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二〇一三年 七月

 テーゲル空港からベルリン中心街へは、直行バスで行く。バカンスの季節のせいか、車内には浮ついた空気が満ちて、誰もが笑顔だった。

 ドイツの夏は短い。客たちはタンクトップやノースリーブシャツから日焼けした腕を露出させ、目を輝かせながら、窓から差し込む夏の陽光を浴びている。

 老女にとっては、七十四年ぶりのベルリンだった。


 空港の売店で買ったドーナツをかじりながら、分厚い観光ガイドに目を通す。

 視線を感じ右隣に目をやると、十ばかりの少女がドーナツをちらちらと見つめている。明るい栗色の髪を短く切り、一見すると少年のようだった。ドーナツを見ていた鳶色の瞳と視線がかち合うと、少女は慌てて目を逸らした。

 老女は微笑むとドーナツの袋に手を入れ、ココナツパウダーがたっぷりとかかった一つを取って少女に差し出した。信じられないという顔で少女は受け取り、


「ありがとう」


 とお礼を言って、喜色満面の笑みを浮かべた。


「おばあちゃんは観光なの?」


 口元をココナツだらけにして、少女は訊ねた。


「まあ、そんなところかしらね。ずっと昔に住んでいたけれど、ベルリンは本当に久しぶりなの」

「ふうん」


 相槌を打って、手に付いたココナツを舐めた。


「ドーナツありがと。あたしはハイジ。よろしくね」

「ハイジ? あら、とっても可愛らしい名前ね」


 老女の言葉に、少女は顔をしかめて唇を尖らせた。


「そおかなあ。なんか古臭いし、ダサくない? なんかさあ、もっとクールな名前が良かったな。ミクとか、リンとか」

「ミク? 変わった名前ね。そういうのが流行っているの」

「おばあちゃん知らないの? 日本のボーカロイドの名前だよ。あたし日本のアニメ大好きなんだ。ほら」


 そう言って少女は膝上のリュックからノートを取り出し、老女の前に広げて見せた。雑誌の切り抜きなのだろうか。緑の長い髪を二つに分けて頭の上で結び、踝まで垂らしている美少女の絵が、べたべたと糊で貼りつけられている。


「これがね、ハツネ・ミク。こっちがカガミネ・リン」


 自分の好きなものを披露できる相手が出来て嬉しいのか、生き生きとした表情で少女は説明してくれた。ハイジは日本人とのクォーターで、母方の祖父母が住むサッポロに遊びに行って来た帰りだったのだという。


「一人で? 偉いわね」

「そうでもないよ。この歳になれば、一人で旅行くらいできるって。今どきアイフォンだってあるんだから、昔みたいに迷ったりしないよ」


 こましゃくれた少女の口調に、昔の自分を思い出して老女は苦笑した。やがてバスはシャルロッテンブルクへ入り、オットー・ズーア大通りを走る。車窓から眺めるベルリンの街並みは、まるで知らない土地のそれだった。この街があの瓦礫の山からここまで復興したのは、奇跡に近いと言える。

 だが、ポツダム広場界隈はすっかり様変わりしてしまった。《ハウス・ファーターラント》もアンハルター駅も今はない。思い出深い建物の多くは、戦争で失われてしまった。


 老女がこの歳になるまでベルリンに来なかったのは、それも理由のひとつだ。昔愛した恋人の今を知りたくないように、変わり果ててしまった生まれ故郷を見たくないという気持ちが、長いこと心の底にあった。

 バスはハルデンベルク通りを過ぎて、動物園駅に着いた。


「あたしここで降りるんだ。おばあちゃんは?」

「私もここで降りますよ、ハイジ」


 少女は老女の手を取り、一緒にバスを降りた。


「ありがとう、手を取ってくれて助かったわ」

「どう致しまして。もうすぐママが迎えに来てくれるの。それまでそこらへん、ブラブラしてる。おばあちゃんは?」

「私は歩いて象の門まで行きますよ。ベルリンに来たら、真っ先に行きたいと思っていたの」

「ふうん。ここからけっこう歩くけど、気をつけてね」


 ハイジは小さな手を老女に差し出した。


「そういえばさ、おばあちゃんの名前聞いてなかったけど」

「マルガレーテっていうの」

「そっかあ、マルガレーテ……。じゃあ、グレーテおばあちゃん、ドーナツごちそうさま」

「どう致しまして」


 手を振る少女が遠くの人込みに消えると、老女は杖を握りしめてブダペスター通りを歩きはじめる。

 右手に見えるカイザー・ヴィルヘルム教会は、爆撃を受けた凄惨な姿をそのままに残していた。昔の壮麗な姿をかすかに留めてはいるものの、かつての面影を知るものとしては、哀れというより他はない。

