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「悟能さん!」
「翠蘭!?」
納屋の中に飛び込み八戒に抱き付いたのは、涼香達をここまで案内してきた翠蘭だった。
「お前、どうしてここに」
「そんなの、悟能さんが心配だったからに決まってるでしょう?」
「だけど……あっしが妖だって、お前もわかったんだろう?」
「ええ。でも、ずっと前から知っていたから」
「ええっ」
「だって悟能さんたら、眠るといつも妖の姿になるんですもの」
翠蘭は目を丸くしている八戒に微笑んでみせた。
「でも、あなたを慕う気持ちに変わりはなかった。だから私はずっと前に決めていました。あなたが人でなかろうとかまわない。ずっと添い遂げよう、って」
「翠蘭……」
「悟能さん」
「……あー、そろそろいいか?」
見つめ合う二人の空気を破ったのは、うんざりした顔の悟空だった。涼香は二人から目を逸らしていたたまれない様子である。
人目があった事を思い出し、八戒と翠蘭は顔を赤くしてぱっと離れた。
「そ、そういえばあんた達は?」
「俺は孫悟空。この人は俺の師匠の白翼三蔵法師。この屋敷の主人、高大公にお前を退治するように頼まれた旅の僧侶とその弟子さ」
「なっ」
「悟空!」
にやりと笑う悟空に八戒は一歩後退り、涼香は眉を釣り上げる。
「冗談ですよ、お師匠さん。まあ、退治を頼まれたのは本当だが、今のところその気は無い。――ですよね? お師匠さん」
「ええ。翠蘭さんの話を聞いて助けにきたのです」
「あっしを助けに? それに旅の三蔵法師様だって? もしやあなたは観音様が仰られていた、天竺に経典を取りに行くお坊様なんですかい?」
「観音だって?」
八戒の言葉に反応したのは悟空だった。
「観音がなんだって?」
「あっしがまだ人食いの化け物だったころに会ったんですよ。それで、まっとうになりたいなら毎日精進料理を食べて身を清めながら、経典を取りに行くお坊様に弟子入りするように言われたんです。長い間待っていたけど待ちくたびれて、今まで忘れちまっていましたよ」
「そう……ですか」
「はい。で、あなた様がそのお坊様で?」
「い、いえ。その……」
涼香はどう言ったものかと悩み、ちらりと悟空を見る。
「あー、何ていうか。そいつは俺が食っちまった。悪いな」
悟空はがりがりと頭を掻くと、面倒だと言わんばかりにさらりと告げた。ぎょっと八戒が目を剥く。
「はあ!? 食った!? 観音様に言われた人を!?」
「で、この人はそいつの代わりに経典を取りに行くことになっている。でもな、弟子は俺一人で間に合っているから、お前はその娘と仲良く暮らせ」
「まさかの弟子入り拒否!?」
「え。ちょっと待ってください、悟空。そんな勝手に……」
「なら、お師匠さんはこの豚が弟子に欲しいんですか? 俺がいるのに?」
「い、いえ、そういうわけではなく、ですね」
「あー、もう! いったいどういうことなんだよう!!」
「ご、悟能さん落ち着いて」
などと。一時騒然とした四人だったが、そんな事をしている場合ではないということで、三蔵と弟子入りの件はひとまず置いておくことになった。
問題は、これからどうするのか、である。
「ううん。この邑にいるわけにはいかないよなぁ」
「私、ついていきます」
唸りながら八戒が言うと翠蘭は迷いなく言い切った。しかし、八戒はそんな彼女を諭す。
「高大公のお義父さんはどうするんだい。父一人、子一人じゃないか」
「それは……でも」
悩む二人を見守りながら、涼香も頭を悩ませていた。いったい、どうすればいいのだろうか。
「悟空。なにかいい考えはありませんか?」
一人我関せずといった様子の悟空に尋ねると、猿の大妖は目を瞬いて嬉しげに顔を綻ばせた。
「珍しいですね、お師匠さんが自分から俺を頼るなんて」
