46頁 化けの皮
派手に転んだことなど別に何とも無いと言わんばかりに、乱れた服を落ち着いて整える奈良屋さん。
だが奈良屋さんの顔は、まるで危険な薬品でもぶっかけられたかのように醜く崩れ、ゾンビのように皮膚が顔の半分ベロリと剥がれかけていた。
「きゃっ!」
奈良屋さんのおどろおどろしい顔面を直視したりさちん先生が、短い悲鳴を上げた。
しかし奈良屋さんは先生の悲鳴を気にすることなく、平然としたまま両指を立てて自分の顔をそっと触って確認すると、すぐに帽子を脱ぎ捨てそのまま慣れた手つきで白髪混じりのウィッグ(かつら)を慎重に外した。
するとウィッグの下からは派手な金髪が露わになった。
続けて奈良屋さんは剥がれかけていた顔の皮膚をベリリリッ! と一気に剥がした。
その様子はまるで、アニメに登場する有名な怪盗3世が、『アバヨ~!』とでも言いながら変装マスクを豪快に破り捨てるようだった。
「えっ、嘘!? なんで……!?」
マスクの下の素顔が見えた瞬間、思わず俺までおかしな声を出して驚いてしまった。
中年男のマスクの下の素顔が、子供の頃からテレビでよく見た馴染みのある男の顔だったからだ。
「痛っててて……。あーあ、寒さでほっぺたがビリビリする」
呑気に顔を撫でながらそう呟く男。
──剣 雪斗。
疑いようもない、どこからどう見ても本物にしか見えない元俳優、剣雪斗。
修学旅行1日目、新幹線の車内で平沢が読んでいたスポーツ紙の一面にテカデカと書かれていた『剣雪斗、俳優引退』の文字が脳裏にふわりと浮かんだ。
そういや中年男の奈良屋さんのときの声と剣雪斗の声は完全に同じだ。
どうして今まで気づかなかったんだろう……?
たとえ気づかなくても、この人、声が誰かに似てるよなぁとか、どうして思えなかったのだろう?
いや……そんな事よりも、スポーツ紙の一面を飾っていた剣雪斗の写真と、今、俺の目の前にいるの剣雪斗はまるで別人。
というか、露骨に若返っているし……
「というわけで、シンデレラを置いて逃げようとした王子は、魔法使いにかけてもらった秘密の魔法が切れてしまって、ついに正体がバレてしまいましたとさ……。なんてな」
落ち着いた声で、若返った剣雪斗が言った。
「えっ? えっ? ええーーっ!? 奈良屋さんが……剣さん!? え? 嘘っ!? テレビより若くない?」
りさちん先生が雌のような黄色い声を出してガチで驚いている。
「ちなみに奈良屋義春ってのは俺の本名。冴えない名前だろ?」
「い、いえいえいえっ! ……そんな事はないですよ、奈良屋さん!!」
なに急にヨイショしてんだよりさちん先生……。
食いつきすぎでしょ?
「ま、今はそんな事どうでもいいか」
「……」
この男最低だな。
せっかく先生が、今後の人生かけてフォローしたのに……。
米沢さんが鞄から使い捨ての濡れウェットティッシュを奈良屋さんに差し出すと、奈良屋さん……いや、剣雪斗か。彼はそれを受け取って、顔に付着した接着剤のカスのようなものをゴシゴシと拭き取った。
あ……。
そうだ!
思い出した、間違いない!!
なんか忘れてると思ったら、この人達全員、修学旅行の2日目の夜に見た!
あの時確か、若い少女を手籠めにしようとてた金満中年デブをすっごい脅迫していたよな!?
