(2)『盗賊王』の行方
「おい、どうなってる?!」
「気をつけろっ……ヤツの盗賊技能ならこの状況でも襲撃は可能だ」
視野を奪われた不安が貴族達の恐怖心を煽り、歯止めの効かぬ混乱がより一層加速して、安易な解決策に人を走らせる。
「人数なら……ごほっ……我らが勝るぞ」
「そうとも。盗人なぞに殺られてたまるかっ」
「いけないっ……聞いてくれ!」
濃霧を切り裂くようにレジン卿の叫びが放たれる。その声に必死さがこもるのは、混乱の最中、幾人かが抜剣する鞘走りの音を耳にしたためだ。
「いいか、これは単なる目くらましだっ。直接危害を加えるのが目的ではないっ。下手に剣を振るえば、同士討ちになるぞ」
「いい加減なことをっ」
「黙って攻撃を受けろとでも云うのか?!」
「そうじゃない!」
もどかしげに声を荒げたところで、「いいかい」とレジン卿は前置きを入れ、「落ち着いて考えれば分かることだ」聞き逃すことのないようゆっくりと説明を始める。
「第一に、いくら煙幕を張ったからといって、戦闘職ではない盗賊独りで、これだけの人数をまともに相手できるはずがない。そして第二に、そもそもヤツの目的は、恐らく“勇者の拉致”――間違っても我らの殲滅ではない」
そうはっきりと明言するレジン卿に、疑念を抱く者もいるはずだ。誰かが騒ぎ出す前に、「それというのも――」と続けて根拠を示す。
「煙幕が撒かれる前、ヤツがゲンノスケ殿に当て身を入れて気絶させるのを見たから間違いない。それに何より……今こうしていて、誰かが攻撃を受けている気配を感じるかい?」
依然として、息苦しさを感じるほどの白煙に身を包まれているため、見て確かめることは叶わない。それでも耳をそばだて、肌で空気の流れを感じ、少しでも周囲の変化に気づけぬものかと努力した上で、納得できるところがあったのだろう。
「……確かに」
「云われてみれば……」
ぽつぽつと手探るような声が洩れ始め、互いの感じたものを伝え合い、不足を補い合うことで次第に己の判断に自信を持てるようになったようだ。
周囲にはっきりとした“安堵の空気”が漂い始め、逆にひとり焦燥を募らせていくのはレジン卿の方であった。なぜなら、こうして対応に手間取るほどに盗賊を取り逃がす可能性がどんどん拡がっていくのだから。
「攻撃はない。あれはヤツの“誘導”だ――すべては逃走時間を稼ぐための」
「ではどうする?」
「まず、この煙を何とかしないことには……」
「考えがある」
ようやく建設的な方向に皆の気持ちが向けられたところで、自信ありげにレジン卿は応じる。
今や場の主導権を握るのは、“社交場に華を添えるだけ”であったはずのレジン家の三男坊であることを気づいている者はいない。
「イリア殿っ。貴方の『風術』で煙を腰元くらいの高さに押し下げられませんか?」
「なるほど……やってみましょう」
妙齢の女性の声が応じ、すぐに詠唱が流れ始める。
風の『精霊術』といえば『風獣の爪痕』や『風獣の息吹』などの派手な攻撃を思い浮かべるが、その根源は、風属性の『精霊界』に棲まうモノが振るう“力”であり、術者達は彼らの助力を得ることで通常ではあり得ない摩訶不思議な現象をこの世に現出してみせる。
それを踏まえれば、例え『精霊術』における一般教書に術として記載されていない事象の発現を求めても、きちんと意思疎通さえできていれば実現も可能――『精霊術』の根源を知り得る者にしかできぬ発想で、レジン卿はイリアに訴え、彼女は感嘆を以てそれに応じていた。
(レジン卿――さすがに、ただのイケメンというわけではないようね……)
精霊との交渉中、イリアの脳裏に過ぎった雑念を知る者はいない。
「みんなで力を合わせて……」
時折聞こえるイリアの語りかけに応えるように、外界と遮断されたはずの空間に、ゆるやかな風が吹き始める。
すると、右に左に煙の対流が巻き起こり、始めは法則性もなくただ乱れているだけだったものが、やがてコントロールのコツを掴んだか、安定すると同時に徐々に視界が晴れてくる。
「いいわ……その調子」
