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宇宙少女

川崎の夕暮れは


駅前の街角、花壇の縁にしゃがみ込み、くしゃくしゃの野球帽を地面に置いている。帽子の中には十数枚の小銭と、ぐしゃぐしゃに丸められた五百円札が二枚。今日の収穫は、まあまあだ。


「お立ち寄りくださいませー。これから見せるマジック、世界でたぶん俺だけしかできません。だってすごすぎて、誰も真似できないんで」


だるそうな口調でそう言いながら、彼は足元から拳大の石を拾い上げた。それを観客の前に差し出し、両手で軽く挟んで見せる。


「石です。本物です。仕掛けも糸もありません。もし疑うならこのパーカー脱いで見せてもいいですけど、最近筋トレサボってて、見せてもあんまり得しないと思いますけどね」


数人の通行人が足を止めた。小さな女の子を連れた若い母親、バックパックを背負った高校生、買い物袋を提げた主婦ふたり。


蒼汰は深呼吸を一つ。右手のひらに石を載せ、左手の指を鳴らした。


「——起きろ。」


石が浮いた。ゆっくりと、自分の手のひらから十センチほどの高さまで。空中でゆるやかに一回転し、まるで時間が止まったかのように静止する。


女の子が「わあ」と声をあげた。母親がスマホで撮影を始める。主婦たちが二歩近づく。


蒼汰は神秘的な微笑みを浮かべていたが、その内心でカウントダウンを始めていた。十、九、八……。今日最後のショーだ。ここで決めなきゃ。


七、六、五……。彼は余裕のポーズでピースサインまでやってのける。


四、三、二……


石が落ちた。掌の上で、どん、と鈍い音を立てて。


「十秒ジャスト。どうです?このレベルの浮遊マジック、世界的に見ても結構ヤバい方だと思うんですけどね」


観客たちは拍手し、小銭を帽子に落としていった。高校生が五百円玉を入れてくれた。女の子が「すごいね!」と笑った。


蒼汰は笑顔で「ありがとうございます」と言いながら、心の奥ではため息をついていた。


さっきの十秒。あれが今の自分の限界だ。


あれはマジックじゃない。本当の超能力——念動力だ。この石は本当に、彼の意思で浮いている。彼の脳から放射される何かが、物体を持ち上げる。漫画みたいな話だと思われるかもしれないが、事実だ。


だが、その事実は彼にとってあまりにも残酷だった。彼の念動力ができるのは、拳大の石を十秒浮かせること。それだけだ。もっと重いもの——例えば公園の石のベンチ——を浮かべようと試みた時は、顔を真っ赤にしながら三十分も格闘したが、びくともしなかった。通りかかったおじいさんに「若いもんは便秘で苦しむんじゃないよ」と心配されたのはいい思い出だ。


前に従妹をソファごと浮かせた時は、一分も持たずに頭痛でダウンした。そもそも、何に使えるのかわからない。喧嘩に使えるか?考えたことはある。敵に物を投げつける?折りたたみ椅子ならなんとか飛ばせる。だが、それで相手が倒れるとは思えない。もし本当に街を破壊するような怪物が現れたら、自分の能力は完全に無意味だ。


だから、彼はこの能力を路上パフォーマンスに使っている。悪くない。犯罪じゃないし、それなりに飯は食える。優れた使い道だと思う。


彼は帽子の中の小銭をポケットにしまい、石を片付けた。明日も使える。エコだ。


帰り道、駅前の電信柱に寄りかかって煙草を吸っている若い二人連れの会話が耳に入った。


「昨夜の動画見た?神崎——あの‘神泣’だよ。東区で例の怪物と戦ってたやつ」


「見た見た! あのでかいの、マジでビルぐらいあったよな。触手が高速道路ぶち壊して、三キロも渋滞してたらしいぜ。なのに神泣、五分もかからずに終わらせたんだろ。空中であいつを引き裂いてた」


