惜しく指先を舐めながら僕は生意気に返したけど、君の姿を見てなるほどと思った。

 中三の僕より少し年上の君は、見たことのない高校の制服を着ていて、そのスカートを花弁のごとく揺らしながらローファーのつま先でくるりと回った。背に流れる黒髪に月光が眩くて、満月を背にしたその光景は、ため息が出るほど美しかった。こちらに向く笑顔に、僕は瞬きを忘れて見とれてしまった。

「これはね、呪いだよ」

 自分の美しさを、その存在の謎を君は呪いだと言った。


 ゲッカビジン。翌日その名を学校の図書室で調べて、植物図鑑の一ページに僕は君の姿を見た。白く華麗な花の様子は、まさに昨晩の君を思わせた。夜にだけ咲く花。君は僕たち人間よりも、この花に近い存在なんだと知った。


 僕は君のせいで、すっかり夜行性になってしまった。


 家から歩いて五分程度の公園の水屋で、僕はテーブルに突っ伏していた。家になんて長居したくないし、時間を食い潰せる友達の家なんてのもなかったから、僕は帰ってから君に会うまでの時間を近所の公園でよく潰していた。

 次第に猛烈な眠気に襲われて、数学の宿題の文字が読めなくなって、僕は知らない間に居眠りをしてしまっていた。夜行性になった僕は、圧倒的に寝不足だった。

 ふと目が覚めて、顔を上げて、思わず小さな声を上げて仰け反った。おかげで椅子から転げ落ちそうになる。周囲はすっかり暗くなり、夜の時間がやってきていた。

「いい反応だね。百点!」

 そう言って、正面の席で君は笑っていた。僕が起きるのを待っていたらしい。

「いるんなら、起こしてくれればよかったのに」

「あんまりぐっすり寝てるから。起こす気になんてなれないよ」

「時間がもったいないよ」

 目をこすりながら僕が言うと、君は嬉しそうに笑った。立ち上がるとテーブルをまわってこちらにやってきて、教科書を覗き込む。

「宿題多いんだ。放課後も図書室で教科書広げてたよね」

 そんな台詞に僕は眉間に皺を寄せた。言う通り、僕は下校時刻がやってくるまで、放課後は図書室で過ごしていたのだ。

「なんで知ってるの」

 答えは簡単だった。君は姿の消えた今朝からずっと、僕の後をつけて一日を過ごしていた。どうしてそんなことをするのか訊くと、「暇だから」と君は当然な顔をした。

「昼休みも図書室で本を読んでいたよね。友達いないの?」

「うるさいな」

 僕が不機嫌な声を出すと、君はおかしそうに笑ってくるりとスカートを翻し、隣に腰掛ける。

 僕の通う古い学校は、いっそう古臭い図書室を持っていて、そこは僕のお気に入りの場所だった。紙のにおいと薄暗い天井に囲まれていると、普段あらゆることに揺らぐ心が不思議と落ち着くんだ。何より、学校にあるくせにお喋り禁止という文言が僕は気に入っていた。黙っていれば変人扱いされる教室とは違って、寡黙さが評価されるその場所は、僕にとっての精神安定剤たりえた。喋るのが嫌いなわけじゃない、よく知らない奴との無駄話が嫌いなんだ。それを無駄と捉える僕の欠陥を、一人の図書室は埋めてくれる。

「六時間目の社会の時間も、よく寝てたね。国語の時も。私、教室に忍び込んだのに、全然気づかないんだもん」

「眠いからね」

 もう僕に注意をすることは、教師陣はすっかり諦めている。遅刻はおろか、無断欠席すら常習の僕に、居眠り程度で時間を潰すのは勿体無い。起こしてくれる誰かもいない僕は、完璧にクラスの腫れものだった。

「寝ててもいいよ、中学生」

 そう言って頭に軽く触れてくるのに、僕は広げていた教科書とノートを鞄にしまった。

「やだよ。次寝てたら起こして」

「夜なのに、変なセリフだね」

「だって、一緒に散歩、行きたいし」

 僕にだって、大切な時間とそうでもない時間の区別はある。その為に昼間体力を温存してるんだ。不良だって言われても、知るもんか。

「仕方ないなあ。じゃあ、今夜も一緒にいこっか」

 そう言うと君は、僕の腕を握って嬉しそうに笑ってみせる。あどけなさの残るその表情を見て、僕は一人でいる図書室よりも居心地のいい場所を見つけた気がした。


 くだらない会話の重要性を、僕は知っているつもりだ。それが僕には困難であることも。くだらない会話の積み重ねの先に、痛みを分かち合える繋がりがある。だから、その過程をバカバカしいと吐き捨てる僕と親しくしたいと思う人間がいるはずもない。この痛みは僕だけのものと、僕はバカバカしくも大切に囲って独り占めしてきたのだ。

 それなのに、君との会話は何もかもが貴重なものだった。その沈黙でさえも美しかった。痛みを僕は見せられたし、君の痛みも教えられた。口にするのも憚られる不幸を見せつけ合い、醜く傷を舐めあえる、互いに心の拠り所となったのだ。


「その顔、どうしたの」

 今夜は一緒にどこを散歩しようか。そんな事を思っていた僕の頬を、君は細い両手で包んだ。冷たくも温かな、植物なんかじゃない、確かに生きている人間の君の手で。

 学校で喧嘩をしたと、咄嗟に吐いたのが嘘であることを君は見抜いたに違いない。それでも何も聞かないまま、左頬のアザを親指で撫でながら君は悲しそうな顔をした。

「なんでもないよ。痛くないし」

 ぶっきらぼうに言い捨てて顔を離し、僕は乱暴にアザを左手で拭った。嘘をついた手前、鈍い痛みを顔に出すわけにはいかなかった。

 そんな僕の頬を再び両手できゅっと挟んで、君は愉快そうに笑ったんだ。

「へんなかお」

 なにすんだよと喉から零れかけた台詞を僕は飲み込んだ。君があんまり楽しそうに笑うから、僕も不満よりおかしさがこみ上げて笑ってしまった。本当に参った。ああ、僕はこの人に永遠に勝てないんだなって。

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