49頁 剣と瑠璃
フード付きコートを深く被った人物が静かに病室に入ってきた。
「いやいや今日は一段寒いね、老頭児には堪える」
そう言いながらふわふわの柔毛付きのフードを脱いだのは、担任の黒田だった。
「それに今日は随分と賑やかなようだね。そちらの方々は宮川さんのご親戚でしょうか?」
「いえ黒田先生、こちらは俳優の剣さんです」
脱いだコートを畳みながら聞く黒田に母さんが答えた。
「そうですか、これはこれは……。私は中学で担任をしております黒田です」
「ご丁寧な挨拶痛み入ります。こちらは劇団七色座座長、奈良屋義春です。私は庶務の米沢ひかりと申します」
「初めまして、劇団七色座の奈良屋義春です。よろしくお願いします」
「なるほど、劇団の方ですか……。して、宮川君とはどのような関係でしょうか?」
「黒田先生、奈良屋さんは当研究センターの他にも、各地の施設への寄付や慰問活動をしていただいてる方でして……」
りさちん先生が奈良屋さんについて簡単に紹介した。
先生の説明にうんうんと頷く黒田だが、あの『剣雪斗』が目の前にいるなんて全然気付いていない様子だ。しかも、母さんが俳優の剣さんって紹介までしたのに。
「なるほどなるほど、それはとても素晴らしい活動ですね」
まぁ黒田の場合は、芸能界とか流行とかあんまり興味なさそうだから、すごい有名人がここに居ても、たぶんそこらの通行人と同じなんだろうな。
「宮川、前に会ったときよりも随分と綺麗になったな。元気そうで何よりだよ」
「そ、そう?」
「ああ、それにこの前より顔色がパァッと明るくなった気がする」
「そ、そうかな? へへっ」
そりゃあ七色座に入団できたし、ひかりさんから今後についての具体的な説明を聞いてると、これはもう夢じゃなくて現実なんだっていう実感がふつふつと湧あがってさ、もうずっとドキドキしっぱなしだし。
「よかったな、宮川……。元気になってよかった」
黒田はまるで孫を見るような目で俺を見ながら呟いた。
だが、当の黒田の顔色はこの前よりも明らかに悪くなっている事に俺は気付いた。
黒田の頬は、この前よりも痩せこけて見えるし、いつもの似非イングリッシュが一言も無い。
「先生は前より痩せたよね、顔色もあまり良くないみたいだけど、大丈夫なの?」
「ああ、その事でここに来たんだが、実は宮川の改名の件について、もう時間があまり無いかも知れんのだよ。急な話だが、できれば今日ここで全て決めてもらいたいと思っている」
「え……?」
『全て決めてもらいたい』というのは、俺が女になってしまった後の事についてだ。
──みんなの知ってる宮川瑠伊はもうどこにも居ないって事にしたいんだ……
以前、黒田が初めてこの病室にやって来たときに、俺は黒田にそう言った。
女として、全てを捨てて最初からやり直すために。
その覚悟もできている。けれど……
──必ず誰かが瑠伊くんの性転換についてネットで拡散すると思うのですよ。
──瑠伊くんは日本中から好奇の目で見られることになるかもしれないです。
──そういう事も覚悟しておかなくてはなりませんねー
りさちん先生が言った言葉が頭を過る。
俺が男だったという事は、できれば誰にも知られたくはない。
かつて存在した『宮川瑠伊』は、時と共にこの世から自然に忘れ去られて欲しいと願う。
黒田はそんな俺の意を酌んでくれて、あれから俺のために色々と手を考えてくれた。
そして、これから俺がすべき一連の手続きでも、かなり無理をしてくれているみたいだ。
「あの、先生、今すぐ全部決めないといけないって、いったい何かあったんですか?」
「情けない話だがね、今度は先生が入院することになってしまった。医師にはすぐに入院を勧められたがね、私は君の事をすべて片づけてからでないと、とても入院する気になれない。そういう理由でこちらの勝手な都合ですまないんだが、できれば今すぐ改名の手続きをして欲しい。でないと、このままだと君の転校手続きは他の先生に引き継いでもらう事になってしまう」
げっ……。
引き継ぎってことは他のクソ教師共に俺が女性化した事がバレるってことじゃねーか!