 通りの円形広告塔には、ナチス時代を考える特別展のポスターが貼られていた。

 今年はあの計画、今では「水晶の夜」と名付けられた暴動事件から、七十五周年という節目の年だった。そのため、このような企画展がドイツのあちこちで行われている。


 老女はポスターを眺め、遠くを見る目になった。

 あの時代、あるものは抵抗し、あるものは総統に己の理想を重ね、またあるものは虚無の闇に落ちていった。生きて死んでいった者たちにとって、あの十二年間は一体なんだったのだろう。永遠に答えなど出ないと分かりながら、問いかけずにはいられない自分がいる。

 暑さに眩暈を覚えて街路樹の陰に立ち止まり、ほっと息をついた。バッグからハンカチを取り出し、汗の浮いた首筋を拭う。しわの刻まれた首は、人並みに歳を取った証だ。ベルリンに居た頃は、永遠に十代を生きるのではないかと思っていた。そして、長く生き過ぎたと思いながら月日を重ね、とうとうこの歳になってしまった。


 女としての普通の人生、いやまっとうな人としての人生すらどこかで大幅に道を外しながら、ここまで生き延びてきたのは、ひとえに彼女との誓いを守ったまでだ。

 己の魂を捧げ、聖母と崇めたあの人は、電話の向こうでこう言った。この戦争を生きのびて、ドイツの行く末を見届けて欲しい―と。それを彼女が願うなら、他に選択肢などなかった。スイスの銀行家に養女となったのもそのためだ。

 ベルリン陥落の報を聞いて、荷物をまとめ養家を飛び出し、あちこちを根なし草のように渡り歩いた。カオルのいたという神戸にも行った。フランスにもイタリアにも、ロシアや南米でも暮らした。だが、ベルリンだけは別だ。ここは思い出の密度があまりにも濃すぎる。


 老女は再び歩き出し、懐かしいブダペスター通りを、象の門目指して進む。カオルが好きだった日本風寺院は、戦争で失われてしまった。しかし、象の門は今も変わらずそこにある。やがて緑濃い街路樹の向こうに、見覚えのある東洋風の屋根を頂いた建造物が姿を現した。

 青碧色の屋根から伸びた、白い門柱。門柱を守護するように鎮座する二頭の象は、七十五年前と変わらずそこに居た。

 老女は震える手で肩から下げたバッグを探り、色の醒めた封筒を取り出す。封筒からはこれまた退色の激しい写真が一葉姿を表し、しみの浮いた指で目の前にかざされた。


 老女は最近かすみが酷くなった双眸を凝らして、写真を穴があくほどに見つめる。まだ幼く、生意気盛りだった自分が頬を膨らませて写っていた。一番端に立つ例の少女は怒ったように視線を逸らし、その彼女の手を取り、無邪気な笑みをこちらに向けているのは……。


 日本刀を背負った東洋系の少女と中央に立つ彼女は、微笑みながら吹き出すのを堪えている。

 長らく行方不明になっていたこの写真がつい先月、棚に納められた本と本の間から見つからなければ、ここに来る気にはならなかっただろう。

 あの人が呼んでいる。老女にはそう思えてならなかった。

 写真中央で優しい微笑みを瞳に浮かべる、彼女の姿を眺めた。長く美しい金色の髪と、深く澄んだ緑色の双眸。全てを賭けて、彼女の側にいたいと強く願った。そう、あの人に対する思いは、七十五年過ぎた今でも色褪せていない。


(これで良かった?)


 写真の姿に語りかける。

 彼女のためになら、どのようなことでも成し得た。たとえそれが、目を背けるほど残酷なことでも。

 だが神はそんな自分の咎に対して、最も過酷な運命で報いたのだ。あの人がいない世界を、六十八年も、たった一人で生き続けなければならなかったのだから。皮肉にも、彼女への誓いを果たすというかたちで。

 彼女がそれを望み、自分が見届けてきたドイツは、やがてあのハイジのような子どもたちが未来を担っていくだろう。

 戦争を知らず、祖父たちが捕らわれていたしがらみの枷をいとも簡単にすり抜け、国境や人種を軽々と越えて、新しい価値観を作って行くのだ。

 もう自分が成すべきことは、何もない。


 突然、不意に目の前が真っ白になり、世界が歪んで回り始める。

 倒れるのだろうかと思い身体を強張らせたが、軽い羽毛のような柔らかな空気に包まれ、まるで宙に浮いている心地だった。


(おばあさーん、大丈夫ですか?)

(しっかり。今救急車を……)


 どこかでたくさんの人が叫んでいる声がしたが、それも徐々に彼方へと遠のき、やがて聞こえなくなった。

 傍らに懐かしい誰かが寄り添う気配がし、そっと手を握る感触に、老女は長いこと忘れていた幸福感に包まれる。

 老女の手を握りながら、聞き覚えのある優しい声が耳元で囁いた。


 おかえりなさい、グレーテル――。


 その時全てを悟った。

 自分はこの瞬間のために、今日まで生きてきたのだと。



 ENDE


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