141 70点の誘惑
本日の授業は基礎魔術理論。言わずと知れたタルトの授業だけど、先生であるはずの3歳児は教室の後ろで使い魔たちと遊んでおり、生徒たちは未だ解くための筋道すら見いだせない問題に頭を悩ませていた。
「先生。授業はしてくださらないのですか?」
遊んでいる暇があったら講義のひとつもしてくれと、スネイルの奴がタルトに文句を言っている。Aクラスのくせに察しの悪い奴だ。余計なことを言えば言うほど、それを逆手に取られるだけだということがまだ理解できないらしい。
「問題が解けたのなら、新しい問題を出してあげるのです」
スネイルの抗議など意にも介さないタルトは、正解したなら新しい問題を出してやるぞとアンドレーアの仔オオカミとじゃれあうのをやめない。もとより講義をするつもりなどないのだろう。
「どうしてもというのなら、この退屈な教本をわたくしが読み聞かせてあげるのです。ですが、居眠りするような不届き者はこの場でオムツに穿き替えさせるのですよ」
「なっ、何をするっ。やめっ――あぁぁぁ……」
居眠りをしたら公開オムツの刑だと耳にした途端、それまで無視を決め込んでいたクラスの女子たちがスネイルを胴上げで運び窓から外へ投げ捨てた。ここ、2階だよ……
「冗談ではございません。これまで何度も目を通してきた教本の朗読なんて、子守唄を聴かされるようなものですわ」
「人にはオムツを拒む権利がある……これは正当防衛……だから私たちは悪くない……」
この陽気で子守唄なんて聴かされた日にはオムツを穿かされること間違いなしだと主席が憤慨していた。奴はクラスメートにオムツを穿かせようとした裏切者。断罪こそ正義だと次席も言い張る。
「教養課程で習う部分でさえこれほど奥深い。それを示してくれただけで充分だろうに……」
教本の内容なんて暗記していたはずなのに、いざ実践してみせろと言われたら何もできなかった。今さら教えられたことをただ憶えるだけの授業なんてされて堪るかと、【禁書王】も女子たちの味方についた。スネイルを憐れむ者はひとりもいない。
「時に、これで正解か確認願いたいのだが……」
「これであっているのです」
【禁書王】がノートのページを開いて3歳児に渡す。これで正解だという答えに、もう解けたのかと教室中に戦慄が走った。
「ですが、これはお前に出した問題ではないのです」
「陛下、どういうことっ?」
「これはダエコに写させてもらったBクラス用の問題だ」
秘匿術式を欲しがると難易度の高い問題を出されるという情報が伝わっていたらしく、BクラスやCクラスは無謀な要求をしなかったらしい。難易度の低い問題でも出題者が同じならなにかコツが掴めるかもしれないので、ダエコさんに見せてもらったのだとクセーラさんに尋ねられた【禁書王】が答えた。
「えっ、じゃあBクラスならこれで100点なの?」
「その問題が解けたら70点なのです」
試験の形式はどのクラスも一緒。あらかじめ示された問題が1問だけ出題され、教本はおろか正解を書いたカンペすら持ち込み自由だという。ただし、正解した場合に得られる評価点はクラスで異なり、Bクラスなら70点、Cクラスなら及第点ギリギリの50点。不正解はどのクラスでも0点だそうな。
「そっ、そんなのズルくないっ? 100点か0点しかない私たちの方が不利だよっ」
難しい問題を出されて解けなければ0点だなんて不公平ではないかとクセーラさんが抗議の声を上げる。他の生徒たちも、どうして自分たちには70点という選択肢が与えられないのかとブーイングを始めた。
やめとけよ。タルトがニヤニヤ笑っているぞ。そんな主張、読まれてんだって……
「いい加減になさいっ。どうせ後悔するハメになりますわよっ」
さすがに主席は察したようだ。タルトに何かを求めれば、その度に代償を払わされる。それも、こちらの意思など無関係に無理やり押し付けられることを自分たちはもう学んだはずではないかとクラスメートたちを止めにかかった。
「主席の言うとおり……その先生は……そう要求されることを見越して……すでに答えを用意している……聞かない方がいい答えを……」
自分たちも70点が取れるようにしてほしい。先に答えを用意したうえで、そう求めるよう誘導しているのだ。聞いてしまったらお終いで、後戻りすることはできない。余計な期待をかければタルトの思惑に乗せられるだけだと、次席も皆の考えに反対な様子。さすが、よくわかっていらっしゃる。