「そ、それは……」
口籠もる涼香を笑みを浮かべて見やり、悟空は顎に手をあてた。
「そうですねえ。正直俺はどうでもいいんですけど、お師匠さんが気になるなら手をかしてもいいですよ」
「……なにか考えがあるのですか?」
「ええ、まあ。――おい、豚」
無遠慮に呼び掛けられ、八戒は顔をしかめる。
「……あっしには猪悟能という名があるんですがね」
「そうか。まあ、それはどうでもいい。とにかくだ。お前、俺達に退治されろ」
「……はあ!?」
「えっ」
「ご、悟空!?」
悟空の言葉に三人はそれぞれ驚きの声を上げる。そんな三人の前で悟空は楽しげに笑っていた。
*****
「で、では悟能はもう?」
翌朝、涼香と悟空は高大公を連れて納屋に向かっていた。その道すがら二人が八戒を退治した事を告げると、高大公は目を見開いて驚いた。
「ええ、私の弟子が」
「おお。そちらのお弟子様が」
重々しく涼香が答えると高大公は驚きながら悟空を見る。悟空はその視線を受けて頭を掻いた。
「大したことはない、と言いたいとこだが、ちょっとばかりやりすぎちまった。すまねえな」
「と、申しますと?」
「あれだ」
言って悟空が指し示したのは、屋敷の裏庭にある納屋――の、残骸だった。
「こ、これは……いったい」
黒々と燃え尽きている納屋を前に高大公は絶句し、涼香は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。思ったよりも妖が手強く、強力な術を使ったところ、このように」
「そ、そうなのですか」
額に脂汗をかいた高大公は、それで、と話を続ける。
「猪悟能のやつは……」
「燃え尽きて、灰に」
「そう、ですか」
高大公は呟くように言うと納屋の残骸を改めて見つめた。あれほど怒りを顕にし、退治を依頼していた人物とは思えないほど、静かな横顔だった。
*****
「――これで良かったのでしょうか」
妖退治の謝礼金を固辞して高老荘を後にした涼香と悟空は、邑近くにある雑木林の中に佇んでいた。
「さあ。でも他に案もありませんでしたしね」
涼香の物憂げな言葉に悟空は肩をすくめる。
「それは、その通りですが……あなたはどう思っているんですか?」
「あっしですかい?」
と、声をあげたのは小太りの男。退治され灰になった筈の八戒だった。
「あっしは……そうですねえ。退治されたふりをして一度邑から離れて、しばらくしてほとぼりが冷めた頃に別の姿に変化して戻る、なんて思いつきもしませんでしたよ。孫の兄貴も策士ですねえ。ええ、別段不満はありませんよ」
「姿を変えることについては?」
「別にあっしはどんな姿でも。この姿だって変化してるだけですし、翠蘭もあっしがどんな姿だってかまわないと言ってくれましたしね」
「それはそれは」
照れながらの八戒の言葉に、涼香は苦笑しながら納得することにした。
涼香と八戒の話が終わるのを待ち、悟空が口を開く。
「で? お前はいつまでついてくるつもりなんだ?」
「やだなあ、孫の兄貴。冷たいことを言わないでくださいよ。旅は道連れって言うじゃないですか。せめて次の邑までご一緒させてくださいよ」
「邪魔だ」
「ご、悟空……」
涼香が悟空を嗜めようとした時だった。
かあん、かあん
切羽詰まったように打ち鳴らされる鐘の音が三人の耳に届いた。
「これは?」
「――火急の時に鳴らされる鐘です! 邑に何かあったんだ!」
涼香の問いに答えるや否や、八戒は勢いよく邑に向かって駆け出した。涼香もリョータの手綱を近くの木に結びつけると、邑へと走りだす。
「お師匠さん?」
「邑へ戻ります」
「……あんまり危ない目にはあわせたくないんですけどねえ」
悟空のぼやきに涼香は耳を貸さない。悟空は仕方ないか、と溜め息を吐いた。
邑の方角からは悲鳴が聞こえてきていた。