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第三話 あなたと私

 飛び出して行った人のことを考えようとも、頭は真っ白だった。なかなか思考がついていかずに、とにかく先ほど起こった事を把握しようと必死に脳を動かす。

 まずはとにかく玄関の扉を閉めようと廊下から中に入った。ええと次は――そうだ、靴を脱いで中に入ろう。

 日常的な動作を始めると、不思議だが混乱していた気持ちも平静を取り戻していく。しかし先ほど見たものの意味はよくわからないままだ。

「あれが素――なのかしら?」

 靴を脱いで自室に入り、とりあえずと服を着替える。出て行ってしまったけれど登流さん、ごはんは大丈夫なのかしら。今日は家政婦さん――(わた)(なべ)さんがお休みだから夕飯も作らなければならない。共働きだけれど家の中は自由にしていいと、いつか登流さんに言われた。家事労働も苦痛ではないから、してほしい事があれば言っていいとも。

 無表情で淡々とした口調。仕事を続けて良いと了承してくれた時も、家事をすると言った時も、負担にならないように家政婦を雇おうと申し出てくれた時も、週末は仕事が遅くなる事がお互いに多いから家が空っぽになるしその日は除こうと言われた時も、対外的に仲良く見せたいからだと付け足されるたびに傷を付けられるようで哀しかったけれど。今思うとあれってひょっとして――。

「本音を隠す為の言い訳だったのかしら……」

 考えてみたら週末から休日は一切何もしたくない、身体をやすめたい時間なのに、どうして渡辺さんを来させないのだろう。私の自惚れかもしれないけれど、仕事から解放されたその時からふたりの時間が作れるから、誰にも邪魔されたくなかったからではないのか? いや、やっぱり自惚れだろうか。

 けれど思い返してみると、言葉の端々に彼の優しさを感じる。何よりもごはんを作る時には何故か見守るように彼はそばに居てくれる。それが嬉しくて、ごはんを作る頻度が増えていた。本当は疲れている日も、後ろで見つめる彼がくすぐったくて、手伝ってくれる彼をもっと見ていたくて、私もはりきってしまった。まあ、無表情の私ではそんな気持ちも伝わらなかったのだろうけれど。

「簡単なものを作ろうかしら……」

 息を吐いて着替えた服を洗濯籠へと放り込む。洗面台の横にあるハンガーラックへ吊るされたエプロンをつけながら台所へと足を運んだ。アイランド型の広々としたキッチンは、ひとりで作業をするには少し寂しい。苦笑しながら換気扇だけ先に回して、首を傾げながら冷蔵庫を開いた。

 卵があった。お肉類も何かしらあるだろうけれど、この時間に食べるのはかなり抵抗がある。

「お豆腐……今日が賞味期限」

 お嬢様育ちで料理なんてしたこともないだろうと思っていたと言われたのはいつだったか。共同生活が始まり、私がいちばん最初に作った朝食を見て、彼は目を丸くしていた。その時を思い出して、くすりと笑む。

 料理も洗濯も掃除も、確かにやらなくてもいい環境だった。けれど結婚するかもしれないと決まって三ヶ月の間、私は勉強をした。あまりにも付け焼刃な知識にならないように、かなり基本的な事から、一般的な家庭での食材の保存方法や、主婦の裏技のような知識もインターネットなどで拾って覚えた。

 冷凍庫からかちかちに凍った一人分のごはんを取り出す――少し考えて、もうひとつ冷凍庫から取り出した。この、ごはんを冷凍するという発想はまさに画期的だと思った。我が家では恐らくだが、残ったものはすべてその日に捨てられていただろうと思う。それは生きるものへの冒涜だとも思ったが、かといってそんな事を主張するような幼稚さも純粋さも持たなかった。自分が家を出る時にはそうしなければいい。渡辺さんにも、残ったら冷凍したり、持ち帰ってくれてかまわないと伝えてある。

 ごはんはレンジに入れて、完全にではなくとも半解凍される程度まで温める。卵と万能葱を取り出して、葱は細かく刻み、卵は溶いておく。豆腐はボウルに入れてスプーンで軽く崩していく。完全につぶさなくても大丈夫なので、ある程度やったらそのままにしておく。土鍋に水を入れて、半解凍されたごはんを入れる。お玉で軽くほぐした。豆腐も同じように入れて、少しふたつの材料が馴染むように混ぜたら、火にかける。あとは渡辺さんが漬けてくれたお漬物を切って出そう。