「しかも前より強くなってない? この前の海のやつ、なんか全身から光出てたよな。俺、リプレイ十回は見たわ」


「あれだけの力持ってたら、俺らみたいな普通の人間は寝て待ってりゃいいわけだよな。いつもありがとうございます、って感じ」


「でもさ、あいつ誰なんだろうな。あんな超人、なんで表に出てこないんだろ」


「正義の味方ってやつじゃね? まあいいや、俺らには関係ないし」


蒼汰は聞こえないふりをして歩き続けた。


神泣。この街で——いや、この星で一番有名な超能力者。正体不明の白い仮面と黒いスーツ。怪物が現れるとどこからともなく飛来し、拳一つで片付ける。テレビの映像で見る限り、神泣は空を飛び、マッハの速度で移動し、巨大な怪物の一撃を片手で受け止めてみせる。彼に倒されていない怪物は、おそらく存在しない。


同じ超能力者だ。


蒼汰はポケットの中で石を撫でた。滑らかな、体温で温まった表面。さっきまで空中に浮かせていた、その石。


神泣はたぶん、同じ力で星を浮かせられる。


嫉妬——いや、嫉妬以上の何かが胸の中で渦巻く。理不尽な怒りと、自分への失望と、どうしようもない虚しさが混ざった感情。同じ能力を持って生まれたのに、あいつは世界を救い、俺は道端で石を浮かせて小銭を稼ぐ。不公平にもほどがある。


でも、それでどうしろと言うんだ。


蒼汰は十六の頃、初めて自分の能力に気づいた時、世界を救う覚悟をしていた。部屋の壁に貼ったアニメのポスターに向かって、鉛筆を浮かせる練習をした。一ヶ月で鉛筆から教科書へ。半年で辞書へ。そして一年後、石ころにたどり着いた。そこから先は、まったく伸びなかった。努力しても、鍛えても、ただ頭が痛くなるだけだった。


身体の中に、明確な限界線があった。それを越えられない自分がいた。


神泣は神で、自分は人間だ。それだけのことだ。


彼はそんなことを考えながら、夜の川崎の街を歩いた。冷たい風が首元をすり抜ける。ポケットの中で小銭がジャラジャラと鳴っていた。


軽く飯を食って、家に着いたのは夜の七時を少し回った頃だった。


彼が住んでいるのは川崎の旧市街にある古いアパートで、築四十年は経っている。エレベーターはない。階段の明かりは鈍感で、足を二回強く踏まないと点灯しないし、点いてもオレンジ色の弱々しい光で、心もとない。


三階まで上がった時、彼は違和感に気づいた。


自分の部屋の明かりがついている。それも、全部の灯りが。


蒼汰は眉をひそめた。朝出る時、確かに消したはずだ。電気代がもったいないから、これは習慣化している。もしかして消し忘れ? いや、そんなはずは——記憶が曖昧だ。なぜか、その部分だけぼんやりとしている。


彼は四階まで上がり、鍵を開けた。ドアを押し開け、靴を脱ごうとして——固まった。


部屋の中に見知らぬ人物がいた。


女の子だ。見た目は十八歳。銀色のショートジャケットを着て、その下に黒いインナー。胸元には渦巻く銀河を描いたバッジ。腰には小さな茶色の革ポーチを下げ、左手首には淡い青い光を放つブレスレットのようなものを巻いている。


髪は明るい黄色。いや、黄色というより、ヒマワリのような、鮮やかな金色に近い。それをサイドで一つにまとめ、肩にかけている。顔立ちは——一言で言えば、この世界の人間じゃないみたいだった。日本人でもなければ、西洋人でもなく、どこかアニメのキャラクターが三次元に飛び出してきたような、妙なアンバランスさがあった。