「だけど次席、このままでは……」
もうすぐ春のヴィヴィアナ様祭り。春学期も半分が終わろうとしているなか、最も術式に詳しいとされる【禁書王】ですらBクラス用の問題しか解けていない。どうにかしなければ全員落第することもあり得るのではと、ムジヒダネさんが視線で次席に訴えかける。
「私は止めた……後悔しても……手は貸してあげないわよ……」
制止しても聞かないというのなら仕方がない。だけど、自分がどうにかしてくれるとは期待するなと次席は首を振った。お姉さんのお許しが出たとクセーラさんがタルトに縋りつく。
「タルちゃん先生っ。なにかっ、なにか救済措置をっ」
「わたくしはちゃあんとお前たちのことを考えているのですよ。試験は3つのクラスで同時に行われますから、好きな教室で試験を受けることを許すのです」
どういうこっちゃとクセーラさんが首を傾げた瞬間、ロミーオさんが悲鳴を上げながら頭を抱えて床に崩れ落ちた。
「悪魔がっ。私の姿をした悪魔がっ。ちっぽけなプライドなんか捨てて70点を確保しろと囁きかけてくるっ!」
タルトの奴め。そういうことか……
「いやぁぁぁっ! 私はっ。私はAクラスなのよっ。人並みであることしか取り柄のないBクラスの連中とは違うのっ!」
「僕を誘惑するな、この悪魔っ。この僕がBクラスだなんて認めないっ。認めてなるものかっ!」
ロミーオさんの狂気が周囲に感染し、教室の中はパニックの様相を呈してきた。成績上位30名という相対評価によってAクラスとされた優等生たちに、タルトはこの問題が解けないようなら自らBクラスに落ちろと絶対評価を押し付けたのだ。
順位の近い生徒が0点のところで70点を確保できれば圧倒的優位に立てる。だけどそれは、自分がBクラス並みだと認めるも同然。クラスメートたちの心は、Aクラスの誇りを優先しろという天使と、実利を取れという悪魔に2分されてしまったのだろう。怪しげな悪魔払いの儀式や、神に祈る子まで出始めて、授業中は静寂が支配するAクラスの雰囲気は欠片も残っていなかった。
「だから聞くなと言ったのに……」
机に突っ伏して頭を抱える妹とムジヒダネさんを見下ろしながら、聞かなければ問題を解くことに集中できたはず。選択肢を示されたがゆえに余計な悩みを抱えることになった。もはや、プライドと引き換えに70点を確保しようという誘惑を頭の中から締め出すことは不可能。まさに自滅としか言いようがないと次席がため息を吐いている。
「まったく情けない方々ですわねっ。それでもAクラスですのっ?」
こんなことで惑わされるなと主席が激励するものの、70点もアリと耳にして迷わずにいられた生徒はビックリするほど少なかった。主席、次席、【禁書王】にドクロワルさんだけである。
「ドクロワルさんは気にならないの?」
「この問題から逃げたら、もう先生に合わせる顔がありません。たとえ試験までに間に合わなくても、必ず自力で解いてみせますっ」
彼女にとってプロセルピーネ先生の弟子という立場は相当に重いもののようだ。常にお面を被っているので顔なんて合わせていないことをすっかり失念したまま、絶対に解いてみせると闘志を燃やす。
「先生、他のクラスで試験を受けるなんて認めないと……100点でなければ0点だと言ってくださいっ。この悪魔をっ。私の心に棲みついた悪魔を追い払ってっ!」
「クックック……お前たちは優秀なのですから、選択はお前たち自身でするのですよ」
ロミーオさんがなかったことにしてくれとタルトにお願いしたものの、酷薄そうな薄笑いを浮かべた3歳児がその願いを聞き届けることはなかった。
問題を解こうと必死になればなるほど首をもたげてくる落第への不安と70点の誘惑。時折、奇声を発しながら机に向かうクラスメートたちを尻目に、僕は教室の後ろでタルトと日向ぼっこをしていた。一緒に日向ぼっこしないなら落第にすると3歳児に脅迫されたからである。
主席と次席がつき合ってくれて、それぞれ自分の精霊を膝の上に抱っこして日向ぼっこをしていたら、ドクロワルさんと【禁書王】もやってきた。
「ここはあったかいですね~。モロリーヌちゃん」
「ものを考えるにはこういうところの方が向いている。リラックスしている時の方がアイデアは浮かんでくるものだ」