「あーあ。これもうダメだなぁ」
剣は乱暴に剥がした変装マスクを端を両手の指先でつまみながら、ちっとも残念そうには聞こえない口調でぼやいた。
「ま、いっか、まだスペアあるし。……あ、妻木先生さ、俺の正体は秘密にしといてよね」
「あ、え、ええ……」
「るりちゃんも」
「は、はい……」
さっきから魂が抜けたような感じのりさちん先生は、口を半開きにして放心状態だ。
キツネに化かされたみたいな顔しっぱなしだ。
「よし。ひかりさん、これあげる。俺からのクリスマスプレゼント」
剣はボロボロでベチャベチャな変装マスクを米沢さんに渡した。
クッソ汚いクリスマスプレゼントだな、おい……。
だけど米沢さんは顔色一つ変えず、無言でぐちゃぐちゃになった変装マスクを素手で受け取ると、それをビニール袋に入れてから丁寧に鞄に入れた。
「それからるりちゃんさ、俺と2人きりで話しをしない?」
ウェットテッシュで手を拭きながら剣は言った。
「え? お、わ……、私?」
なんなんだよ、この人。
てか、俺はるりじゃないんだけど……。
「うん、キミの事。色々聞きたいなって思ってさ」
「な、何をです?」
「それは色々。あー余計な心配しなくていいから。別に変なイタズラなんかしないって。ほら、あそこのベンチでなら、みんなからもハッキリ見えるし大丈夫だろ?」
剣は親指で公園広場の隅にあるベンチを指した。
「は、はい……」
「よし。じゃあ行こう」
剣はすぐにベンチに向かって歩き出した。
咄嗟に「はい」と返事してしまったけど、いったい何なんだ?
冴えない中年男に変装していた事を口止めするために、俺に脅迫か何か仕掛けてくるつもりなのだろうか……。
「おいで」
不安に思いながらも、俺は無言で剣の後をトボトボとついていく。ゆっくりと警戒しながら。
ふと後ろを振り返ると、りさちん先生と米沢さんがこっちを見ながらボソボソと会話をしていた。
俺の目の前を歩く男の正体が剣雪斗だった事には驚いていた先生だけど、俺が連れていかれる光景をまったく心配していないみたいだ。
体育会系の熊みたいな熊谷さんは、別の仕事なのだろうか、太い指でスマホを必死につついていた。
りさちん先生達のいる噴水から少し離れたベンチに着くと、剣はポケットから高級そうなハンカチを取り出し、それを躊躇なくベンチに敷いた。
「悪いねるりちゃん、こんなところで話なんてさ。時間があればちゃんとしたお店にでも連れて行ってあげたいところだけど、生憎俺忙しくてね……。とりあえず座ってよ」
「あ、はい。でもハンカチ汚れてしま……」
「あー、そんなのいいからいいから」
剣は俺の両肩をグッと掴むと、半ば強引に押さえつけるようにして、俺をハンカチの敷いてあるベンチの上へと座らせた。
「す、すみません……」
あの剣雪斗が俺のすぐ目の前に立っている……。
俺はベンチに座ったまま剣の顔を見上げると、剣と目線がガッチリ合ってしまった。
直後、緊張からか俺は生唾を飲みこんだ。
大人の男なんて父さんか祐馬の親父さん、あとは学校のクソ教師ぐらいしかまともに関わったことが無いけど、目の前にいる剣雪斗は今までに会った大人達とは何か全然違う気がした。
よく分かんないけど、レベルというか格というか……。
「よしよし、いい子だ」
オーラ、威圧感、眼力、声の張り、一つ一つの仕草。
そして雑誌やテレビで馴染みのあるこの姿。
確か剣雪斗といえば35~40歳ぐらいのおっさんだったはずだよな。
だけど目の前にいる剣雪斗はあまりにも若い。若すぎる。
正確な外見年齢なんて俺にはまだよく分かんないけど、剣の場合は20代前半の若手俳優って感じがする。
とにかく目の前にいる剣の顔は、メイクで年齢を誤魔化しているようにはまったく見えない。完全にすっぴんだ。
ていうか、接着剤を顔につけて変装マスクをしてたのに、マスクの下まで化粧で誤魔化すなんてのはさすがに無いよな。
そもそも、化粧を洗い落としたら逆に映える芸能人なんて聞いたことが無い。
にしても流石は元俳優。イケメンすぎるだろちくしょう!
……あれ? 待てよ?
素顔がこれってことは、もしかして今までは年取ったメイクしてたってこと?
え? え? 訳が分からない。
ということは整形? 剣雪斗が? 想像もつかないんだけど……。
ていうか、単純に芸能人って人種は劣化しないのものなのかな?