女の子は蒼汰を見ると、手に持っていたリモコンを音を立てないようにそっとテーブルに戻した。まるで爆弾処理をするかのような慎重さで。


そして、右手を挙げ、五本の指を広げて、ぎこちなく振った。


「……やあ。」


一言。声は悪くなかった。いや、むしろいい声かもしれない。しかしその口調には、盗み食いをしているところを飼い主に見つかった子猫のような後ろめたさが満ちていた。


蒼汰はドアのところに立ったまま、無表情で彼女を見つめた。


「誰だ、お前。」


「えっとですね、その、ですね——」彼女は視線を泳がせた。天井を見て、床を見て、また蒼汰の顔を見る。「説明が、ちょっと長くなりそうで。」


「短くしてくれ。」


彼女は一度深く息を吸い込んだ。そして背筋を伸ばし、なるべく堂々とした姿勢を作って、宣言した。


「わたし、花海といいます。銀河安全協会所属です。」


蒼汰は二度ほど瞬いた。


「……銀河安全協会?」


「そうです! 聞いたことないですよね、そりゃそうです、だって地球はまだGSAの管轄外ですから! でも本当なんです! わたしはGSAのC級要員で、主に太陽系内の惑星の定期巡察を担当しています! 簡単に言うと、宇宙のパトロールみたいなものです!」


彼女は腰のポーチから一枚の透明な板を取り出した。薄いガラスみたいな、しかしその表面には淡い青色の文字と図形が浮かび上がっている。未来のデバイスという言葉がぴったりだった。彼女はそれを操作し、星図のような画像を映し出して、蒼汰に差し出した。


「それでですね、本来の目的地は火星だったんです。火星、わかりますよね? あの赤い星です。でも、ワープの時に座標入力をちょっと——ほんのちょっとだけ間違えまして、結果的に地球に飛ばされてきちゃったんですよ。」


彼女は指で「ちょっと」という距離を表現したが、その「ちょっと」はどう見ても何億キロもの誤差だった。


「それで、ですね——」


彼女の声が急に小さくなる。


「落下地点が、たまたま、あなたのリビングだった、という……」


蒼汰は三秒間、無言で彼女を見つめた。


……これは、何かの冗談だろうか。銀河安全協会? 座標入力ミスで火星から地球に飛ばされる? そんなことあるか? いや、あるのかもしれない。自分自身が念動力を持っている。この星には神泣が存在する。怪物が現実に存在している世界だ。宇宙人がいてもおかしくない、のか?


彼はもう一度、彼女の胸元の銀河バッジを見た。精巧な細工だった。少なくとも、小学生が作る工作のレベルではない。


「……つまり、お前は宇宙人で、本来は火星に行くはずが、ナビを間違えて俺のリビングに着陸したと。」


「はい……厳密には『着陸』じゃなくて『ワープアウト』ですけど、ほぼそんな感じです!」


「で、今はどうするつもりなんだ。もう一度ワープして火星に行けるのか?」


花海の表情が曇った。彼女は左手首のブレスレット——通信端末らしい——を軽く叩いたが、それは淡い赤色に変わり、「ピッ」という弱々しい電子音を発しただけで、青い光は戻らなかった。


「……通信モジュールが故障したみたいで。」彼女はうつむきがちに言った。「しばらく、本部と連絡が取れません。修理には数日かかると思います。」


顔を上げ、淡い色の目で蒼汰を見つめる。その目には、さっきまでのペラペラした雰囲気はなく、かすかな不安が浮かんでいた。


「だから、あの……その、あなたの家に、数日だけ、泊めてもらえませんか? 通信機が直ったらすぐに出て行きますから! 絶対に迷惑はかけません! 家事も手伝えます! 掃除も料理もできます! あ、でも料理は惑星ベースの味付けになるかもしれないですけど——」


彼女は両手を合わせ、頭を少し傾け、目を三日月のように細めて、いわゆる「お願いポーズ」を決めた。


蒼汰はその顔を無表情で見つめていたが、やがてため息をひとつついた。


「……そのポーズ、やめろ。気持ち悪い。」


「え?」


「あと、『絶対に迷惑かけません』って言ったやつに限って、絶対迷惑かけるんだよ。そういうもんだ。」


彼はそう言いながら、彼女の脇を通り抜けてキッチンへ向かい、棚からコップを二つ出して水を注いだ。一つをテーブルに置き、手で「座れ」のジェスチャーをする。


花海はきょとんとした顔をした後、素直にテーブルについた。両手でコップを包み込み、少しだけほっとしたような表情を見せる。


蒼汰も向かいに座った。テイクアウトの炒飯の包みをテーブルの端に押しやり、両腕を組んで彼女を見る。


「確認だ。C級って何だ? ランクがあるのか?」


花海は一口水を飲んでから、真面目な顔で答えた。


「GSAにはDからSまでのランクがあります。Dが一番下で、Cはその上。C級はまだまだ見習いみたいなものです。主に観測と記録が任務で、危険な仕事は基本的に回ってきません。つまり、あなたの言う通り——『初級公務員』みたいなものです。」