 弱火で煮ている間にきゅうりとセロリの浅漬けを切る。小鉢に盛ってからちらりと土鍋に視線をやると、少しふつふつしてきたので顆粒だしを取り出す。少し考えて、鶏がらだしを選択した。

 渡辺さんはとても几帳面な方で、すべての顆粒だしをきちんと保存容器に移し、名前を書いたラベルを貼って棚に保管してくれている。私の目線になる場所にあるから、調理する時にとても楽だ。この顆粒だしも、あまりにも優秀でびっくりした。もちろんプロが作るものとは比べるべくもないが、ある程度の味にきちんと仕上げてくれる。忙しい人間には大助かりのアイテムだ。現代人って、私が思う以上に進んでいるんだなあ、なんて。タイムスリップでもしたような気分だった。

 メインが出来上がるまでまだ時間があるから、もう一品何か作ろうかと冷蔵庫に戻る。そういえば先ほどトマトといんげんを発見したのだと思い出し、野菜室で発見したそれらを取り出す。

 食べやすいサイズに切る程度でいいだろう、と適当に包丁を入れる。ボウルに移してオリーブオイル、少量のにんにくと塩胡椒をして混ぜ合わせる。

「簡単すぎて結局時間余っちゃった」

 息を吐いてそれも小鉢に移してから、鍋の具合を見る。もうそろそろといった所だが、お粥は弱火でとろとろになるまで火にかけるのが好きなので、まだもう少し様子を見たい。コンロに備え付けのタイマーを設定して、調理器具を洗い終えたあと、何かやる気にもなれずに、私はぼんやりとダイニングテーブルへ向かう。椅子に腰かけて、ふたりぶん並んだ食器に盛られた料理を見つめる。

「終わりだって叫んでたわよね……」

 ここにきてやっと、脱兎のごとく出て行った彼の事を反芻した。冷静に考えるのはなかなか難しかったが、何かをし終えた事で本当に平静を取り戻せたようだ。

「終わりって、終わりよね。ふたりの結婚生活が終わりってこと……」

 ずきずきと痛む胸を抱えて共同生活を続けるのは、はっきり言って辛かった。何度も会社を持ち出され、そのたびに私個人はどうでもいいと言われているようで、何もかも諦観し、生きていこうと思った。

 男女の触れ合いだって、結婚式の誓い以来ないんだもの。やっぱり、想われているかもしれないなんて考えるほうがどうかしているわよね。矛盾点は多少あるけれど、だからといって想われていることとイコールになんてならない。全部終わりだと告げたのは、何もかも面倒になったという意味で――。

「あれ?」

 思わず上げた声に、私は何度もまばたきをする。誓いのキス――? そうだ、そういえば。

「キス、されてた」

 そうだ。そういえば、何故だかわからないけれど、彼は私の唇に触れた。ほんの一瞬だったから、忘れそうになっていたけれど……間違いなく唇と唇が触れ合った。

「…………どうして?」

 当然の疑問だ。終わりだと言ったからには、彼はこの生活を終わらせるつもりのはずだ。だというのに私に手を出したのは何故なのだろう。考えて考えて、珍しく眉間に皺を寄せるくらいに、うんうんと唸るくらいに、私はわからない答えをあれこれと探った。そして、ひとつのある可能性に辿り着く。

 彼には、操を立てたい相手でもいるのではないか? それなのに衝動的に私に手を出してしまい、自己嫌悪に陥ったのではないだろうか。だからこそあんな風に動揺して絶叫して、逃げ出してしまったのかもしれない。私は無表情の変わった女かもしれないけれど、疲れていて忙しくて会いたい人に会えない状況下であったのかもしれない。だから欲求不満の果てに、私のような女に手を出してしまった。だからこそ、彼は現実を認めたくなくて逃げ出した――。

「どうしよう、なんだかとってもしっくりくるわ」

 自分の考えて落ち込んでどうするのだ。けれど思考は悪いほうへ向かい、どうしてもそれを否定出来ない。ひょっとすると本当に、離婚届を手にして彼が帰ってくるかもしれない。