「それだけは絶っっっ対に嫌っ! 引き継ぎとか絶対ありえないからっ!」
「そう言うと思ったよ。だから先生は君の事は誰にも話していない。学校の先生方や生徒達の間じゃ、君は未だにどこかの病院で入院中という事になっている」
「そ、そうなんだ……」
「これまで何度も職員会議で君の事を問い詰められたがね、とにかく任せてほしいと誤魔化し続けてきたよ。だが、さすがに私まで入院するとなると、さすがにこのまま隠し通すことは不可能になる」
黒田は俺か女性化した事を一教師の立場でありながら徹底的に隠し通している。
さらに聞けば、黒田は俺を気遣って、俺を男子生徒のまま夕凪台から去る事にするつもりらしい。無論、転校先では俺は女子として転校してくる事になる。
だけど、もしもここで黒田が突然倒れて他の教師に引き継ぎなんかされてしまったら、これまでの黒田の苦労は全て水の泡になる。
そうなれば俺が性転換した話もあっという間に広がってしまうだろう。
それに、やっぱり俺が信頼に足ると思える教師は黒田しかいない。
夕凪台中の教員全員が全然信用できないってことじゃないんだけど、黒田以外の教師はデリカシーが無いというか、平気で他人のフライバシーを喋りやがるんだ。
「この前の日曜日に××(男子)と○○(女子)が一緒だったのをを見たぞ」とか、授業の前に平気で言う奴らだし。
とにかく、俺にはそんなクソ教師達に転校の引き継ぎなんてとても任せられない。
奈良屋さんには「俳優は恥をかけ」なんて言われたけどさ、俺が女になったって話だけは、ぶっちゃけ別次元の問題だ。
「つまり、ここで新しい名前を決めたらいいんですよね?」
「いや、名前だけじゃない。引っ越し先と高校の志望校もだね」
「引っ越し先も!?」
「当然だろう。お前は転校する事になっておるんだからな」
「失礼、改名に転校に進路と……。これはどういう事でしょうか?」
奈良屋さんが黒田に訊いた。
「あ、あの、奈良屋さん、米沢さん、追い出すようですみませんが、少しだけ席を外していただけますか? るーちゃんの個人的問題ですから」
りさちん先生が割って入った。
「あ、いいよ先生。奈良屋さん達には言うよ俺。本当の事をさ……」
「いいの? るーちゃん? 入団が取り消しになっちゃうかも知れないわよ?」
母さんが心配そうに言った。
「いいよ母さん、その時はその時だし。むしろ『剣雪斗』を演じ続けてきた奈良屋さんだからこそ、聞いてもらいたいなって思うし」
「ふむ……。何やら瑠伊ちゃんには複雑な事情があるみたいだね。黒田先生、改名とやらのお話の前に、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんが」
「ありがとうございます。じゃひかりさん、今夜の本読みは俺欠席って伝えておいて」
「わかりました」
「それから本読みは必ず録音してあとで俺に回すようにして、それと、外で待たせてる新人君を急いでここに呼んできて」
「わかりました」
ひかりさんはスマホを取り出しながら、颯爽と部屋を出て行った。
「あ、あの、奈良屋さん、新人君って昨夜一緒にいた熊谷さんの事ですか?」
「そうだよ。彼にもキミの事情とやらを全部知っておいてもらったほうがいいと思ってね。ま、とにかく俺に話を訊いてもらいたいと言うなら、ひかりさんと新人君には同席してもらうよ?」
「あの、大丈夫なんでしょうか……?」
なんか熊谷さんって、いい人っぽい不器用そうな感じの人だし。
チンピラに絡まれたところを助けてくれたのは感謝してるけど……。
「なに、心配いらない。ああ見えてもな、あの新人君は俺なんかよりずっとしっかり者で頼りになる男だぞ?」
「そうなんですか……? 意外です」
「あれはね、まだ仕事に慣れてないから頼りなく見えるだけだから。あ、でも俺がそんな言ってたなんて本人には絶対に言うなよ? 褒めるにはまだまだ早い」
奈良屋さんは人差し指を口元で立ててシッー!というジェスチャーをした。
「は、はいっ!」
しばらくして、熊谷さんが大きな両手で大げさに口を塞ぎながら、病室に入ってきた。
でもなんだこの人は……。
ひかりさんに「両手で口を押えて絶対に喋るな」とでも言われたんだろうか?
