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夜。涼香は与えられた客室で一人お茶を飲んでいた。悟空はなにやら用事があるとかで外出中である。
くれぐれも外には出ないようにと言い含められ、こうしておとなしく部屋に籠もっているのだった。
「ふう」
大きく息を吐く涼香の顔には疲労が滲んでいる。
(ご飯は確かにすごく美味しかったけど……)
今世では初めての、贅沢な食事だった。ただし、高大公の度重なる退治依頼に味は半減してしまったが。
それでも十分に美味しかったのだが、期待に満ちた高大公の眼差しに涼香は胃が痛む思いをした。隣で平然と箸を進める悟空が憎らしく思えた程である。
(睨んでも笑い返されたけど)
思い返すとやはり腹が立つ。
とにかく、なんとか高大公の要求を躱し続け、返事は明日の朝ということになった。あれほどの期待に応えられないのは心苦しいが、八戒を懲らしめるくらいはするつもりだし、今はとにかく休みたい。
お茶を飲み干して寝台に入ろうとした涼香だったが、ふいに何かの音が聞こえてきた。
(風? ……ううん、人の、泣き声?)
一瞬幽霊の類かとぞっとした涼香だが、よくよく聞いてみると女の泣き声に聞こえる。もしや高大公の娘、翠蘭かと思い当たった。
(翠蘭さん……なのかな)
猪八戒に無理やり妻にされた翠蘭が、我が身の不幸を嘆き泣いているのだろうか。そう考えるといてもたってもいられず、気付けば部屋の外に出ていた。
(悟空が帰ってくるまでに戻れば……大丈夫よね?)
妖は心配だが、泣き声が気になって仕方ない涼香は、声が聞こえる方向へと足を踏み出した。
*****
泣き声は離れの一室から響いていた。むせび泣く声に胸を痛めながら涼香は遠慮がちに扉を叩く。ぴたりと泣き声が止まる中、声をかけた。
「もし。私は旅の僧ですが、何かお辛いことでもあるのでしょうか。話を聞くくらいならば出来ますが……」
「お坊様!?」
椅子か何かが倒れる音がして、若い娘の声が扉のすぐ側から聞こえてきた。
「お坊様、お願いいたします。どうか、あの人を、悟能さんを殺さないで下さい!」
「えっ」
悟能。確か猪八戒の名前である。
(殺さないでって……逆ではなく?)
殺して、なら過激ではあるが話はわかる。しかし、その逆とは。
「と、とにかく落ち着いて。中に入れて、話を聞かせて下さい」
「それが、出来ないんです。私は父に閉じ込められていて、扉を開けられないんです」
「高大公に?」
「そりゃまたどうして」
「えっ!?」
突然背後から聞こえた男の声に涼香は驚いて振り返り、再び驚いた。
「ご、悟空!? どうして……」
薄暗い廊下に立っていたのは、出かけている筈の悟空だった。悟空はにこりと笑う。
「驚かせちまいましたか。これはどうもすみません。いえね? どっかの誰かさんが、出ないようにときつーく言っておいた筈の部屋を出た事に気付きましてね? こうして慌てて戻ってきたというわけですよ」
「あ、はは……」
にこやかに嫌みを言われて涼香は引きつった笑みを返した。そんな彼女を悟空は笑みを消してじろりと睨み、軽く息を吐いた。
「まあ、それは後でいいですよ。ちょっとどいて下さい」
涼香が場所をあけると悟空は扉の前に立ち、片手で印を組むと何事かを呟いた。すると小さな金属音が響き。
「開きましたよ」
悟空の言う通り、扉が開いたのだった。
*****
部屋の中に入った涼香と悟空を迎えたのは、淑やかな風情の美しい娘であった。しかし、泣き腫らした目元が痛々しい。
娘はやはり翠蘭で、猪八戒の妻であった。
「お坊様、改めてお願いいたします。どうか、悟能さんを……妖を退治するなどお止め下さい」