「で、でも、よかったのかも。子どももいないし、まだ始まってもいない結婚生活だったし。ああでもさすがにこんなタイミングで離婚はまずいわよね……ひょっとすると別居をしたいと言い出されるかも」

 そうだ、きっと。それならば両社の人間にも迷惑はかからないし、表の舞台では仲睦まじくしていればマスコミ対策にもなる。私だって、慣れない共同生活にストレスも溜まっていたから、ちょうどいいのかもしれない。

「そうよ、良いこと尽くめだわ」

 呟いた言葉が、しかしあまりにも空々しく響いた。自分にだってわかる、まったくもって本音ではないって事くらい。だって、だって――。

「好きだもの」

 彼が、登流さんが好きなのだ。ゆっくり触れた彼の優しさと、先ほど逃げてしまう前の彼が見せた片鱗と。ひょっとするとあなたは、表情豊かな方なの? 普段はお喋りだったりする? 笑ったり、怒ったりするのかしら。それを私には見せてくださらないの? 私ではお嫌なの? やっぱり、他に想う方がいらっしゃるの?

「そんなのは、嫌よ」

 せっかく、見れたと思ったのに。あなたの本当を、知れたと心が跳ねたのに。

「残酷な方――」

 ぽつん、とテーブルに何かが落ちた。視界がにじんでよくわからない。ああひょっとして――私、泣いているかしら。無表情に泣くだなんて、随分と不気味だわ。

「真奈花!」

 ぽつぽつと落とされる雫をただ眺めていると、背後から声がかけられた。緩慢な動作でそちらへ身体を動かす。まだ視界がぼやけているから、そこに立っているのが誰かはわからないけれど、声からして彼なのだろうと思った。

 ああ――帰って来てしまったのか。

「! 真奈花、泣いてるの?」

 慌てた様子で駆け寄る気配と、何かをごそごそと探る音。ついで苛立ったように、ああもう! と上げられた声に、私はやっぱりこちらが本当の彼なのだと思った。

「ごめんね、ハンカチ見つからないや」

 恐らくシャツの裾を引っ張って、私の頬に触れているようだ。段々と視界がクリアになると、眉を八の字にした彼が私のすぐ傍にしゃがみ込んでいた。下から心配そうに私を覗き込む彼の顔を、じっと見つめる。

 綺麗なほとんど黒に近い茶の髪。真っ直ぐで触ったらサラサラと流れていきそう。長くも短くもないそれは、肩より少し下まで伸ばされた黒い猫っ毛の私とは随分と違う。くりんとした二重の瞳も、暗い私の一重とは違う。身長も、彼は高く、私は低い。

 ああでも、無表情の頃には気付かなかった。三十五にしては随分と幼い容姿だ。人懐っこそうで、トップに立つ人間の威圧感はとうてい感じられない。出会った時には気付かなかった一面に、私はまた目の奥がじわりと温かくなった。

「どうして……」

「え?」

「どうして帰っていらしたの?」

「真奈花――」

「嫌よ。私、嫌なの」

 言葉が続かなくて、私はしゃくりあげて泣いた。今は無表情でもなんでもなく、本当に情けない泣き顔を披露しているに違いない。きっとこれから別居話を持ちかけられるのだと考えると、怖くて、とうとう震えてしまう。

「俺とキスしたの……そんなに嫌だった? 震えるほど怖い?」

「! え――」

 そんな言葉が出てくると思わず、目を丸くして彼を見る。俯いてしまった彼のつむじを見つめても、その表情がわからなくて、無言になってしまった彼の言葉が気になって、私は平時ならば考えられない行動に出てしまった。

「!? ま、真奈花」

 ぐい、と彼の頬に両手を添えて持ち上げたのだ。顔を上向かせなければ、表情が見えない。どんな顔をしてそんな言葉を紡いだのか、とても気になった。

「……どうして、泣きそうな顔なの?」

「…………真奈花に、怖がられたから」

「私、あなたを怖がってなんていないわ」

 即答で返すと、うろうろとさまよわせていた視線を私に戻して、登流さんは目を見開いた。

「じゃあどうして震えているの? 泣いているの?」

 苦しそうな声で言われて、私は首を傾げる。

「あなたが私と別居したいとおっしゃるのではないかって――」

「まさか!」

「!」

「やっと手に入れたんだよ? それをみすみす逃すもんか! 真奈花が好きで、真奈花が欲しくて、やれることはなんだってしたんだ。それを全部ふいにするような真似するわけない!」