抑えている手から漏れ聞こえる荒い鼻息の音がちょっと気になった。
「あの、それじゃあ俺の事について話しますね……」
………
……
…
大きくぽかんと口を開ける熊谷さん。
目を瞑り、何も聞かなかったかのように装うひかりさん。
2人とも俺の話が未だ信じられないのか、放心状態って感じだ。
最初に俺は、修学旅行のときに携帯で撮った写真を見せた。
そして、これが先月の俺の姿だと説明した。
だけど、ひかりさんも熊谷さんも突然のことに、俺が男だったなんてまるで信じようとしなかった。むしろ俺の姿を見て、どうやって女装してるんだろうかと疑われたぐらいだ。
確かに今の姿は別人そのものだし、信じられないのは分かるけど、こんなに疑われると少しショックというか、理解されなかった事に傷ついたというか。
そこで、りさちん先生が俺の病気である性転換症ついての簡単な解説をしてくれることになった。
説明の途中で、無残に死んでいった人達のややグロテスクな画像資料や、このセンターの地下4階の監視カメラで撮られた男声のだった頃の俺の様子の映像などを見せて、ようやく俺が元男だという事を信じてくれたのだった。
だけどりさちん先生は、専門である医療術である≪魂の浄化≫だとか、呪いや風水といったような、俺が女になってしまった本当の原因については説明しなかった。
「こ、こんな可愛い子が、ついこないだまで男の子だったとは……」
「え、ええ……。疑ってごめんなさいね、瑠伊ちゃん。きっと、心身共にとても辛い思いをしてきたんでしょうね……」
「い、いえ、もう平気だから」
俺はひかりさんに愛想笑いをした。
「なるほど、改めて説明を聞きましたが、これはものすごく大変な病気だね。それなのに修学旅行に行ったのか、宮川」
「う、うん……。なんか平沢とか原田見てるとほっとけなかったし」
「そうかそうか、だが無理はしちゃいかん。もっと自分を大切にしなさい」
「ご、ごめんなさい」
それから黒田と修学旅行ときの事を少し交わした。
それにしても、奈良屋さんは俺は話をしているときも、俺が女になった経緯なんてまるで興味無さげな態度だった。
俺に変わってりさちん先生が説明している間もずっと、奈良屋さんはまるで美術品でも鑑賞するかのように、俺の顔や身体、胸や髪や手や指先と、俺のあらゆるところを舐めるように観察しつづけていた。
「妻木先生さ、所長さんはこの子の事知ってるんだよね?」
「そりゃまぁ当然といいますか、普通に」
「ふーん。じゃあ、近いうちにまた挨拶にでも行きますって伝えてくれるかな?」
「あ、はい。わかりました」
そういえば、ここの所長ってどんな人なんだろう? 一度も会った事ないんだよな。
そう思っていると、奈良屋さんは突然人差し指で俺の顎をクイッと押し上げた。
「そうか……。それで一人称が『俺』だったのか」
「は、はい」
こ、怖い……。
ていうか、いきなり「顎クイッ」されるとは思わなかった。
「地方から上京してくる子ってのはさ、最初に方言の矯正から始めるものだけど、瑠伊ちゃんの場合はその男言葉から直さないといけないね。……はっきり言って似合わないよ」
うっ……。
つまり、女らしい言葉使いをしろって事か?
で、でも、言葉使いなんて男も女もそんなに変わんねーと思うぞ!?