いつの間にか咳き込んでいた者もいなくなり、身近にいる者の姿も人影として認識できるようになってきた。
そうして注文通りといかぬまでも、互いの顔が認識できる程度には白煙を抑え付けることに成功する。
「空間が狭すぎて……これで精一杯だわ」
「十分です。さすがは当代切っての『風術士』」
そつなくその働きぶりを称えながら、レジン卿の視線は素早く賊とゲンノスケの姿を探し求める。
「ロダンのヤツはどこに行きおった?」
「勇者様もいないぞっ」
盗賊の姿が消えていることに、先に誰かが気づき、さらには先ほどからゲンノスケに対する邪な言動が目立つ貴族が、目当ての人物も一緒に消えたことを嘆いている。
レジン卿の見立て通り、盗賊は戦うとみせて、とうに逃げ去っていたのだ。
「何をしておる、早くヤツの後を追わぬかっ」
叱責したのはシルヴィア大公だ。相手がどれだけ有名であろうが、賊一人にしてやられたとあっては公国の名折れだ。
そして何よりも、盗まれたのはいつでも補填可能な金品の類いではなく、“公国の運命”を左右する最重要人物の身柄だ。
事の重要性を十分に承知している護衛の騎士二人が、慌てて出口へと向かうのを「お待ちください、陛下」あろうことか呼び止めた者がいる。
「どういうつもりだ、レジン卿?」
さすがに憤りを隠すことなく、むしろ老いてもなお、精気に満ちあふれた眼光で射抜かんとする大公に、レジン卿が突然の非礼を詫びた。
「“盗賊の追跡”に異論があるわけではありません、陛下」
「ならば何だというのじゃ?」
苛立ちを募らせる大公に、あくまで冷静にレジン卿は告げる。
「後を追うのであれば、方角が違うかと」
その言葉に驚いたのは、大公だけでなく事の成り行きを不安げに注視していた周囲の者達も同じであった。
「理由は私の居る位置で察していただけると思います」
「そういえば、いつの間にそこへ……?」
レジン卿に云われて初めて気づいた貴族が思わず疑念を口にする。
彼が立ち塞がるようにしていた場所は、地下聖堂唯一の出入口――白煙が立ちこめる前は、確か、中央の魔術紋が描かれていた付近にいたはずだ。
「騒ぎと同時に出口へ向かっただけです。それでヤツの逃亡を阻止できますから。だから、はっきりと言えるのです――何者もここを通ってはいないと」
両手を広げ、避ける隙間がないことをレジン卿は皆に分かり易くアピールする。確かに物理的な隙間がなければ、さしもの『盗賊技能』とて突破することはできやしまい。
「見事な機転と云いたいが、それではロダンはどこへ消えたというのだ?」
話している間に白煙の靄は薄れてきており、既にレジン卿が依頼した腰元あたりの高さまでに“白煙溜まり”が下がってきていた。
この中にしゃがみこんでいるのでは、と憶測する貴族もいたが、彼の『盗賊王』がそんな愚にも付かぬ戯れをするはずがない。
「それを説明する前に、まずは、騎士達をそのまま城門へ向かわせましょう――伝者として」
「ふむ。まずは城外に通じる出入りを抑えろと?」
「仰るとおり。さらに付け加えさせて頂ければ、もう少し人数を増やし、早急にすべての出入口へ通達するべきです――“何人も通してはならぬ”
と。今ならこちらの手が早いはず」
「あくまで出入口の封鎖が先か――それが最善と云うのだな?」
「はい」
レジン卿の提言に、足を止めていた騎士達が指示を仰げば、大公は尖った顎をしゃくって「行け」と承認する。
さらに伝者を増やし、急ぎ足で駆け去る騎士達の後ろ姿を見つめながら、「それで?」と大公が話の先を促す。
「勇者を狙う盗賊――ロダンにとって、力を覚醒させぬために『勇者の洗礼』を阻止することは絶対条件だったはず。ならばヤツにとって、あの時点で正体を明かすことになるのは、むしろ“計画通りだった”ということになる。つまり……」
盗賊の行方を質されたにも関わらず、迂遠な話しを始めたレジン卿にシルヴィア大公は眉根を寄せるが、黙って聞くことにしたらしい。
「つまり、ヤツには逃げ切れると確信できる“逃走方法”があったということ。それは何か――」
問いかけるように、レジン卿の視線が周囲にいる者一人一人をゆっくりとなぞらえる。