いやいやいや、芸能人って言っても劣化が早い人なんて一杯いるはずだし。
てことは、この人もいわゆる『吸血鬼』とあだ名されるタイプ?
ほら、何年経っても見た目が変わらない人ってたまにいるだろ?
「ん? 俺の顔、まだなんかついてる?」
「い、いえ……」
「そう? 良かった。顔に芋けんぴなんかか付いてたらどうしようかと思った」
そ、そうですか……って、なんだよその昔の少女漫画みたいな台詞。
こういう人相手にどう返せばいいんだよ……。
「まぁいいや。俺、るりちゃんに興味あるんだよな。色々とね」
「そ、それはどうも……」
「あー、いきなりこんな話しされたら嫌だよなぁ。これじゃナンパしてるみたいだよな」
「あ……嫌というか、よく分かりません」
「まぁ会って早々、中年のおっさんが突然2人きりで話したいなんて、そりゃ気持ち悪いし怪しいに決まってるもんな」
おいおいおい、そのチート級のピチピチイケメンフェイスでおっさんとか言うなよ……。
日本中のおっさんが鎌もって襲い掛かって来るぞ?
「あ、いえ、怪しくはないと思います……たぶん」
「そう? あーよかった。ここでるりちゃんにドン引きされたら、ただのロリコンみたいだしさ」
素質はあると思います。たぶん。
「でさ、るりちゃん。話したい事がいっぱいあるんだけどさ、そうだな、とりあえず最初に俺の芝居の感想が聞きたいかな」
「感想……ですか?」
「うん、そう」
芝居の感想といきなり言われてもな、うーん……。
流石は元俳優だけあって、迫力とか没入感とか、人物の演じ分けとかはもの凄かったけど……。
「えと、普通に凄かったです。なんていうか、さすがはプロって感じがしました」
「それはどうも」
当然だと言わんばかりの剣の言い方。
でも少し前までプロだった人に、プロってのは全然褒め言葉になってないのかな。
自分の語彙力の少なさが情けない。
「あ、それから……中年のおじさん姿だったのに、動きだけで年齢って変わるんだなって思いました」
「うん、実際に動きっていうのは思った以上に大切だからな。動き1つで舞台衣装が無くてもそのキャラクターの個性は十分出せるし、台詞が無いキャラクターでも内気だとか荒々しいだとかといった性格を表現することができる。よく気づいたね」
「あ、ありがとうございます」
なぜか褒められてしまった。でもなんか幼稚園児みたいな気分だ。
「でもあの演技じゃ、俺的には30点」
「え?」
「だって俺マスクしてたから、細かい表情までは演じられなかったんだよな」
あぁ、なるほど……。
「演じる上での表情ってのは下手な台詞よりも大切だからな。……それより瑠璃ちゃん」
「はい?」
「キミさ、途中でアドリブ入れて話変えただろ?」
「あ……」
「あれはどうしてかな?」
剣の顔がちょっと近い……。
ど、どうしてと言われましても、ねぇ? 出来心としか。
「つ、つい知りたくなったから……です。剣さんはどんな反応するのかなって」
「うん。いや、別にアドリブは全然入れてもいいんだ。けどな、アドリブ入れた後、るりちゃん、キミ棒立ちだったよな?」
「……」
あのときは、中年奈良屋さんの演技に完全に見惚れてたから、自分も役者だなんていう自覚がまるで無かったし……。
「俺としては劇に絡むなら絡むで、そこからもっともっと積極的に劇に参加して欲しかったワケ」
「すいません……」
「演劇ってのはさ、単に決まったセリフ言いながら決まった動作をするんじゃないんだ。そこには常に互いのやり取りがあって、コミュニケーションがあって、台本には何も書かれてはいないけど会話があるんだよ。キミがアドリブ入れてきたとき、俺はそこからのどういうやり取りできるかって実はとっても楽しみにしてたんだけど、るりちゃんずっと突っ立ったままで絡んでくれないから、結局俺の1人芝居になってしまったんだよなぁ」
「す、すみません」
「虚しいんだぜ? 1人芝居ってのはさ……。って、あー、悪い悪い。ついいつもの癖で語ったな俺。今日のるりちゃんはただのお客様なのにな」
「い、いえ」
そうだよ。なんで俺が怒られてるんだろう? って思った。
剣が言うように、今日の俺はただのお客様なのに。
いや、最初に何か演じるように仕向けたのは俺だけどさ。
それでも、剣雪斗という男は、たかが中学生でしかない俺の感想を正面から受け取って真剣に答えてくれる人なんだなぁとも思った。
