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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第58話: 二つの鍬

 朝。畑へ向かった。


 エルマーの畑はフィールデンの東側にある。村の中心から歩いて十分ほど。緩やかな傾斜地。南向き。日当たりが良い。


 歩きながら気づいた。——何度もフィールデンに帰ってきたのに、エルマーの畑を二人で訪れたことがなかった。石窯の前で話すことはあった。食材の受け渡しはした。だが畑の中に足を踏み入れたことは——一度もない。


「ここだ」


 エルマーが畑の入り口で立ち止まった。




 畑が広がっている。


 黄金麦の区画。蕪の区画。豆の区画。ハーブの区画。——整然と分けられている。畝が真っ直ぐ走り、排水の溝が等間隔で掘られている。


 だが一区画だけ——空いている。


 畑の中央に近い場所。日当たりの最も良い場所。雑草が生えているが、畝の形が残っている。最近まで何かが植えられていたのではない。畝が「維持」されていた。何も植えずに。


「この区画は——」


「空けてある」


 エルマーの声が短い。


「……何のために?」


「あんたの実験畑だ」


 足が止まった。


「——いつから」


「最初からだ」


 最初から。あの日「実験場じゃない」と怒鳴った翌日に区切った区画。あの時から——ずっと。


「あんたのために畝を残していた。——ずっと」


 「ずっと」に力がこもった。王都に行っている間も。食材紀行で各地を回っている間も。微生物が蘇った後も。——帰ってくると信じて。


 胸が——熱くなった。


 泣かない。涙が浮かびかけたが、笑った。笑って、頷いた。


「ありがとうございます。——耕しましょう。一緒に」




 エルマーが鍬を持ってきた。二本。


 一本は使い込まれた鍬。柄が手の形に削れている。エルマーの鍬。何年もの畑仕事で磨かれた道具。


 もう一本は——新しい鍬。だが新品ではない。柄は新しいが、刃は古い。


「親父の鍬だ。刃だけ残っていた。柄を付け直した」


「お父様の……」


「あんたに使ってほしい。親父も——土を愛した人間だった」


 受け取った。想像より重い。ずしりとした鉄の重み。だが手に馴染む。刃の角度が絶妙で、土に入りやすい形をしている。何十年もの使用で刃が研ぎ澄まされている。


「いい鍬です」


「ああ」




 耕し始めた。


 二つの鍬が並んで土に入る。リズムが合う。——不思議なくらい合う。


 エルマーが先に深く掘る。硬い土を砕く。アネリーゼがその後から種床を整える。土の塊を崩し、石を取り除き、平らにならす。


 言葉は——ない。必要がない。


 鍬を振り下ろす。土を返す。また振り下ろす。リズムだけがある。二人のリズム。


 料理の連携に似ている。窯の前でパンを焼く時のあの呼吸。エルマーが薪を足し、アネリーゼが窯の温度を見る。言葉なしで回る。——畑でも同じだった。




 コンパニオンプランティングという栽培法がある。


 異なる植物を隣り合わせに植え、互いの成長を助け合わせる手法。トマトとバジルを並べると、バジルの香りがトマトの害虫を遠ざけ、トマトがバジルに日陰を提供する。豆科植物は根に共生する窒素固定菌の力で土壌に窒素を供給し、隣のトウモロコシに養分を渡す。トウモロコシは背の高い茎で豆の蔓が登る支柱になる。


 単一の作物だけを植えた畑は病害虫に弱い。多様な植物が共生する畑は、全体として強くなる。


 エルマーの畑を見ると——コンパニオンプランティングが実践されている。黄金麦の隣に豆。豆の隣にハーブ。互いが互いを助ける配置。


「エルマーさん。この配置は——」


「親父が始めた。黄金麦と豆は相性がいい。豆の根が窒素を土に入れる。黄金麦が風除けになる」


「お父様は……微生物の働きを知っていたのですか」


「理屈は知らなかった。ただ『一緒に植えると育ちがいい』と。——経験だ」


 三百年間の魔法農業は単一作物の大量生産だった。魔力で強制的に成長させるから、コンパニオンプランティングは不要だった。だがエルマーの畑では——魔法以前の知恵が生きていた。