「私を……?」

 あまりにも意外な言葉に今度こそ涙が引っ込んで、私は固まった。登流さんは深く長いため息を吐くと、何かを決意したかのように真剣な表情で、私を射抜いた。その視線の強さに、思わず身体が小さく揺れる。

 彼が真っ直ぐに私を見つめたまま、片膝をついて左手を取った。まるで、忠誠を誓う儀式のようだ。

「最初から伝えていればよかったね。俺は、真奈花が好きなんだ。好きで好きでどうしようもなくて、だからあなたと結婚出来るように仕組んだ。汚い男だと罵られてもかまわない。けれどそれでも、俺はあなたを手放せない。大好きなんだ。お願いだから、これからの時間を、俺といっしょに過ごしてほしい」

 俺と、結婚してください――。

 放たれた言葉に、これ以上ないくらい目を見開いた私は、完全に思考が停止して、そのまましばらく固まってしまった。機能を再開させるきっかけをくれたのは、コンロに備え付けられたタイマーが時間を知らせる音だった。

 無機質な音が室内に響いて、私はやっと今起こった出来事を把握する。

「あの、登流さんがなぜ私を好きになってくれたかはわからないけれど……」

 もし訊いたら、話してくれるのだろうか。あまりにも大きい鼓動をなだめながら、彼を見つめる。

「信じてくれるまで、何度でも話すよ。初めてあなたを見た日から、俺が恋に落ちるまで」

 気障な台詞に、しかし言われた事もない響きに思わず顔を赤くしてしまう。緊張でどうにかなりそうだけれど、私も、伝えなければ。

 取られた左手に、右手を重ねて、握った。

「私も、あなたが好きです。だから――どうか末永く、よろしくお願いいたします」

 にっこりと微笑んで、登流さんに応える。上手く、笑えているかしら。

「真奈花……」

「え? きゃっ」

 手を取られて強制的に起立すると、すっぽりと彼の腕の中へおさめられた。抱きしめられているのだとわかると途端に免疫のない私は緊張してしまうけれど、拒絶ではないと彼はわかってくれるらしく、むしろ抱く腕に力を込められた上につむじへ顔をぐりぐりと押し付けられた。ほんの少し、痛い。

「可愛い、もうめっちゃ可愛い! 無表情なのも好きだけど笑った顔も好き。いや真奈花ならなんでもいいんだけど。真奈花、まあちゃん、もうどうしようもないくらい好き」

「ま、まあちゃん?」

「だめ? そう呼んだらだめ? もうずっと脳内でそう呼んでたんだけど」

「え、ええと、ふ、ふたりだけの時なら」

「――真っ赤? まあちゃん真っ赤だね。可愛い!」

 興奮状態の彼に可愛いを連呼されてどうしたらいいのかわからない私の慌てふためくさまをまた可愛いと言われ、ますますどうしたらいいのかわからなくなった。

「ちゅーしてもいい?」

 唐突に訊かれて、しばらく言葉の意味を理解出来なかったが、『ちゅー』が何をさすのか頭が理解を示した途端、私は首まで赤くなった。

「え、あの」

「わりと濃厚なのを」

「え、そ、あの」

「その反応ほんと可愛い」

 了承していないのにまるで猪が突進するかのように距離を縮められ、唇が重ねられた。最初は触れるだけのそれがやがて舌で唇を舐められ、息が苦しくなった所で咥内にまで侵入され、私は腰を抜かしそうになった。

 床に倒れ込む前にしっかりと抱きとめてくれたけれど、唇をぺろりと舐める登流さんの壮絶な色気にあてられ、私はぼんやりと彼を見つめてしまう。

「うん、よし!」

「えっ!?」

 何かを確認したかのように頷いた登流さんは、急に私の膝裏に腕を滑り込ませると、そのまま持ち上げた。横抱きにされた状態になった私が声を上げると、登流さんは至近距離でにっこりと微笑んだ。