「いや、すまん。芝居の話になるとすぐこれだ」
しかし俺の頭の中には、剣の言った『ただのお客様』という言葉が引っかかっていた。
なんていうか、すごく馬鹿にされた気がした。
「あーあ。歳とるってのはヤだよなぁ。過去の経験をいつまでも引きずって、そいつを良かれと思って他人に押しつけたくなる。こいつはなんなんだろうな?」
おっさんみたいな独り言を吐く剣。実際おっさんのはずなんだけど……。
世間一般のイメージである「イケメンさわやか好青年」の剣雪斗と、目の前にいる剣雪斗は、性格も言動はまるで違うけれど、「いつも真剣な努力家、ひたむきさ」といったイメージは、根っこの部分から同じなんだなと思えた。
「あと聞きたかったんだけど、るりちゃんはお芝居ってどこかでやったことある?」
「小学校の頃の学級発表会ぐらいかも?」
「それだけ?」
「はい」
「そっか……。それだけか。俺の思い過ごしかな、るりちゃん俺と芝居してるときに意外と堂々としてる子だなって感じたからさ。経験者かと思ったんだよな。演劇独特の空気に全然飲まれてないし、慣れてる感じがしたんだけど」
えっ? なにそれ?
ずっと忙しなく1人演じ続けていたはずなのに、俺の様子もしっかり見てたって事?
てかすいません、わけも分からず思いっきり飲まれてましたよ、演劇の空気とやらに。
「あ……でも、さっきも少し言いましたけど、小学生の頃によく駅前に通って路上パフォーマンスをしている人達に混じって色々やってたからかも……です。楽器触らせてもらったり、ダンス教えてもらって一緒に踊ったりしてたから。でも中学になって広場が市に規制されてからは出来なくなっちゃいましたけど」
「あーなるほどな、だから度胸満点って感じがしたのか」
度胸というか、俺的には本当棒みたいに立ってる感じだったんだけど……。
でも正直、ただ突っ立ってるだけで度胸があるとか分かるなんて、ちょっと信じられないな。
ていうか、剣はあの芝居を通して俺の昔の経験をはっきりと見破ったって事?
そういうのって、見るだけで手に取るように分かるものなのか?
よく分かんないけど、なんかひよこ鑑定士みたいだ。
「じゃあ、芝居そのものについて興味はどれぐらいある?」
「あまり……というか全然分かりません。意識したことすらなかったです。あ、でも、芝居じゃないですけど、アルグロみたいにステージに立って歌で観客を魅了したいなって思ったことはよくあります」
「アルグロ?」
「あ、バンド名です『アルティメット・グロウ』って言うんです」
「なるほど、るりちゃんは音楽に興味があるのか」
「は、はい。いつかアルグロみたいになれたらいいなって……」
「あー、それ駄目だから」
「えっ?」
剣のその一言だけは、とても冷たい感じがした。
ニヒルで上から目線の口調の中に、少し侮蔑的な感情が混じっていた気がした。
「るりはるりにならなきゃ」
後に続く剣のその一言に、思わず俺はハッとした。
そう。
俺は、かつて自分が漠然と追いかけていた『憧れの存在』にはなれない。
俺はアルグロのようにはなれない。
女になってしまったから……。
いや、違う。
女になってしまったからとか、そんなの全然関係ない。
だって、アルグロはあの4人以外にはいないから。
アルグロは唯一無二の存在だから。
たとえ俺が男のままでも、アルグロみたいにはなれても、アルグロそのものにはなれない。
もし、誰かがアルグロの影響を受けてメジャーデビューして人気になったとしても、それは決してアルグロなんかじゃない。
俺の頭の中の理想のロックバンドとは、きっと何か違うはずだ。
その後発のバンドがアルグロを超えられなければ、それはただの偽物、猿真似でしかない。
メジャーデビューだろうがゴリ押だろうが関係ない。
コピーバンド、二匹目のドジョウ狙い、パクリ、盗人、モノマネ名人。汚らわしい拝金バンド、アルグロ人気に便乗した卑怯者。
俺はそういう楽して儲けようとする二番煎じの亡者共が何よりも大嫌いだ。
そういう連中が、アルグロの楽曲を何も分っていない他人が、間抜けな顔して得意げに歌う動画やネットの生中継を見る度に、俺はいつもイライラしていた。
下手くそなんだよ! 耳が穢れる。
違うんだって。その楽曲の歌い方。
あーこいつは全然わかってない。やっぱり解ってるのは俺だけ。
歌詞に籠った熱い想いを、イメージを汲み取れよ!?
