20
橘琴音はコンビニでトイレに入っていたため、難を逃れていた。つまり、人格交換現象に巻き込まれていないということだ。
だとすると怪我をしたというのも、琴音の中に藤上結羽の人格が入っているということも、すべてが偽りということになる。
あれだけの怪我をしていれば五人も殺害するのは不可能だし、あたかも結羽本人であるかのように振舞ったのは、本当は自分が誰であるのかを諒たちに知られないためだろう。
そのせいで諒は、二番目に殺された松浦希美の体にいたのは橘琴音だと、すっかり思い込まされていた。 だが実際、彼女は琴音ではなく結羽だったのだ。
――なぜそこまでして自分の存在を隠す必要があったのか?
人格が入れ替っていないのなら、わざわざ他人のふりをする必要はない。
琴音が――紛れもない橘琴音本人であるのなら。
そう――琴音が本当に隠したかったことは、先月の事故よりも前から、自分がすでに別人であるという事実の方だったのではないか?
犯人の標的が人格交換に巻き込まれた人間であるなら、九年前の火事においても同様の現象が起こっていたとは考えられないだろうか? あんなことが一度ならず二度もあったなどにわかには信じがたいが、そうでもないと説明がつかない。
犯人の動機は、人格交換現象そのものの隠蔽にあったのか? だがそうなると今になって凶行に及んだ理由が分からない。
いや、九年前は犯人もまだ子どもだったはずだ。人の命を奪うという発想そのものを持てなかったのかも知れない。
やがて成長した頃には、他の住人の居場所が分からず、捜し出すのに今日までかかってしまったのだろう。
そして先月――コンビニ事故の二日前、犯人は最初の被害者である清水仁美と接触して――彼女を殺害した。
なぜそこまでして口封じをしようとするのか、これ以上は本人でもない限り分からない。
五人目の死体を偽装したのは、警察の目をあずさに向けさせるためだろう。もしかしたら平尾に代わって彼女を犯人に仕立て上げるつもりかも知れない。最後にはあずさを自殺に見せかけて殺し、事件の幕を引こうとしているのだろう。
もしそうであるなら、あずさはまだ無事である可能性がある。あくまで希望的観測に過ぎないが、諒はそう信じたかった。
とはいうものの、証拠は何もない。すべては諒の想像に過ぎない。
だがそれでも、琴音がこちらを欺いているのは確かだ。
警察署を出た諒は、さっそく明らかになった事実を、明菜に伝えることにした。彼女には他の誰よりも、このことを知る権利がある。
冷静さを欠いていた諒は、今自分が人気がない道を歩いているということにまで意識が向いていなかった。
スマートフォンを手にとり、明菜の番号を呼び出そうとし――後頭部に強い衝撃を受けた。
風景が傾いだかと思うと、諒の視界は闇に閉ざされた。
「…………?」
次に諒の意識が戻ったとき、彼は薄暗い場所で横になっていた。
周囲に目をやる。いくつも棚があるが、そこには何も並んでいない。隅にはカウンターがあり、出入り口にはシャッターが下りているため、外の様子をうかがうことはできない。
どうやらここは、潰れてしまった何らかの店の中であるらしい。
更に視線を巡らす――と、自分からそう離れていないところに人が倒れてるのが見えた。
両手足を結束バンドで縛られ、猿ぐつわを噛まされているその人物は、行方不明だった笹原あずさだった。
身動ぎしないあずさに一瞬、最悪な想像をする。だがその胸はかすかに上下している。
まだ息があることを知って諒は心底安堵したが、すぐに自分の体も同じように拘束されていることに気付いた。
「……あら?」
声が聞こえ、諒の体は硬直した。
「おはよう。緒方くん」
顔を向けると、そこにはいつの間にか琴音がいた。
「いつからいたんだよ?」
「さっきからいたわ。あなたが目を覚ますのを待っていたの」
淡々とした口調で、琴音は言う。
「……僕を?」
「ええ、そうよ。あの子は少し前までは起きていたんだけど、あなたが起きるまでに眠ってしまったわ」
そう言って琴音はあずさに近づいたかと思うと、いきなり彼女の体を蹴った。
「ほら、起きなさいよ。始めるわよ?」
あずさはくぐもった呻き声をあげ、苦痛に顔を歪めた。
「やめろっ!!」
「大丈夫よ。これでも手加減してるから」
「そういう問題じゃないだろっ!」
「大声を出すのはいいけど、無駄よ? このあたりは人通りなんてほとんどないから……まったく、どうしてこんなところに店を出そうと思ったのかしらね? そんなだから潰れるのよ」
琴音は聞く耳を持たない。
――と、あずさの目がゆっくりと開かれた。彼女は琴音を見上げるなり何かを言おうとしたが、猿ぐつわのせいで聞き取れない。
「やっと起きたわね、こずえ。あまり私の手を煩わせないでくれる?」
琴音の発言を、諒は聞き逃さなかった。
「え? こず……え?」
諒に顔を向けて、琴音は答えた。
「そう、この子はこずえ……鳴海こずえ。私の妹よ」
忌々しげに、琴音は口にする。