「気持ちが通じ合った所でもっと結束を深めようかなと思って」

「あの、それって」

「ベッド行こう」

「! え、でもあの、展開が早いっていうか」

「夫婦だよ? 早くはないんじゃないかなあ」

「でも言うなれば恋人になったばかりのようなものだし」

「…………どうしても嫌なら、しないよ」

 しょぼん、と項垂れる彼を見て、私は無表情のまま胸中ではかなり焦りを覚える。そんな訊き方をするのはあまりにも卑怯ではないか。

「ご、ごはん!」

「え?」

「ごはんを、作ったんです。冷めてしまうと美味しくないし……私、おなかすきました」

「…………俺の分も作ってくれたの?」

「も、もちろん! 愛情をたっぷり込めました!」

 ぶんぶんと頷いて話すと、登流さんはえへら、と満面の笑みを作って、私を下ろしてくれた。

 もーしょうがないなーまあちゃんが愛情を込めてくれたんだもんなー、なんてずっと繰り返しながら、私が作ったものをよそっている周囲をうろちょろしている。若干の鬱陶しさを覚えてしまうのは仕方がないと思う。でもそれ以上に、彼の行動がなんだか可愛いと思えてしまう私は、ちょっと病気かもしれない。

「美味しいねえ」

「本当? よかった」

 お茶を淹れて、お互いに向かい合って食べる。前と違うのは、登流さんがこれ以上ないほどに微笑んで、言葉を伝えてくれる。それだけで食卓がとても賑やかだ。ふたりきりなのに。

「これを食べ終わったらまあちゃんを食べたいな」

「ぶっ!」

 飲んでいたお茶を思わず噴出した私に、大丈夫? と首を傾げる登流さん。

 この人、素を見せてくれたのはいいけれどあまりにも前と違いすぎる。私は不安になる事がきっと多いから、ちょうどいいのかもしれないけれど、それにしたっていくらなんでも垂れ流しすぎではないのか。

 思わずまじまじと見つめていると、それに気付いた彼が、視線を向けて微笑んだ。

「真奈花、大好きだよ」

「……わ、私も、その、好きです」 

 唐突な愛の告白にも少しずつ慣れていくのだろうか。一生慣れないかもしれないし、その方が幸せかもしれない。精いっぱいで私も返答すると、先ほどよりももっと強く彼は微笑んだ。

「言葉で伝えきれない分の好きは行動で伝えないとねえ」

 何やら不穏な言葉を口にしているが、やはり誤魔化せないのだろうか。嫌では決してないけれど……。

 無表情の奥に隠された私の感情を暴かれそうで、私は俯きがちに食事を済ませた。しかし洗い物をすると申し出てくれた彼に、耳元で照れたまあちゃんは可愛い、と食器を下げながら言われた時は、今度こそ腰砕けでその場にへたりこんでしまった。

 少しは加減してくれないと、私の心臓がもちません。


「で?」

「途中までいっしょに出勤しようと思って」

「それはいい。何故お前は奥方を抱えながら移動しているのかと言っているんだ」

 不機嫌顔の榊さんと、それを意に介さない登流さん。私は必死に彼の腕から抜け出そうとするけれど、暴れるとますます強く抱きしめられて、耳元で危ないよまあちゃん、と囁かれてしまう。

 横抱きで地下駐車場まで移動させられた時は恥ずかしくてどうにかなりそうだった。地下に直通のエレベーターは専用のキーがなければ動かせない仕組みだし、出入り口にも管理している人はいるけれど、まだ榊さんと運転手の方以外には会っていないのが救いだ。この時点でだいぶ恥ずかしいけれど。

「片時も離れたくない俺の気持ちを察してよ」

「馬鹿以外の何者でもないな」

 絶対零度の声音で紡がれる言葉をどうしてさらっと流せるのだろう。先ほどからあまりにも怖くて震えていると、真奈花を怯えさせるのはやめてよ、と不機嫌な声で登流さんが言う。いやいや、そもそもあなたが下ろしてくれればそれでいいのではないですか!?