「地下聖堂全体に煙幕を張り、我らに嘘をついて誤った逃走路へ誘導し――自身は別のルートに」
ロダンが何を仕掛けてきたかを考えれば、自ずとその答えは導き出される。
誰もが知る“唯一の経路”を否定することで、レジン卿には“新しい道”の存在が輝いて見えていたのかもしれない。
「だから教えていただきたい――この地下聖堂に、ヴァルディア家にのみ伝わる『隠し通路』がありますね?」
鋭く放たれた問いは、例え貴族といえど、国の重鎮に位置する者でもなければ、乱りに立ち入ってよい事案ではなかった。
儀式に参列を許された者達の中にあってなお、“知り得る資格”を持たぬ大多数からどよめきが上がる。それが城造りに付き物であると一般教養的に知識を身に付けてはいても、“その場所を知ってはならぬ”という常識もまた、処世術の基礎として身に染みているのが普通だ。
レジン卿が外堀を埋めるように、わざわざ理を積み上げたのも、こうしたことへの配慮あってのことと、ようやく皆も理解したであろうが、それでもなお。
緊張が高まったのはほんのわずかな時間。
「……さすがはレジン卿。『候補者』に挙げられし者だけはある」
ひりつくような沈黙を破り素直に感嘆を表すシルヴィア大公に、レジン卿は異様な光をその目に湛えて、酷薄な笑みを浮かべるだけだ。
「教えて頂けますか、陛下」
「……」
「城外への出入りを封じたとしても、『隠し通路』の行き先によっては意味を成しません。逆に行き先が分かれば、ロダンの先手を取ることも――ヤツの捕縛に大きく近づきます」
「……」
「陛下、今や時間との闘いでもあるのです。こうしている間にも、打てる策が刻一刻と消えていくのですよ。分かっているはずです――何が天秤にかかっているかを」
大公を相手に詰め寄るレジン卿の態度を諫める者はいない。公国の未来のため、ただ必死に説得しているだけだと好意的に捉えているのではなく、“秘密の妄執”に取り憑かれた故と、むしろ誰もが本当の理由に気づいているからだ。
彼の父親が匙を投げてしまった“異常な性癖”のせいであると。
こうなった時の、彼の鬼気迫る様子に全員が気圧されてしまったというのが――臣下の態度として如何なものか等の諸々を呑み込んで――正直なところであった。
いずれにせよ大公自身、葛藤をその瞳に過ぎらせた時点で答えは決まっていたようなものである。
「――――ふぅ」
ついに、いや“ようやく”と云うべきか、シルヴィア大公が諦めたように大きな嘆息を洩らす。今、『勇者』を失えばどうなるかなど、子爵の三男坊ごときに云われずとも重々承知しているのだ。
「それでも“我が家の秘事”は守らねばならん。この場はもうよかろう……皆、悪いが先に出てもらえぬか? イリア、お前には残ってもらおう」
宮廷魔術師として『第三席』の実力を持つと同時に、ヴァルディア家の四女でもあるイリアが緊張しながらしっかりと頷く。
話しの流れから、“盗賊の追跡”がわずかな人数で行うことになると賢明にも察した数名が異を唱えかけたが、大公は「秘事である」と聞き入れなかった。その上何よりも――
「『候補者』と『風術士』――『盗賊王』相手とは言え、不足があるとは思えぬ」
その言葉に、皆、押し黙るしかなかったのだ。
盗賊系統の職業が有する特殊技能は、正式には『陰技』と呼ばれる技術体系を指しており、そもそもが盗賊によって創設されたせいか、『鍵開け』や『忍び足』など裏社会的なノリの技術が多い。
だがそれが“表”であれ“裏”であれ、何かを極めれば至高の領域に辿り着く――熟練し『陰技』の深奥に至った者は、上級レベルの技術を身に付けるだけでなく、『異能』に格付けされる超常現象を引き起こす技能までを修得していた。
『盗賊王』であるロダンの場合、詳細は不明だが、間違いなくその超常的な『陰技』を保有しており、それがための皆の不安であり、それを承知でなお、シルヴィア・サン・ヴァルディア大公は豪語したのだ――「両名に不足なし」と。
既に方針は決し、不服を表す者もいない。
無論、すべてを二人に押しつけ、他は傍観を決め込むわけではない。
それでもなお――。