お昼が近くなって日が差し込んできた使い魔たちの憩いスペースにヨッコラセと腰を下ろすふたり。教室内の空気が重苦しくて、問題を解くのに集中できない。あんな雰囲気の中では何をやってもダメだそうな。
「今は何をやっても手につきそうにないや。僕もお仲間に入れさせてもらうよ」
とうとう【皇帝】まで日向ぼっこの仲間入りだ。心を落ち着かせないと、問題の中身より70点のことばかり考えてしまう。まさか、精霊が心理戦を仕掛けてくるとは思ってもいなかったとため息を吐きながら頭を振る。
「工作の授業で使う術式は完成したのかい。珍しく、ずいぶん悩んでいたろう?」
「ああ、なんとか間に合った。俺としては満足できるものではないが……」
工作の授業で作る幻惑術式の期限は明日。【禁書王】にしては珍しく、期限ぎりぎりまで未完成だったという。コイツがそんなに悩むなんて、いったいどんな術式なのだと尋ねてみたところ、それはある特定の方向から見た時だけ目に映る幻影の術式だという。
「わたくしに術式で挑もうとは、メガネ男はなかなか見どころがあるのです」
「やはり、気付かれてしまったか……」
どういうこっちゃと尋ねてみたところ、【禁書王】はブタさんの再現に挑戦したらしい。
「考えても見ろ。俺の見たいところを正確に隠してしまうのに、別の位置から見ている観測者の視線を遮っているブタさんは、俺の目には映らないんだぞ」
自分の見ているブタさんは自分にしか見えていない。他の生徒が見ているブタさんの姿を捉えることはできないのだ。これほど高度な幻影の術式は図書室の蔵書をひっくり返しても見つからなかったと、【禁書王】が重々しく口にした。
言われて初めて気づく、ブタさんの不思議である。
とりあえず幻影の発する光に指向性を持たせて一定の方向からでないと見えなくしたものの、本人的にはとても満足できる仕上がりではないという。
「モロリーヌちゃんこそ術式は完成したんですか? 猶予期間なんてもらえませんよ」
「色々考えたけど、やっぱり一番シンプルなのにしたよ」
最終的に僕は、クセイナーさんの秘術から霧を維持する術式と景色を揺らめかせる術式を取っ払い、広範囲に濃霧を発生させることだけに特化した術式にした。風に散らされたり、時間が経てば自然に晴れてしまうけど、そういう時はもう一回使えば済む。効果中ずっと発動させっぱなしという術式にはしたくなかったのである。
ドクロワルさんやロミーオさんの術式は光の吸収や反射といった効果を持続させるため、魔導器を使い続けなければならず、その間も魔力は消費され続けてゆく。僕がこのタイプの術式に懐疑的なのは、これがもの凄くロゥリングレーダーで捉えやすいから。ここに魔術を使っている者がいますと全力で叫んでいるようなものだ。
ロゥリング族と一戦交えようなんてつもりはないけど、姿を隠すための魔術なのに探知されやすいというのが美学に反するというか、なんだかマヌケに思えた。
「発動中の魔法陣に魔力が収束する感覚って自然にはまずないものだから、すごくわかりやすいんだよね。これなら魔術を使った一瞬しか反応は出ないし……」
「なんともロゥリング的な発想ですわね」
自分たちにはさっぱりわからないけど、ロゥリング族はそうなのかと主席が感心している。
「ゴブリング族の勇者様はここまで無謀かい。もう呆れる他はないよ」
「どういうこと……エリオヤージュ……説明しなさい……」
お前は本当に正気なのかと【皇帝】が呆れ顔でため息を吐いた。僕の説明に何か引っかかるところでもあったのかと次席が説明を求める。
「バカみたいな広範囲に霧を発生させるなんて、競技会での試合を想定したものではないね。コケトリスで移動しながら連続使用することまで考慮されている」
つまり、それほどの捜索範囲を持つ相手を攪乱し姿を隠すための術式。僕がこの術式を使わなければならない状況をシミュレートすれば、仮想敵とされたものが浮かび上がってくると【皇帝】が自信満々に語る。
はて、仮想敵なんて特に考えていなかったけど……
「これは、魔導騎士や竜騎士の追撃から逃れるための術式さ。魔導甲冑も使わずに彼らの相手をしようだなんて、正気の沙汰とは思えないよ」
「捕らえなさいっ!」
何ひとつ根拠のない勝手な推測を【皇帝】が口にした途端、教室の隅で授業を監督していたリアリィ先生から僕の捕縛命令が下された。