 今日はたまたま朝いちばんの会議の前に打ち合わせしておきたい事があったからと榊さんも同行したらしいのだけれど、いつもそうなわけではない。そもそも登流さんは普段電車通勤が多くて、迎えの車を寄越すことはあまりない。そんな彼が車で来て貰って車内で話すと言っていた理由は、恥ずかしながら私と居られる時間が長くなるからだそうだ。

「お前が奥方を放せば俺はこんな声を上げずに済むんだがな。そもそもどう考えても嫌がってるだろうが。ごめんね、ええと――村重さん、とあえて呼んでいいかな?」

「あの、別に名前でかまわな」

「駄目、減るから」

「こいつがこう言うものだからね」

 苦笑する榊さんに、わかりました、と頷いて答えた。結局は抱かれたまま車内に運ばれて、膝の上で車中を過ごす事となった。

「なるほど、確かにこの不自然な数字は気になるね」

「監査に入った時は、特に目立ったものは見つかっておりません。ある程度頭が働く人間であるかと」

 社外秘も社外秘な会話をしているけれど、聞いていていいのだろうかと思いつつ、どうする事もなく私は黙ってふたりの会話を流していた。それにしても、榊さんてきっちりと公私を分けられている方なんだわ。登流さんも雰囲気が変わるけれど、榊さんはそれ以上。人格が複数あるわけではないのよね。

 くだらない事を考えて榊さんをまじまじと見つめていると、気付いた彼が私に視線を留め、小さく微笑んだ。私はそれに目を丸くする。やっぱり先ほどの優しい雰囲気の彼と同一人物なのだ――え?

「まあちゃん、浮気禁止」

 上向かされた顔に触れた柔らかい何か。何をされたか認識するのに時間がかかったけれど――今、唇にキスされた?

「無表情で赤くなるの面白いなあ」

「見るな、減る」

「だったら目の前でいちゃつくんじゃねえよ」

 榊さんの視線から逃がすかのように、私の顔を彼の胸へ抱え込まれる。そんなに真っ赤なのだろうかと思うとますます恥ずかしくて、私は無言になった。

「それよりどこまで送るんだ?」

「会社の前で下ろす」

「は? そんな事したら」

「別にばらしてもいいって、真奈花が言ってくれたんだ」

 榊さんの疑問に答えた登流さんに続いて、私は顔を上げて答えた。

「仕事を続けていいとおっしゃってくれた登流さんのやさしさに、私も応えたいんです」

 私の言葉に頷いた榊さんは、なるほど、と呟いた。

「それはつまり――虫除けか?」

「まあね。指輪も付けてくれてるし」

「でも令嬢だってわかったら妙なの沸くんじゃねえのか? 諸刃の剣だろ」

「もしも収拾がつかなくなったら、会社を辞めようと思います」

 私の言葉が意外だったのか、目を丸くした榊さんは、次には眉を顰める。

「村重さんは、それでいいの?」

「はい――元々、家に居るのが辛かったからと続けているようなものだったんです。仕事自体は嫌いではないですけど、彼との時間以上に大切だとは思っていませんから」

 やり辛くなったらすっぱりと辞めると宣言する私に、榊さんはまるでお兄さんのような優しい顔で、そうか、と微笑んでくれた。

 とはいえ、周囲の反応はやはり少し怖いのだ。一応、上には報告して了承を貰っているのだけれど、どうなるだろうか。

「真奈花、今日は少し遅くなるかもしれないけれど、そうだとしても迎えを寄越すから、電車で帰ったら駄目だよ」

「はい、わかっています」

 今までのように庶民ではなくなるのだから、ありとあらゆる危険が付き纏う。元々は背負っていたものを少し忘れていただけなのだから、私にそれほどの抵抗はなかった。

 会社までの道へ走る車から外を眺めて少し不安になった私の耳元に、登流さんが囁く。

 ――愛しているよ、真奈花。

 車が到着して、その声音が耳元で何度も繰り返される。心が温かくなったままに、私は車を降りた。登流さんも、わざわざ降りて見送ってくれる。

「登流さん、ちょっとかがんで」

「ん? どうしたの?」

 私がちょいちょいと手招きすると、登流さんがそれに従う。私は少し背伸びをして、囁いた。

 ――愛しています。

「…………まあちゃ」

「それじゃあお仕事頑張ってください!」

 慌てて走り出した私の背中に縋るように手を伸ばして追いかけようとした登流さんを、榊さんと運転手さんふたりがかりで止めなければならなかったと聞かされたのは、今日の帰りの出来事だった。