だってさ、うちの学校にもその辺の男よりも乱暴な言葉使いで喋る女子がいるし、それに獣みたいに本性丸出しで、頭悪そうで、すっげぇ怖いのいたし。でも原田にボコられたけど。
「そんなにダメですか? 今の言葉使いって」
「ダメダメだね。瑠伊ちゃんさ、自分自身を商品として考えた事はある?」
「えっ? いえ……。よく分かんないです」
「じゃあセルフプロデュースって聞いたことないかな?」
「無いです」
「まぁ簡単に言うとね、セルフプロデュースってのは、自分の良いところ前面に引き出して1人でも多くのお客様の心を掴む技術の事なんだけど、瑠伊ちゃんのその男言葉は、たぶん素人目に見てもこれから業界で売っていくに当たってかなりイメージが悪い。キミの価値を大きく下げることになる。それは実に勿体ない」
「は、はい」
「まぁトークが面白いとか、あるいは瑠伊ちゃんの人間性が好まれるようになれば、その口調も一つの個性として捉えられるんだろうけど、そこに到達するには長い時間が必要だし、俺から見ればトークで引っ張るのやり方は瑠伊ちゃんにはあまり向いてないかもしれない。瑠伊ちゃんって真面目だしね」
「そ、そうですか?」
いや違うんだよ。奈良屋さんは誤解してる。
俺は真面目なんかじゃない。
ただ権力者には極力逆らわないようにしてるだけの、ただのコバンザメ野郎なんだ。
てか、今はもう「野郎」ですらないんだけど……。
「うちは大手の劇団神輝さんと違って、個々のタレント性に頼るところが大きいからね、正式に入団したら、この可愛らしい顔にピッタリ似合う可愛らしい言葉使いになってもらうからね」
やっぱりその方向かよっ!?
「あ、あの、奈良屋さんは俺の事を気持ち悪いとか思わないのですか?」
「何で?」
「おれ、あ、私、男だったんですよ? でも全然普通というか、何の反応もないというか」
「じゃあ聞くけど、瑠伊ちゃんが元男だったら舞台に立ったらいけないと思う?」
「え、えと……」
「それとも、元男だったら外も歩いちゃいけない? 生きていたらいけない?」
「いえ……そんな事はないです」
「なら問題ないよな?」
「は、はい」
「難しい事考えなくていい。普通にしてたらいいんだよ」
それが難しいんですけど……。
「ぜ、善処します……」
「よし、いい子だ」
奈良屋さんは俺の頭に手をのせると、ぐしゃぐしゃと頭を撫でた。
「ところで瑠伊、黒田先生の話はどうするんだ? 名前とか」
父さんが訊いてきた。
「えーっと……」
『宮川瑠伊』を消すためにすべき事。
まず最初に俺の名前を改名する。
別人になると決めた以上、名前も完全に別のもの変えた方がいいという話になった。
「瑠伊という名前でもいいじゃない?」って母さんが言ったんだけど、父さんが「いや、でも瑠伊のままだとこの前見た人気AV女優の味川るいちゃんみたいだ」ってうっかりこぼしてしまったんだよな。
そしたら案の定、母さんが尻を真っ赤にしたサルみたいにキーキーとヒステリー起こして喧嘩になって、結局、一気に改名する流れになってしまったんだけど、新しい名前というのが、実は何にも決まって無くて、改名の話自体がそこで止まっているって感じだ。
ちなみに色々な手続き自体は、先に父さんやりさちん先生、黒田先生、それから会ったとこがないけどここの研究センターの所長さん達が関係各所に話を通してくれているらしくて、俺の新しい名前については、受験が控えている事もあって、申請すれば数日で改名できるよう特別に準備が出来ているらしい。
まぁ難しい話は置いておいて、とにかく俺が別人として新たな人生を始めるには、転校する前にこっそり改名手続きを済ませて、完全に女の子の名前になってから、都内の別の中学へと転校するという手はずとなっている。
そして、それらの手続きが全て終われば、ただの男子中学生だった「宮川瑠伊」は、完全にこの世から消えることになる……。
「この前は、陽菜とか沙羅とか葵ってのはどうかしら? って話しをしてたんですよ」
母さんが奈良屋さん達に向かって言った。
「でも、その名前に娘は納得していないんですよね。どうしたものだか」
「う、うん……なんかこそばゆいというか、違和感というか、しっくり来なくて」
フィーリングの問題なんだよな。
何ていうか、もっと俺にピッタリ合う名前がある気がするんよな。
「他人になりきるって難しいですよね? 奈良屋さんのときはどうだったんですか?」
俺はふと奈良屋さんに訊いた。
それは今、俺が奈良屋さんに一番聞いてみたい事でもあった。