「それなんだが」
悟空は腕を組むと眉根を寄せた。
「どうもあんたとあんたの父親は言うことが違うようだ。邑の者にも話を聞いてみたが、皆口をそろえて仲の良い夫婦だと言う。いったい、どういう事なんだ?」
話が違う。それこそまさに涼香も感じていたことだった。問い掛けられた翠蘭は逆に悟空に尋ねる。
「父は、あなた方になんと?」
「豚の妖が無理やりあんたを嫁にしたからぶっ殺して欲しいとよ」
「悟空!」
「おっと。口が悪かったですね、失礼」
悟空はしれっと謝る。ただし、翠蘭にではなく涼香にだが。涼香はもう一度嗜めようとしたが、その前に翠蘭が苦し気に言った。
「父がそんな事を……それは全て偽りです」
「……偽り?」
「はい。私は無理やり妻になったわけではありません。悟能さんを好きになったから、妻となったのです」
翠蘭はそう言って微笑み、八戒との出会いを話しだした。
「私と父が商売の事で都に出かけた時、その帰りの道中でならず者に襲われて……あわや、という時に助けてもらったのです」
そしてその時怪我をした高大公を気遣い、ここまで連れてきてくれたのだという。八戒はそのまま高大公の手伝いとして店に残り、やがて翠蘭と恋仲になった。
明るく働き者の八戒を高大公も気に入っていて、二人の仲を諸手をあげて賛成し、二人は祝言をあげた。しかし。
「つい、数日前……父が、あの人に無理にお酒をすすめて。いつもなら悟能さんが断ったらそれで収まるのに、あの日はひどく酔ってしつこくて」
結局、八戒は渋々酒を口にしたのだという。
「一杯、もう一杯とすすめられて……」
「なるほど。さては酔っ払って本性を現したな」
「……はい」
悟空の言葉に翠蘭は沈痛な表情で頷く。
「父はひどく驚き、妖だったなんて騙されたと怒り狂いました。そしてそのまま、酔って寝ているあの人を納屋に閉じ込めたんです。止めたのですけど、私もここに閉じ込められてしまって……」
いったいどうしたら、と悩んでいたところ、今夜高大公がやってきて、旅の僧侶に退治依頼をしたと聞かされたのだと翠蘭は締めくくった。
「それで泣いていたんですね」
「はい。何も出来ない我が身が呪わしくて」
「……二つばかり疑問があるんだが」
再び目に涙を浮かべる翠蘭に悟空が問い掛ける。
「まず、なんで高大公のヤツは自分で退治しようとしないんだ?」
「それは、やはり恐ろしいからだと思います。酔っている時は勢いで納屋に閉じ込める事ができたものの、改めて扉を開け、仕返しされるのが怖いのでしょう。父は腕には自信がありませんし、悟能さんは妖ですから。もっとも、悟能さんはそんな事をする人……いえ、妖ではないのですけど」
「そうか。まあ、わかった。じゃあ、もう一つだ。あんたはそいつが妖だって知ってどう思ってるんだ? あんただって知らずに祝言をあげたんだろう? 高大公のヤツと同じように騙されたって思わなかったのか?」
「いいえ、思いませんでした」
だって、と翠蘭は小さく微笑む。
「私はもうとっくにあの人が妖だって気付いていましたから」
*****
八戒が閉じ込められている納屋は屋敷の裏庭にあった。
「おい、中にいる豚。聞こえているか?」
「ちよ、ちょっと悟空」
「……誰だい?」
納屋から聞こえてきた声はひどく落ち込んだ男のものだった。
「今から扉を開ける。おとなしくしてるなら危害は加えねえ。わかったな?」
「扉を? あんた達はいったい……」
悟空は一方的に告げると相手の言葉が終わるのを待たずに術で扉を開けた。
納屋の中でぽかんと口を開けていたのは、小太りの男だった。温厚で素朴な感じのする顔で、くりくりとした茶色の目に愛嬌がある。
(この人……ううんこの妖が猪八戒)
豚の妖、猪八戒との初対面であった。