見えてないのかよ?
文字と文字の間に隠された真のメッセージがあるだろ?
俺なら……アルグロ以外には俺だけが、
アルグロを知っている俺だからこそ歌えるんだって!
ネットの世界の向こう側で、本名も住所も分からないド素人が、アルグロの影響を受けたと思えるクソみたいなコスチューム姿でアザラシみたいに歌う姿を見て、俺はいつも言いようのない怒りを画面にぶちまけていたのを思い出す。
でも、画面の向こうで下手糞な歌う素人の姿と俺が同じような存在だと気づいたのはいつだったか?
純粋で真っ直ぐな俺の想い。それがただの中学生の独りよがりの思い込みでしかないと自覚したのはいつだろうか?
歌詞の間に隠された真のメッセージなんてものは実は存在してなくて、俺が脳内で勝手に作り上げていた中二設定でしかなかったり、昔歌う自分に酔って勢いで録音をした曲を久しぶりに聞いてしまって地面をのた打ち回って絶望したり、棒読みの合成音声キャラにすら劣る無個性な自分に気づいたときには、もう死にたくなって真夜中に家を飛び出して何故か木によじ登ってたりしたっけ。
それでもなんとなく、俺は今日まで日常をやり過ごしてきた。
夢を曖昧にして、誤魔化して、ぼやけさせて、曇らせて、中二拗らせて、ロックシンガーなんて俺なんかじゃ到底届かない存在だからと大人になった気分で自嘲したりして。
「『みたいに』、じゃ駄目だからな」
つい考え込んでしまった俺に念押しするかのように、剣は静かに言った。
「るりに……なる?」
「そう。キミの夢が何であれ、他の誰にも負けない、真似できない、世界でたった一人だけの、るりにならなきゃ」
「………」
「理想を持つことは素敵なことだよ。最初は誰もが憧れと模倣から始まる。でも最後の仕上げは自分で作り上げないといけない。自分の足で歩かなきゃ届かない。答えは常に自分の中にある」
──答えは常に自分の中にある。
そうだった。
あやふやにした夢も、背を向け続けた理想も、逃げようが誤魔化そうが、常に俺の中にある。
「そう……ですよね。自分で……決めないと」
「うん。だから俺もこの歳になってようやく、俺自身の人生を追い求める事にした。高圧的で偉そうでバカ騒ぎが大好きな『奈良屋義春』をさ」
あ……。一応、高圧的で偉そうっていう自覚はあるんだ。
「俺が俳優を止めた理由はさ、マスコミが騒ぎ立てるような金や女といったようなデタラメで安っぽいスキャンダルなんかじゃなくてさ、デビュー以来二十数年もの間、所属事務所の方針で創られた優等生の『剣雪斗』像をずっと演じ続けてきた事を終わらせるため」
ずっと演じてきた……?
「俺にとって剣雪斗は別人だ。剣雪斗への称賛も非難も、すべては俺に関係のない架空の出来事でしかない。俺が剣雪斗を演じ、その剣雪斗が俳優として誰かを演じる。剣雪斗が成功しても、そこには奈良屋義春はどこにも居ない。だから俺は剣雪斗を演じるのを止める事にした。ただそれだけの事なんだよな」
剣雪斗の人生というものがどういうものだったのかは、俺には到底想像すら出来ないけど、もしかしたらこの人は今、本当の自分、俺で言うところの男だった頃の『宮川瑠伊』を追い求めてるって事なんだろうか……?
