698 残されたもの
「アーレイ君っ」
なんてことでしょう。アーレイ君はネクタールを口にしなかったばかりか【絶頂神】様に殴りかかり、警護についていた護る神たちに槍で貫かれてしまいました。
「待てっ。無礼は見逃せと伝えたであろうっ」
「目に余る乱暴狼藉っ。許してはおけませぬっ」
【絶頂神】様も慌てているようです。タルトちゃんのことで責められるのは覚悟していたようで、あらかじめ無礼があっても見逃すよう通達されていたのですが、殴りかかったことで限度を超えたと護る神たちは判断したのでしょう。突き刺さした槍でアーレイ君の身体を持ち上げると乱暴に床へ打ち捨てました。傷口から流れ出た血が広がっていきます。
「アーレイ君っ。すぐに治療をっ」
普通であれば間違いなく致命傷ですが、今すぐ治療を施せばまだ間に合います。急いで駆け寄り魔力同調を試みましたけど、意識があるかどうかわからないような状態であるにもかかわらずアーレイ君は治療を拒絶するかのように同調を解除してきました。
「そんな、どうして……」
「魂が……から離れれば……境界の……側へ……」
「境界ですって……まさか、【忍び寄るいたずら】は境界を越えた先にいるとっ?」
かすれたような声でアーレイ君が境界と呟きました。それを聞きとった【神々の女王】様が驚いたような声をあげます。境界というのが世界と世界を隔てる壁という話は天上にきてから教えられました。タルトちゃんだけが境界を操ることができたという話も、形あるものは通過できない一方、魂だけの状態なら渡っていけることも……
「アーレイ君。それじゃ、わざとっ?」
「約束……んだ……つだってそばに……いつまでも……にするって……」
ネクタールを口にしたら天上へ囚われてしまうというアーレイ君の言葉が思い出されます。魂だけの状態を作るため生き物として死を迎えようと、とっくに覚悟を決めていたのでしょう。うわ言のようにタルトちゃんと交わした約束を口にしています。そして、それはアーレイ君の魂が想像もつかない彼方へ去ってしまうことを意味していました。
――ずっと、ずっと一緒にいられると思ったのに……
いかないで……そのひと言をわたしは口に出すことができません。アーレイ君がタルトちゃんを血のつながった妹のように大事にしていることは知っていました。だから、わたしは彼を止めないと誓ったのです。まさか、そんな遠くへ行ってしまうとは思わずに……
「離れなさいっ。境界が揺らいでいるわっ。巻き込まれたら無事ではいられないわよっ」
脈も呼吸も止まったアーレイ君の亡骸から小さな光が抜け出してきました。とっさに手を伸ばそうとしたわたしを【神々の女王】様が羽交い締めにして後退させます。
「陽炎のような……あれが境界……」
「境界そのものは私にも知覚できないわ。ただ、揺らぎが発生するとそこにある物が歪んで見えるの」
アーレイ君の魂を中心に、その向こうにある景色までゆらゆらと揺らめいて見えます。わたしたちの目に映るのは揺らぎの影響によって歪められた光のみ。世界を隔てる壁そのものを認識できたのはタルトちゃんだけだったと【神々の女王】様が教えてくださいました。
「ああっ……」
そして、まるでお別れを告げるかのようにアーレイ君の魂が大きく揺らめいたと思ったら、次の瞬間には魂の発していた光が消え去っていました。同時に揺らぎも収まったようです。
「行ってしまったか。魂ひとつで境界を渡るなど、どのような世界へ流れ着くかもわからんというのに……」
理屈の上では可能というだけで、実行した結果どうなるかは創世の神々ですら予想もつかない。望んだ場所へたどり着けるとは限らないのにと、冷たくなっていくアーレイ君の亡骸を見下ろしながら【絶頂神】様が語りかけます。その口調は少し寂しそうでした。生き物のくせにふてぶてしい奴と悪しざまに話されることが多いものの、アーレイ君のことを口にする時の【絶頂神】様はどこか楽しそうで上機嫌に感じられたものです。本心では気に入っていたのでしょう。
「【絶頂神】様。あいつの拳は痛いでしょう」
「【光棒の舞手】か……。痛くて、そして哀しいな。騙された、利用されたとワシらを責めて構わんのに、あやつはそれを己の罪にしてしまった」
初めてお見かけした時にアーレイ君と殴り合っていた【光棒の舞手】様が、彼の拳は痛いのだと【絶頂神】様に声をかけていました。その痛みも悲しみも、神々が背負わせてしまったものだと【絶頂神】様が肩を落とされています。かつて、【暁の女神】様が反旗を翻した時のことを指しているのでしょう。古き神々をタルトちゃんに押し付けたと怒っていたものの、最後まで自分を騙したと神々を糾弾することはしなかった。それは、選択をしたのは己自身であると自らを苛み続けていた証だと【絶頂神】様はおっしゃいます。