“公国の存亡”はレジン卿とイリア嬢のまだ経験も十分とは言えぬ若き二人に託されたと言っても過言ではない。
「頼みましたぞ、レジン卿」
「勇者様のお身体に傷などつかぬよう――」
不安や後ろ髪を引かれる思いもあったろう。去り際に誰もが何度も振り返り、二人に声を掛けていく。
「立ち止まらず、早く行けい」
時間がないと、急き立てるように皆を追い出し、地下聖堂に静寂が戻ったところでシルヴィア大公がレジン卿を睨んだ。
「さて。ヴァルディア家の秘事を知るのだ――それなりの覚悟はできておろうな?」
「無論です、陛下」
レジン卿も柄になく、顔を青ざめさせるほどの緊張を帯びながら、ゆっくりと頷く。
「統一神ル・グァンに誓って、決して他言は致しません。せ、せめて“死”ではない形での処遇を考えて頂ければ幸いです」
「馬鹿者。どこぞの『狂王』と一緒にするでない」
呆れ顔で叱責したかと思えば、口の端を異様な角度で吊り上げる。そうすると年相応の、それも邪悪な魔女が嗤っているように見えて、傍にいたイリアが「ひっ」と小さい悲鳴を上げた。
悪巧みをしているようにしか見えぬ笑顔に、レジン卿も若干顔を引き攣らせ、こめかみ辺りを冷たい汗が流れ落ちる。
「無論、“誓約”を交わしてもらうことになるが、今は時間が惜しい。すべてが終わってからでよい。とにかくイリアの面倒をよくみて、気をつけて賊を追うがいい」
「は? ええ……勿論です、陛下」
一瞬、何かに引っ掛かりを覚えたように眉根を寄せるが、すぐに思い直してレジン卿が頭を垂れる。
「イリア殿がいれば私も心強い。互いに協力して、必ずや勇者様を取り戻してご覧に入れます」
非難がましい視線を向けてくるイリアをきれいに無視しながら、シルヴィア大公はレジン卿の意気込みを聞いて満足げに頷くと踵を返した。己の背後――地下聖堂のさらなる奥へと。
「陛下。ちなみに『隠し通路』は他にもありませんか?」
大公の歩みがぴたりと止められた。
「それが何か……?」
「先ほど、ロダンが居た位置を思い出してください。あの場所から陛下の真後ろにある方向へは、移動するに難儀します」
「ふむ。となれば……」
何かを思い出したように一点を見つめ、やけに壁際に建てられた石柱のひとつに向かって歩き出す。今度の位置には納得したらしく、レジン卿も口元に笑みを浮かべて大公の後に付き従う。
「……なるほど。ここならば」
どうみても単なる石積みの壁にしか見えぬのに、自身はまるで、そこに扉が見えているかのように、レジン卿が一人得心する。
「そういえば、『真贋師』であるお主ならば、分かって当然か」
「いえ。時間を掛けるならばともかく。陛下に導かれたからこそ、気づけたのです」
「真贋とはそのようなものにでも?」
初めて知ったらしいイリアが小首を傾げると、
「ええ。知識を活かして分析する『鑑定士』とは違い、私たち『真贋師』は『異能』で分析していますから」
「神が造り給うた万物であれば『創世の倉庫』から読み取れる――というわけですか」
宮廷魔術師だけに見識も深い。イリアなりに『真贋師』の本質を正確に読み解いたようだ。
「能力を使い、天上との繋がりを感じる――私たち『真贋師』もまた、『僧侶』と云ってよいのかもしれません」
感慨深げなレジン卿達を他所に、シルヴィア大公は石柱の裏側に回り込み、「やはりか」と何かに気づいたように呟いた。
「どうされました?」
「誰かが“仕掛け”を使った痕跡がある」
「さすがに慌てたか」と独り何かに納得しながらも“仕掛け”を作動させたのだろう。
石壁の一部に、扉を象る淡い光のラインが入り、奥へと誘うように、音もなく壁が傾き隙間が産み出された。人ひとりがようやく出入りできる程度の隙間だ。
今いる聖堂のそれよりも、冷たい空気が頬を撫でる。
石積みで造られた廊下は出入口と同じ幅の狭さで、何かの光源があるのか、辛うじて廊下の輪郭が視認できる程度の暗さに包まれていた。
さすがに時間が経過しているせいか、耳を澄ましてもロダンの足音らしきものはもちろん、何の物音も聞こえてくることはない。