「まぁ俺の話はいいんだ。それより本題。さっきも言ったけどさ、真面目な話、俺、るりちゃんに興味あるんだよな」
「え? あ、はい……」
な、なんだよ急に……。
真剣に見つめられて言われただけなのに、急にドキドキしてきた。
女子が男子から告白される前って、たぶん、こ、こんな感じなのか?
「はっきり言うとだな、退院したら俺の劇団に入って欲しい」
「えっ!?」
もしかしたらと思っていたけど、まさか本当に言われるとは思わなかった。
でも、もしもこのベンチにやって来て最初の言葉が今の台詞だったら、俺は即「お断りします」と答えていただろうな。
剣雪斗と言えば、俺的にはテレビのイメージよりも修学旅行二日目の夜の、あの嫌味ったらしい男のイメージしかなかったから……。
だけど今は、「ごめんなさい、お断りします」の言葉が出てこない……。
この、どこかミステリアスな人がこれからいったい何をしようとするのか、単純に興味があったから。
「か、買いかぶりすぎですっ! つ、剣さんなら一声かけるだけで全国から可愛い女子が100万人は応募してきますよ!?」
「それこそ買いかぶりすぎだ。だけど俺がオーディションするとしたら、それはるりちゃんが俺の誘いを断った後だ」
「ま、まさか」
「嘘でも脅しでもないし、るりちゃんを引き入れるためのブラフでもない。元々若手のオーディションはするつもりだったから、嫌なら普通に断ってくれていい。断ったからと言ってキミが変な責任を感じる必要もない」
この人の言っている事、たぶん本気だ。
ブラフなんかじゃない。
剣は俺をじっと見つめ続けている。
恐ろしいほどの眼力。堂々とした眼差し。嘘をつく必要がない絶対の自信をもつ人の目。
視線は俺に向かって一直線、ブレる事は決してない。
ここで俺がこの話を断ったら、剣はすぐさま他の『誰か』を探し始めるのだろう。
なんか、たぶん、そんな感じがする。
「で、でも俺、身長低いですよ?」
「うん、女優には不向きだろうね。舞台でもキャスティングするには少々扱いにくい身長だし、その上るりちゃんは小顔だ。舞台向きじゃない。……ないが、それは俺には関係ない。長所と短所は常に紙一重って言うだろ? 適材適所ってやつだ。だから、るりちゃんにしか出来ない役だと胸を張って言える舞台に堂々と出してみたい」
「あ、あの、質問があります」
「何か?」
「仮に劇団に入ったら、お……、私はどうなるんですか? その、生活とか……」
「るりちゃん、中3だっけ?」
「はい、そうです」
「ということは4月から高校生か。俺の劇団に入るってことは、当然本気で舞台俳優目指すって事だから、まずプライベートは犠牲にしてもらうし、当然稽古でも地獄を見てもらう事になる」
「プライベートを犠牲に……ですか?」
「うん。学校を休んでまで稽古に励めとまで言わないが、それ以外の時間を全て演劇に捧げてもらう事になるだろうね」
「全てを……」
「そう全て。俺から誘っておいて何だけどな、それができないヤツは消える」
消える……。
「で、でも、素人ですよ? 私」
「問題ない。俺言ったよな、最初は模倣から始まるって。るりはるりにならなきゃって。技術は徹底的に叩き込むけど最後はるりちゃん次第。見込みがなければ本番には絶対出さないし演技1つさせない。通行人Aすら許さない」
「それって飼い殺しじゃ……」
「そう、だから俺に誘われたからといって思い上がるなよ? 劇団に入る事はゴールじゃない。スタートラインにすら立ってない」
思い上がってはないつもりだけど……。
「この先、主演女優か、飼い殺しなって消えるかはるりちゃんの努力次第。言っておくがこの世界、脇役ですら甘くないからな?」
「あ、あの、父さんと母さんに相談してからじゃないと……」
「ああ、ご両親とよく相談して考えるといい。とりあえず名刺を渡しておくよ」
剣は名刺入れを取り出すと、そこから名刺を2枚取り出して俺に手渡した。
剣雪斗と奈良屋義春の名刺が1枚ずつ。
俺はその名刺が折れない様に気を付けつつも、ぎゅっと握りしめた。