「瑠伊ちゃんさ、他人になり切るって、ただ名前変えたらいいとか思ってるだろ?」
「え、まぁ……」
「違うんだよな、他人になり切るってのは思ったよりも難しいもんだぜ?」
「そうなんですか?」
「ああ。俺も昔、当時のマニーズの社長に言われて無理やり『剣雪斗』に仕立て上げられたけどさ、デビュー後もずっと思い悩んだよ」
「へぇー」
「『剣雪斗』って男はいったいどんなヤツで、どんな生い立ちで、どういう性格で、どういう考え方してんのかってね」
「そ、そこまで考えてたんですか?」
「いや普通に当然だろ? 別人演じるんだから」
「そ、そうですよね」
「ま、当時の俺ってさ、事務所のお偉いさん方からは目も付けらなくて、お払い箱寸前だったんだけど、ある時偶然社長と直接話す機会ができてさ、それで色々と試されてね。そしたら『キミ顔もいいし演技も上手いけど、いちいちいう事が生意気だな。それじゃ売れないから、試しに誰もが憧れるアイドルを演じてくれ』って言われたんだよな」
なんだか今の自分とかぶってる気がするんだけど。
「で、俺も必死だったから、とにかくその場で色々と演じてみたら『これだ! これで行こう!』みたいになって、そこから剣雪斗はあっという間に事務所のトップに上り詰めたってわけよ」
「すっごーい! その話初めて聞いたわ!」
母さんは乙女みたいに胸の前で両手を握って黄色い声をあげた。
まったく……
「でもな、あの日から奈良屋義春は死んだよ」
「えっ……?」
「ドラマ出演を切っ掛けに予想以上に人気たのはいいんだけどね、その日からフャンやメディアに追われる日々になってね、あの時は冗談抜きで面倒だったな」
それって、芸能界の頂点を目指す人なら誰もが憧れそうなシチュエーションだと思うけど……。
「当時のマスコミなんかは今と違ってかなり過激でね、デビューしたての頃は安いアパートに住んでいたもんだから、自宅の盗撮や盗聴なんかも平気でやられたよ。それからも身に覚えのないスキャンダルを捏造されて流されたこともある。そんな日々を過ごしているうちに、心休まる時なんて無くてなってしまって、いつの間にか俺の中の『奈良屋義春』は完全に居なくなっていたよ」
「……」
「役者が役作りする場合ってさ、皆それぞれに色々と考えるもんなんだけど、たまに私生活までもがその役本人になりきるヤツがまぁ、役者やってるヤツの中じゃ少なからずいるんだよな。で、俺もそのうちの1人だったワケだけど、俺は『剣雪斗』の役作りのために興味も無い欧州や南米のサッカーを生で見に行ったり、アメリカやヨーロッパ、それからオセアニアの各地のワイナリーを回ってワインを嗜んだりたり、家に居る時は独学で必死にピアノの練習したりもしてね」
「なんか、よく分かんないけどすごいですね……」
「いやいや凄くない凄くない。大半は事務所のカネで遊んでただけだし。ま、当時はそういうオシャレっぽいのが持て囃されてただけで、俺以外の芸能人もみんなそんな感じだったよ。で、そんなくだらない事しながらも、当然歌もダンスも演技も完璧にこなせないといけなくて、ロケで空いた時間とかも使って毎日毎日練習の日々だったよ。ここだけの話な、アイドル路線が嫌になったから老化メイク始めたんだぜ?」
「えっ、そうなんですか? それは私も初耳です」
庶務のひかりさんが驚いた。
「はははっ、でもその目論見は全然上手くいかなくて、結局、俳優一筋に転向するまで10年ぐらいかかったな。辞めるだけなら引退表明するかガチのスキャンダルでも起こしてしまえばいいんだけど、あの頃は社長に恩義もあったし、なかなか言い出せなくてね。ま、とにかく『剣雪斗』ってのは、みんなのイメージ通りでないといけなかったんだ」
「……」
「瑠伊ちゃん。別人になり切るってのはここまでやってもまだまだ足りないんだよ」
「ええっ!?」
「少しは怖くなった?」
「え、えと……。想像もつかないですけど」
「うん。でもこんな話をしたのはね、瑠伊ちゃんには俺と同じ道を歩んで欲しくないからなんだよ。俺は成功する為とはいえ、捨ててしまったものが余りにも多すぎた。その事は今になっても後悔している。だから瑠璃ちゃんには、別人になりきるなんて決断はしてほしくないのが俺の本音。本当に別人になり切るのは舞台の上だけでいい」
「はい……」
別人になる必要はない。
そう言われて俺はなんだか少しだけ気が楽になった。
七色座に入る以上、言葉は可愛らしい話し方に変えないといけないけど、奈良屋さんが言いたいのは、きっと、全てを変える必要はなんって事だと思う。