「ヤツはゲンノスケ殿を気絶させていた。背負ってここを通るなら、あまり早くは動けないはずだ」
「でも、こう暗くては……」
自分たちも同じだと告げるイリアに「所々に明かりを灯す『魔導具』が設置されておる」そう大公が安心させる。
高度な魔術関係の技術を駆使したのが『魔術工芸品』であるならば、様々な点でレベルがかなり落ちるものの、現代魔術の粋を集めて実現したのが『魔導具』と呼ばれる簡易術具だ。
簡易と云っても必要な知識を有し技術として操れる者は数少なく、その上、魔力の消費も激しいために『魔導具』の“工作権”、“所有・使用権”は許可制となっており、必然、上層階級の特権のようなものになっていた。
庶民にとって一般的なものは、国策でインフラ設置される街灯などの『魔導具』であろうが、このように、希にしか使われることのない『隠し通路』を灯すためだけに使われるのは、ヴァルディア家が特権階級の頂点であることの証といえよう。
「この先は『宿坊』だ。壁にある魔術紋に魔力を流し込めば、誰でも“扉”を開閉できる」
「『宿坊』――“外”ではないのですか?」
驚くレジン卿に大公は頭を振った。
「“外”への通路ならば、先ほど向かおうとしたところにある。やはり、向こうへ行くか?」
「いえ、こちらで構いません」
ほとんど思案することなくレジン卿は即断した。
「先ほどお伝えした通り、ヤツがいた位置からゲンノスケ殿を抱え、皆の合間を縫って逃げるにはリスクが高すぎます。それにヤツは僧侶に扮していました。『宿坊』に出入りするうち、『隠し通路』の存在に気づいた――『盗賊技能』を有するならば、あり得る話しです」
埃っぽい微風を感じつつ、レジン卿は暗がりの前に立つ。そういえば、先ほどから武具のひとつも持たぬ彼に、気遣いや不安を示す者は誰もいないのはなぜなのか。それほどに『候補者』と呼ばれる者には“力”があるというのか?
「先頭は私が。戦いにならないと思いますが、イリア殿も十分に気をつけてください」
「わかったわ」
慎重な足取りで二人が入っていくのを大公が一人見送る。
やがて微かな足音さえ消え去ると、ふと、大公は目元を和ませる。
「この小さき冒険で、二人の間に“良き縁”が育まれるとよいのだが……」
どうやら二人を選んだ理由が他にもあったらしい。
他人が聞けば「この非常時に何を」と不謹慎に取られようが、大公といえど人の母――もはや孫とでも呼ぶべき愛娘だからこそ、情に動いてしまうのだろう。
善し悪しにかかわらず。
すぐに表情を引き締め“大公”としての顔に戻るや、“扉”を元に戻して、大公は地上へ向かうことなく、さらなる聖堂の奥へと足を向けた。
いったい何をしに――?
奥の扉を開くと、ほんのりと漂ってきた血臭が大公の鼻をついた。
始めから承知していたように、動じることなく、大公は円状となっている室内へと脚を踏み入れる。
「いかがされました……“外”が騒がしい様子でしたが?」
頭からすっぽりとフードを被った者の問いに大公は答えず、石床に描かれた魔術紋を見下ろす。
それは先ほどいた聖堂に描かれたものとうり二つ――違うのは、中央に血塗れの死体が寝かされていたことだ。
美しい銀色が混じる髪に目が惹かれる。
どことなくシルヴィア大公に似た面立ちの若い女性だが、気のせいであろう。
血臭を放つ原因が彼女の遺体にあるのだから。
胸のあたりが肉食獣の口のように大きく開かれ、よく見れば、吐き気を催す開口部の内側に、あるべき臓器が失われていることに気づくだろう。
死してなお穢されたのか。
あるいは生きたまま――
遺体に目を留め、そこで初めて大公の眉間に深い皺が刻まれる。
「娘を捧げてまで……」
言いかけた言葉が続かない。あまりに恐ろしい意味が込められた言葉に、意志に反して魂が、その先の発言を全霊で拒絶したせいかもしれない。
「…………」
口を開いたまま、大公の全身が震えている。
何に憤り、何に苦しむのか。
まるで神に祈りを捧げるように懇願する。
「これ以上苦しめるな……『魔人』よ」
“慟哭”としか聞こえぬ重苦しい声が、地下の石堂に陰々と響き渡った。