「初級公務員が、ナビ間違えて他人の家に突入するってのが、もう問題だと思うけどな。」


花海は顔を赤らめたが、「それはナビが悪いんです」と小声で呟くだけだった。


蒼汰は背もたれに寄りかかり、しばらく沈黙した。今日の出来事を整理している。石を浮かべて小銭を稼ぎ、神泣の話を聞き、飯を食い、帰ってきたら宇宙人がいた。ここまで来ると、日常という言葉の意味がわからなくなってくる。


「——いいぜ。」


「え?」花海が顔を上げる。


「泊まっていい。ただし条件がある。」


「条件?」


彼女が身を乗り出す。蒼汰は指を一本ずつ立てながら言った。


「一、誰も家に連れてくるな。二、俺の物に手を出すな。三、毎日風呂入れ。四、外を出歩くときはその怪しいジャケットをなんとかしろ。この街でそれは浮く。いや、俺が浮く。」


花海は自分の銀色のジャケットを見下ろし、少し不満そうな顔をしたが、「……調光機能で落ち着いた色にできます」と渋々頷いた。


蒼汰は立ち上がり、奥の部屋のドアを開けた。埃っぽい空気が顔を叩く。書斎だった部屋で、今は物置になっている。二年前に整理してから、一度も掃除していない。


「ここ、今日からお前の部屋だ。」


花海が後ろからひょっこりと顔を出し、部屋の中を見て、一瞬絶句した。


「……これ、人を泊められるレベルですか?」


「掃除すればいいだろ。」


「掃除するのはわたしですか?」


「お前が泊まるんだから、お前がやるに決まってるだろ。」


蒼汰はそう言って、物置から掃除機と雑巾を引っ張り出して花海に手渡した。彼女は一瞬、天を仰いだように見えたが、すぐに諦めて腕をまくり上げた。


「……わかりました。やります。でも、手伝ってくれますよね?」


「見てるだけ。」


「冷たい!」


花海はそう言いながらも、雑巾を手に取って、埃まみれの床に膝をついた。黄色い髪が揺れて、リビングの灯りに照らされる。


蒼汰はドアの枠にもたれて、その背中を見ていた。三十分前までまったく知らなかった相手が、今、自分の部屋の床を拭いている。あまりにも非現実的すぎて、むしろ笑えてくる。


「そうだ。」


彼が声をかけると、花海が振り返った。


「名前、もう一回言ってみろ。俺、さっきの説明で全然頭に入ってなかった。」


「……花海です。花の花に海の海。花海。」


「花海か。」


蒼汰はそれを心の中で反復した。変わった名前だ。少なくとも、日本の名前じゃない。宇宙人特有の、奇妙だけどどこか美しい響きがある。


「俺は藤野蒼汰。藤野でいい。」


「藤野さん、ですね。よろしくお願いします!」


花海は笑顔を見せた。さっきのわざとらしいポーズとは違う、少し照れくさそうな、でも確かに自然な笑顔だった。


蒼汰はそれを見て、自分の口元がほんの少し緩んだことに気づいたが、すぐに無表情に戻った。


「あと、一個だけ。」彼は付け加えた。「その炒飯——冷蔵庫に入れる前に、食っていいぞ。多分、俺は今日もう食わない。」


花海の目がぱっと輝いた。


「いいんですか!」


「自分で掃除したご褒美だ。」


蒼汰は自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。ベッドに倒れ込んで天井を見上げる。あのひび割れは、今日も変わらずそこにある。


リビングからは、誰かが炒飯を食べる小さな音と、ときどき「おいしい!」というかすかな声が聞こえてきた。


蒼汰は目を閉じた。明日は早い。また街角で石を浮かせる一日が始まる。でも、今はそれでいいと思えた。少なくとも今夜は、一人じゃない。


彼はそのまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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