「村重さん、あなたさっき随分とすごい車から出て来なかった?」

「――おはようございます」

 いつだったか私を囲んだ人間のひとりが、挨拶もなく背後から声をかけてきた。社会人としてとても失礼な行為だと思うけれど、特に咎めるでもなく私は無表情に挨拶だけを返した。

「ちょっと! ねえ、あれって合併した会社の社長じゃないの? 社内報とか雑誌にも載ってるの見たもの!」

 ああもう、耳元で騒がれると朝から頭痛がしそうで嫌だわ。

「そんな人がなんであなたと仲良さそうにしてるのよ! ねえったら!」

 何も答えない私に痺れを切らした彼女が、咄嗟に私の左腕を掴んだ。さすがに面倒になって少し相手をするかと彼女を見やると、目を見開いて固まっている。

「何その指輪――ひょっとして」

「結婚指輪ですが」

 華美なものは仕事中には邪魔になりますと言った私に、それならばシンプルながら質のいいものを、と登流さんが特注してくれた。細かな模様と控えめに埋め込まれた石。地味に見えてその実、いやらしい話ではあるがかなりの値打ちものだと見る人が見ればわかるだろう。

「いつ誰と結婚したのよ!」

 金切り声で叫ぶ彼女にさすがに周囲を歩く人間はぎょっとした様子で視線を寄越すが、彼女はそんな事気にも留めない。少しは気にしてほしいと思うが。

「真奈花! おはよう」

「おじさま」

 声をかけた相手を見て、私は無表情に、けれど彼女はぎょっとして目を剥いた。まあ、そうだろう。彼はこの会社の専務だ。子会社とはいえかなりの規模を誇っている。単なる平社員に声をかけるような役職の人間ではない。

「いつもの専用通路からいらっしゃればよろしいのに」

「たまにはいいだろう。可愛い姪の顔を見るのも」

 この会社には上役専用のエレベーターや、そこに直通の専用通路もある。社員章で認証されるから、使用出来るのはごく一部の人間だけだ。

「姪…………?」

「なんだ真奈花、まだ話してなかったのか?」

「まあ、わざとらしい。私がまだ何も話していない事を知っていらしたくせに」

 呆然と呟く彼女に、専務は目を丸くする。しかしそこには悪戯に成功した子どものようなそれも残っていて、いい歳をした男が何をしているのだと呆れた。  

「あ、の……専務って、一ノ瀬社長の、弟さんでいらっしゃいましたよね……?」

「ん? そうだが」

「じゃあ、村重さんって」

 震える彼女の声に、私はここまでかとため息を吐いて頭を下げた。

「今まで黙っていて申し訳ありません。私は一ノ瀬の一人娘です。村重というのは、母の旧姓です」

「ついに宣言しちゃったね」

「しちゃったね、じゃありません。もう、おじさまはご冗談が過ぎますわ」

 にやにやと笑う男に怒りを向けると、怖い怖い、と笑いながら去って行った。

「あ、あ……」

 震えながらまともに声も出せないまま、彼女は私を見つめる。

 今まで行ってきた数々の所業を思い出して恐慌状態に陥っているのだろう。さもありなん。

 立ち竦む彼女を置いて、私は歩き出す。

 これから先、待っているのはなんだろう。私はこれまで、大きな幸せも、不幸も、感じた事はなかった。けれどどうだろう――今の私は、間違いなく幸福感に包まれている。

 胸元が振るえて、私はその原因を取り出した。

『俺はもっと愛してるよ、まあちゃん』

 さっきの今でこれとは。私は目を丸くする。

「わかっていますよ、登流さん」

 メールには返答せずに、そっとしまった。あなたへの想いを文字で返すのは、なかなか難しい。私はまだとても不器用だから。

 ――だから。

 帰ったらまた、あなたに愛していると伝えるわ。

 伝えた直後の彼を想像して、私は小さく微笑んだ。


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