俺は、俺のままでいい。
「でも新しい名前って、何がいいのかな……」
ふと呟いた俺の言葉に、しばらく誰も答える事はなかった。
「瑠璃── ……じゃ、だめかい?」
「えっ……?」
奈良屋さんが言った。
「瑠璃……?」
それは昨日初めて会った奈良屋さんとひかりさんに散々間違われた名前。
「俺、昨夜キミの事を『るり』『るり』ってずっと言い間違えていたけど、瑠伊ちゃんはあの時、ごく当たり前のようにしてたよ?」
「そ、そうですか?」
「ああ。それってさ、君の言う違和感が無いってことなんじゃないかな?」
あの時は、ただ間違って覚えられてる程度にしか思わなかったけど。
でも確かに「さくら」とか「あやめ」とか、他にも色々出てきた可愛らしい女の子の名前よりかはしっくりくる気がする。だけど『るり』だとさ……。
「でもそれだと、今の名前と似すぎなんじゃ……」
「俺、昨日言ったよな? 『るりはるりにならなきゃ』って。キミは俺みたいに無理して別人になり切らなくていい。なに、名前は似ていても姿も性別も別人なんだ。心配する必要はないよ」
言われてみれば確かに。名前が似てるってのは気にし過ぎだったのかな?
「それに、今にして思えばるりちゃんの名前はもう決まっていたんだよな。昨日初めて、あの公園で会ったときからね」
「るーちゃん、母さんは奈良屋さんが付けてくれた名前だったら何でもいいわ!」
おいちょっと待て母さん、その考え方だけは止めろ。
もしも奈良屋さんが「ゴリ」って名付けたらどうすんだよ?
「宮川ゴリ」になるんだぞ!?
「瑠璃か……。父さんもいいと思う」
「でしょう!?」
父さんも賛成した。外堀がどんどん埋まっていく。
「瑠伊と言う名前は、父さんと母さんが瑠伊が生まれる前にで決めた名前なんだよ。男の子と女の子のどちらが生まれてもおかしくない名前をってね。そして、新しい名前が『瑠璃』になるなら、父さんと母さんが名付けた『瑠伊』の『瑠』の字が名前に残る。それはたとえ、姿や性別が変わっても、瑠伊は、いや瑠璃は父さん達の子だって胸を張って言える」
「う、うん……」
「なんだかとてもいい話ですね。あっ……すいません」
今までずっと黙っていた熊谷さんの野太い声が部屋に響いた。が、熊谷さんはすぐに両手で自分の口を押えた。
やっぱりこの人、声量が標準で大きくてハンパない……。
でもさ、元をたどればひかりさんが言い間違えたせいなんだけど、それを言うと雰囲気台無しになるから黙っている事にした。
「じゃあ宮川、新しい名前は本当に瑠璃でいいんだね?」
担任の黒田が念を押すように言った。
「う、うん……。瑠璃でいいです」
「わかった。」
「よかったねー瑠璃ちゃん、新しい名前が決まって」
りさちん先生が早速新しい名前で言ってきた。
「うー……。改めて呼ばれると、なんか変な感じ」
「なに、瑠璃ちゃん、呼ばれ方なんてすぐに慣れる。俺も『剣』って呼ばれるのにはすぐに慣れたからね」
「そ、そうですか?」
「ああ、むしろ慣れておかないとしんどくなるぞ?」
「で、ですよね」
「これで名前は決まった、と。ところで宮川君のお父さん、引っ越し先についてですが、もう決まりましたか?」
黒田が父さんに尋ねた。
「いえ、それが私の仕事の事情もあり、一家そろって夕凪台から都内への引っ越しというのはやはり難しいですね。ですので、中学卒業までは都内で借家を借りて母さんと暮らしてもらって、高校はできれば学生寮があるようなところが理想ではありますが、娘の希望と学力次第といったところでしょうかね」
「なるほど……」
学力次第って、なんか嫌な予感。
「るーちゃん、高校受験はもう決めた?」
「い、いや、先に引っ越し先を決めるちゃうのかなーって思って、あんまり……」
「でも、少しぐらいは調べたのでしょ?」
母さんごめんなさい。
ネットでちゃんと調べるつもりだったけど、実は女子の制服ばかり見てましたなんて、とても言えないです……。
「が、学校は調べてないけど、こ、この近くがいいなぁ……って」
ごまかすしかない。
「あ、それはいいかも知れませんね」
りさちん先生が手を相づちを打ちながら言った。
「退院後もできれぱ月に1度ぐらいの間隔でるーちゃんの定期健診したいと思っていたんですよねぇ。ですからこの近くっていうのは、わたくしとしては好都合ですねぇ」
それ、ただの先生の都合だけじゃないか。
「少々よろしいでしょうか?」
「あ、はい」
今度はひかりさんが話に入ってきた。
「非常に差し出がましいお願いになるのですが……」
なんだろう?