「植物の共生。微生物の共生。そして——」


「何だ」


「いえ。——いい畑です」


 そして人の共生。言わなかった。だが思った。




「師匠! 手伝うっす!」


 ルッツが走ってきた。記録帳を片手に。


 だが——畑に近づいて、足が止まった。二つの鍬が並んでリズムを刻んでいる。朝日の中で。土の匂いの中で。二人の影が長く伸びている。


「……やっぱ俺、石窯の準備してきますっす。薪が足りないかもしれないし」


 踵を返した。——記録帳にだけ、何か書き込んでいた。


 マルガレーテも畑の入り口に来ていた。姉と農民の男が並んで鍬を振るのを見た。微笑んだ。何も言わずに引き返した。


 リーナだけが大声で叫んだ。「エルマーさん! お姉さんと一緒に畑やってるー!」。ルッツが慌てて口を塞いだ。「空気読めっす!」「何で?」




 太陽が高くなった。


 汗をぬぐった。額に土がついた。手にも土がついている。爪の間に入り込んだ黒い土。——エルマーの手を見た。同じように土まみれだ。


 二人の手が似てきている。


 追放の朝、アネリーゼの手は白かった。伯爵令嬢の手。四年間で変わった。窯の火で荒れ、パン生地で強くなり、漬物の塩で硬くなった。今は——鍬で土を耕す手になっている。


「休憩にしよう」


 エルマーが鍬を土に突き刺した。柄に手ぬぐいをかけて、腰を下ろした。畝の端に。


 並んで座った。水を飲んだ。


 風が吹いた。黄金麦が波打つ。穂が金色に光る。朝の光が斜めに差して、畑全体が——きらめいている。


「エルマーさん」


「何だ」


「この畑が好きです」


「……ああ」


「あなたの畑が。この土が。この風が」


 エルマーが鼻の頭を擦った。——照れている。


「土は嘘をつかない。手をかけた分だけ返してくる」


「人も——そうだと思います」


 エルマーがこちらを見た。琥珀色の目。じっと。


「……お前も、嘘をつかないな」


「料理人ですから。舌は——嘘を見抜きます」


 少しだけ笑い合った。畑の真ん中で。土の上で。




 午後。実験区画に種を蒔いた。


 旅で集めた各地の種。砂漠の耐乾燥性ハーブ。火山の温泉地で見つけた耐熱性の薬草。港町の海藻を堆肥にした土に合う野菜。——各地の土地で育った種を、フィールデンの土に蒔く。


「根づくかは——わからない」


「試すしかない。ここの土が合うかどうか。微生物が違うから、同じようには育たないだろう」


「でも、何かは——育つ」


「ああ。土が生きている限りは」


 種に土をかぶせた。水をやった。エルマーが手際よく排水路を整えた。


 何も芽は出ていない。土の下に種があるだけ。だが——三日後、一週間後、一ヶ月後。何かが芽を出す。微生物と土と水と太陽が、種を育てる。


 発酵と同じだ。目に見えない仕事。時間が——味方をする。




 夕方。畑を出た。


 鍬を二本並べて、納屋の壁に立てかけた。エルマーの鍬と、エルマーの父の鍬。並んでいる。


「明日から仕込みを始めます」


「大饗宴か」


「はい。旅の仲間たちを呼びます。砂漠の民のファーリスさん。港町のトビアスさん。——ガストンさんにも」


「山賊も呼ぶのか」


「元山賊です」


 エルマーが鼻の頭を擦った。「お前は——変わった奴だな」。褒めているのか呆れているのか、わからない。多分、両方だ。


「大饗宴の料理を——三日で仕込みます。三日発酵のパン。漬物。燻製。チーズ。果実酒のサバイヨン。全て——旅で学んだ技法で」


「手伝う」


「お願いします」




 招待状を書いた。


 ルッツの字で。——ルッツの字は意外と読みやすい。記録帳で鍛えられている。


「ファーリスさん宛て。トビアスさん宛て。ガストンさん宛て。——マティアスさんは」


「マティアスには俺が書く」


 エルマーが筆を取った。——エルマーが自発的にマティアスに手紙を書く。先日の署名の時は字が苦手だったのに。


「何て書くんすか」


「来い。——以上」


「短いっす」


「あいつには十分だ」


 マルガレーテが笑った。「私も一通書いていいですか。王都の知人に」


「もちろん」


 マルガレーテが書いた宛先は——父の屋敷の使用人の名前だった。「直接は書けないけれど。伝わるかもしれないから」




 夜。石窯の前で。


 パン生地を仕込んだ。三日発酵。大饗宴の主菜になるサワードウパン。黄金麦の粉。各地で起こした酵母のブレンド。フィールデンの水。翡翠の塩。


 生地をこねる手。四年間で培った手の感覚。粉と水と塩と酵母が混ざり合い、生地が弾力を持ち始める。


「いい生地っす」


 ルッツが横から覗いている。


「ルッツ。あなたも一つ仕込みなさい」


「え、俺が?」


「弟子でしょう。自分のパンを焼いてください。大饗宴の食卓に並べます」


 ルッツの目が輝いた。——記録帳をポケットに突っ込んで、袖を捲った。


「了解っす! 師匠!」


 二人で生地をこねた。マルガレーテが魔法で水の温度を調整した。三十二度。酵母が最も活発に働く温度。


 三日後の朝——パンが焼ける。旅の仲間たちが集まる。そしてフィールデンの食卓に、世界中の味が並ぶ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「二つの鍬」。


エルマーの畑を訪れるのは、物語を通じて初めてです。何度もフィールデンに帰っているのに、畑の中に入ったことがなかった。それは——料理人と農民の距離でもあった。


空けてある区画。「あんたのために畝を残していた。——ずっと」。旅に出ている間も、畝を維持し続けた男。雑草は抜いて、畝の形は保って。いつ帰ってきてもいいように。——この男は言葉が少ない代わりに、行動で全てを語る。


二つの鍬が並ぶリズム。言葉がなくても合う呼吸。コンパニオンプランティングのように、異なる存在が隣り合うことで互いを助ける。——この物語の恋愛は、告白も抱擁もなく、鍬のリズムで語られます。


そして三日後に大饗宴。全ての味が一つの食卓に集まります。


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