「もっとも、父親は違うんだけど」
「な、なら……この前、殺されたのは……」
「この子の元の体の方ね。生きながらじっくり時間をかけて切り刻んだわ……中にいた清水さんには申し訳ないけど」
言葉とは裏腹に、琴音に悪びれた様子はない。清水というのは、清水仁美のことに違いない。
やはり諒の睨んだ通り、九年前にも人格交換現象は起きていたのだ。
「本物の笹原さんは? 君が殺した二人の中にいるのか?」
問い詰める諒に対して琴音は、
「笹原あずさなら、ここにいるわ」
自分自身を指差してみせた。
「母さんに捨てられたショックで父さんはひどく傷ついて、おかげで心療内科の世話になるはめになった……それなのに母さんは、不倫相手の男との間にできた子どもと三人で、幸せそうに暮らしてたのよ。冗談じゃないわよ、まったく」
それから琴音――あずさは、自分の足元に転がるあずさ――こずえを見下ろし、
「だから全部、灰にしてやろう思った」
吐き捨てるように、そう言った。
九年前の出来事は事故ではなく、自分の放火による殺人だと――そうあずさは口にしたのだ。
「真夜中にベランダから忍び込んで火を点けたのはいいけど、あんなに火の回りが早かったのは予想外だったわ。おかげで私も逃げ遅れて気を失って……気が付いたときには病院のベッドで寝ていた」
「五人も殺した……理由はなんだ?」
今回の連続殺人の動機――それは諒だけでなく、誰もが気になるであろうことだ。
「全部、橘琴音のせいよ」
以前のことを思い出したのか、あずさは苦虫を噛み潰したような表情をした。
「琴音はネットで、人格が入れ替った人間の情報を集めていたのよ。私はそれを見てすぐあの女に接触した。私は、前の自分に戻る気なんてさらさらなかった……だからその通り琴音に伝えて、これ以上は捜すのを止めるように説得しようとした……だけどあの女は、それだと他の人が困ると言って聞かなかった。だからしょうがなく、殺すことにした」
あずさにとってそれほど、かつての生活は悲惨なものだったのだろう。
「琴音がいなくなっても、またあの女と同じように元に戻るために自分と同じ境遇の人間を捜す者が現れるかも知れない。そうでなくても、琴音がネット上に晒した時点でもう遅い。事情の知らない人間は信じるはずがないとして、関係者は放っておくわけにもいかない。だから私も自分で呼びかけて彼らを誘き出し、人格交換した全員の口封じをしていくことに決めた。あえて残忍な手口を選んだのは、目的を終えるまではなるべく警察の目をそらしておきたかったからよ」
それがあずさの殺人動機で――最初に殺された清水仁美の中にいた人物こそ、本物の橘琴音であるらしかった。
「でもまさかコンビニで起きた事故のせいで、人格交換した人間が更に六人も増えてしまうとは思わなかった。私があの場にさえいなければ余計な詮索を気にすることもなく、あの三人も殺す必要はなかったんだけど……まったく、ついてないわ」
言って、あずさは溜め息を吐く。人の命を奪ったことに対する罪悪感など微塵も持ち合わせていないようだ。
一連の犯行は、あくまであずさの自己保身によるものでしかなかったのだ。
「さて……と。聞きたいことはもうない? なら、始めてもいい?」
あずさはこずえから離れ、諒のところに向かってくる。
「……始める?」
「ええ。これからこずえの目の前で、あなたを殺すのよ。緒方くん」
そして隠し持っていた凶器を取り出す。それは赤城の殺害現場で平尾が手にしていた大振りのナイフと、よく似ていた。
「あなたはこずえにとって特別な人のようだから。あの子はさぞ苦しみ、悲しむでしょうね」
「っ……」
どれだけ身をよじらせ、手足に力を込めても、抵抗が徒労に終わるのは目に見えていた。
――覚悟を決めるしか、ないのだろうか?
諒はナイフの切っ先が自分に迫る間、ずっとあずさを睨み付けていた。
ばんっ――。
店の奥から、だしぬけに大きな音が響いた。続いて、複数の足音――。
驚愕の表情で音のした方へ顔を向けたあずさを、いきなり現れた人影が組み伏せた。
「無事か? 赤城くん」
人影が諒を見る――津島刑事だった。
後からやってきた警官たちによって、諒とこずえの拘束が解かれる。あずさは手錠をかけられ、両脇を警官に挟まれ連行をされていく。
「……どうして、ここが?」
戻ってきた津島刑事に、諒は疑問をぶつけた。
「いや、それが……俺にもよく分からなくてな」
困惑したように後頭部をかきながら、津島刑事は答える。
「え?」
「藤上さん、だったか? 彼女が教えてくれたんだ」
藤上ときいて混乱したが、すぐに明菜のことだと分かった。
「詳しいことは、彼女に聞くといい」
釈然としないが、どうやらそうするしかないようだ。おかげで命拾いしたことは事実なのだから、彼女には感謝すべきだ。
とにかくこれで、事件は本当の解決を迎えたのだ。
自分も、こずえも、明菜も助かった――今はその事実をよく噛みしめていようと、諒は思った。