ていうか、中学生の進路相談をこんなに沢山の大人が集まってするとは思わなかった。
ちょっと恥ずかしいというか、なんか迷惑かけまくりだよな。
「七色座と立場として申し上げますと、瑠璃ちゃんが正式に七色座に入る以上、瑠璃ちゃんの性転換症についての情報が外部に流出するのは、我々としては非常に都合が悪いものです。我々七色座は先ほども申し上げました通り、個々のタレント性を売りにしている劇団でありますから、後々になって瑠璃ちゃんの過去が掘り返されるような事になると、我々にも多大な損失を被りかねません。その上で提案させてください」
「え、ええ……」
なんか難しい話になりそう……。
「まず、瑠璃ちゃんの引っ越し先ですが、我々七色座が責任を持ってこの近辺で住居を提供しますので、瑠璃ちゃんはそこで独り暮らしをして頂きたいと思います」
独り暮らし!?
「その際、ご両親には大変申し訳ありませんが、以後、瑠璃ちゃんとの接触はなるべく控えていただきたく思います。理由は先り通り……」
「瑠璃が男だったということが世間にバレれば困る、ということですね」
父さんが少し厳しい口調で言った。
「その通りです」
「あ、あの、そういう事情で独り暮らしをさせるのでしたら、るーちゃんはわたくしの家で預からせてくれません?」
「えっ、先生の家?」
りさちん先生の家ってどんなだろう?
もしかして、彼氏が一瞬で逃げたすような散らかりまくった汚部屋だったりして……。
「わたくしの家はここから歩いて5分ぐらいですし、流石にこんな小さな女の子の1人暮らしとなれば、お父様も心配でしょうから」
「妻木先生が良いのであれば、是非お願いしたいと思いますが、いいのでしょうか?」
父さんが先生に言った。
「ええ、むしろわたくしからお願いしましたので、是非!」
「ふむ、引っ越し先がこの辺りとなると中学はどこになるんでしょうかね……」
「あー薄ヶ丘中学ですね」
黒田は古い鞄から資料を取り出して調べようとすると、りさちん先生が即答した。
「なるほど、薄ヶ丘中学ですか。ありがとうございます。あとは宮川の進路だね」
高校か。
どこの高校に行くにしろ学力がちょっと、いや、かなり心許ないかも……。
入院中、家庭教師代わりに、りさちん先生に勉強見てもらったこともあるけど、なんかあんまり自信ないし、こんな時期に転校するとなると、内心がどうとか黒田が言ってたっけ?
「う、うん……。じゃあ高校はこの近くで通えそうなとこかな」
「ちょっといいかい? 瑠璃ちゃん」
進路を適当に決めようとした俺に、奈良屋さんはとある提案をしてきたのだった……。
■人物紹介■(2020年11月03日追記)
米山 ひかり
劇団七色座の庶務課所属。マネージャ。
初登場:1頁
身長:166cm 体重:55kg
誕生日:11月3日
劇団七色座の裏方全般を取り仕切るスーパーウーマン。
かつては女優を目指していたが、感情の起伏が表現できずに夢破れる。
しかし、芸能事務所マネーズに所属後、裏方として様々な業務に携わるうちに才能を開花させ、
やがて剣雪斗のマネージャを務めるが、当の剣雪斗が突如引退を表明すると、ほぼ同時期にマネーズを退社した。
現在は劇団七色座で庶務として働いているが……。