「それくらい、ワシらに押し付けてよかったものを……」
タルトちゃんがいなくなったのは騙されたせいだと自身を納得させ、神々を恨んでくれてよかった。古き神々はどうすることもできなかったけど、アーレイ君から責められるくらいは覚悟していたのだと【絶頂神】様が亡骸の傍らに片膝をつきます。そして、なにを見つけたのか驚いたように目を見開きました。
「【神々の女王】、これをっ」
「指輪がまだ……では、【忍び寄るいたずら】だけでなく【ニューゴブリン】の存在も確認できているのですか?」
アーレイ君の左手をとった【絶頂神】様が、これを見るようにと【神々の女王】様を呼びます。力なく垂れ下がったその中指には、タルトちゃんとの契約が込められた指輪が今も形を失うことなく残っていました。それはつまり、境界の向こう側へ去ってしまったアーレイ君の魂が指輪に宿る契約の精霊には見えているということを意味します。
「【忍び寄るいたずら】の仕業か……いったい、どうやって?」
「わかりません。エンゲージを調べても細工を施された形跡は見つかりませんでしたし、契約も交わされた当初のままです。もっとも、境界に関する私の知識など……」
こんなことができるのはタルトちゃんしかいないと【絶頂神】様が驚愕していました。アーレイ君の予想は当たっていたみたいで、指輪に宿っている精霊の契約対象者を感知する能力は境界に妨げられないようです。ただ、【神々の女王】様でもわかるのはそこまで。境界については判明していないことが多過ぎると口惜しそうに唇を噛んでおられました。
「ふむ……【病魔を祓う癒しの手】よ。この指輪はそなたが預かっておくがよい」
「わたしでよろしいのですか?」
「この指輪は【ニューゴブリン】のものだ。最も縁の深いそなたが相応しいであろう」
わたしが持っておくようにと、アーレイ君の指から外した指輪を【絶頂神】様が差し出してきました。創世の神々にとっても大切なものだと思うのですが、今の所有者はアーレイ君なので縁の深いわたしでよいそうです。
「いつか、あのふたりが回収にくるかもしれません。その時まで大切に持っておきなさい」
タルトちゃんも境界の向こう側にいることがほぼ確実となったので、自分たちにできることはもう残っていない。いつか帰還してくることを期待するしかないから、大切に保管しておくようにと【神々の女王】さまも受け取るよう勧めてきます。ならば、その日が訪れるまでわたしが預かっておきましょう。【絶頂神】様の手から指輪を受け取り、落っことさないようネックレスにして首から下げておくことにしました。
「天上の存在となっては魂だけの状態になるのも容易ではない。生き物であるからこそ可能な手段に気づいて、ためらいなく実行したか……」
若き神となったら自分で終わりを迎えることができなくなります。イグドラシルへ還るには創世の神々に願い出て魂を分離していただかなくてはなりません。神々では採りえない方法で境界を越えていくなんて呆れた奴と、立ち上がった【絶頂神】様が窓の外へと視線を向けます。もう、この亡骸にアーレイ君の魂は残っていません。遠い空の彼方に彼の姿を見ているのでしょう。
「【ニューゴブリン】。信じられないだろうが、ワシはそなたが羨ましいぞ」
なにものにも縛られることなく、唯ひとつのものを追いかけて行けたならと【絶頂神】様が呟いておられました。魔導院を退学すると決めた時、アーレイ君はタルトちゃん以外の一切を捨て去る決断をしましたけど、それは誰にでもできることではありません。世界を統べる最高神様ともなれば、捨てられないものは山ほどあって当たり前です。
――信じています。いつか、再び会えると……
【絶頂神】様にならって、遠い空の彼方へと心の声で語りかけます。アーレイ君がタルトちゃんを捜しに行ってしまうのは仕方のないことでしょう。ふたりは本当の兄妹であるかのように仲が良く、いつも一緒でした。ひとりぼっちで寂しがっているタルトちゃんを放っておけるはずがありません。
――それまで、この指輪は預かっておきます。だから、必ず取りに来てくださいね……
境界の向こう側へ何かを伝達する手段はありません。これは届くことのない祈りですが、わたしは構わず想いを捧げることにしました。思い出の中にいるアーレイ君に言われた気がしたのです。
境界のことは何もわかっていないのだから、なんでも試してみればよいと……




