第57話: 野花の道
道は長い。
王都からフィールデンまで、馬車で二日。最初の旅では歩きで七日かかった。今は馬がいる。——グスタフが手配してくれた馬。丈夫で穏やかな牝馬。
エルマーが手綱を握っている。揺れに合わせて手綱を緩めたり引いたりする。馬に慣れている。農民だ。荷馬車は扱い慣れている。
荷台にはアネリーゼとルッツとマルガレーテ。そして荷物。調理器具。蓄熱石。種菌の壺。スターター——各地で集めた発酵の種。王都で起こした新しい酵母。
全てを持って帰る。
二日目の午後。街道の風景が変わり始めた。
王都近郊の魔法農場が途切れ、在来の畑が増えてくる。魔法の影響が弱い辺境の土地。出力制限前から——ここでは微生物が生きていた。
道端に花が咲いている。
黄色い小さな花。白い花。紫の花。——野花。誰が植えたわけでもない。土と水と太陽と微生物が作り上げた花。
マルガレーテが窓——馬車に窓はないので、幌の隙間から手を伸ばした。
「お姉様。この花——」
「触ってみなさい」
マルガレーテが馬車を止めてもらい、道端にしゃがんだ。小さな黄色い花に指を近づけた。
「……柔らかい」
「摘まないで。根ごと見てください」
マルガレーテが土をそっと掘った。指先で。——魔法使いの白い指が土に触れた。
「根の周りに——何かが。白いもの」
「菌糸です。菌根菌。植物の根と共生している微生物」
「共生?」
「植物は微生物に糖分を供給します。微生物は土の中のリンや窒素を植物が吸いやすい形に変えます。——どちらも相手がいなければ生きられない」
マルガレーテが根を見つめている。白い菌糸が細い根を包んでいる。
「これが……見えない命」
「はい。お母様が言っていたでしょう。『見えない命が、薬草を変えるのよ』」
マルガレーテの目が見開かれた。
「お母様も——知っていたの?」
「お母様は薬草師でした。薬草の効能が土地によって変わることを知っていた。——微生物が違うからです」
馬車を再び走らせた。
マルガレーテの指先に土がついている。白い指に茶色い土。——拭かないでいる。
「お姉様」
「何ですか」
「お母様のこと——もっと教えてください。追放されてから、お母様のことを話す人が誰もいなかった」
心臓が——少し痛んだ。
父は母の話をしない。使用人も。マルガレーテだけが——母の記憶を共有できる人間だったのに、四年間離れていた。
「お母様は——平民の出身でした。薬草師の家に生まれて、伯爵家に嫁いだ」
「それは知っています」
「お母様の舌は鋭かった。どんな薬草でも、一口噛めば成分がわかったそうです。——私の舌は、お母様からの贈り物」
「私は——お母様の舌をもらえなかった」
「代わりに、魔法をもらったでしょう」
「魔法は……父様からです」
「ええ。お母様の舌と、お父様の魔法。姉妹で分け合ったのですよ」
マルガレーテが少しだけ笑った。——母の話ができる。姉妹で。四年ぶりに。
夕方。野営の準備をした。
エルマーが火を起こした。ルッツが薪を集めた。アネリーゼがパン生地を出した。旅の前に仕込んだ発酵生地。三日発酵。今が焼き頃。
マルガレーテが火のそばに座っている。
「私にも——何か手伝えることはありますか」
「火の管理をお願いします。魔法で温度を一定にできますか?」
「はい。——何度がいいですか」
「石窯の中を二百度で。均一に」
マルガレーテの指先に青白い光が灯った。石を温める。蓄熱石とは違う——直接の魔法。だが出力制限後の世界では、微弱な魔力でも機能する。
「魔法と発酵が——同じ窯の中で」
「ええ。これが融合です」
パンが焼けた。マルガレーテの魔法で均一に温められた窯で。アネリーゼの酵母が膨らませた生地で。
一口。——美味しい。温度が安定しているから、焼きムラがない。魔法の精密さと酵母の深みが合わさっている。
「マルガレーテ。あなたの魔法で——フィールデンの食が変わるかもしれません」
「私の魔法で?」
「はい。辺境には魔法使いがいない。あなたがいれば——融合料理の拠点になれます」
マルガレーテの目が——輝いた。
「お姉様の役に立てる?」
「役に立つなんてものじゃありません。不可欠です」
夜。星空の下。
エルマーが火の番をしている。ルッツは記録帳を抱えて寝ている。マルガレーテも毛布にくるまっている。
アネリーゼは眠れない。——興奮しているわけではない。静かな覚醒。
星を見上げた。
母の声が聞こえる気がした。遠くから。
「お母様」
声に出した。——癖になっている。母に語りかけること。
「私は——大丈夫です」
大丈夫。追放の朝から、この言葉を何度口にしただろう。だが今夜の「大丈夫」は——今までで一番、本当の「大丈夫」だ。
微生物は蘇った。融合宣言は出された。妹が来た。父への手紙を書いた。——やるべきことは、やった。
残っているのは——帰ること。フィールデンに。石窯の前に。
そして——種を蒔くこと。
三日目の午後。
丘を越えた。
視界が開けた。——眼下に、フィールデンの村が広がっている。
黄金麦の畑が風に揺れている。午後の太陽を浴びて、穂が金色に光っている。エルマーの在来種。魔法改良されていない、三百年前から続く品種。
石窯の煙突が見える。アネリーゼが建てた窯。
小さな家々。畑の間を縫う小道。水車小屋。牧場。——何も変わっていない。だが全てが、少しだけ違って見える。
「帰ってきた……」
呟いた。
丘の上に——人影が二つ。
手を振っている。
白い髭の老人と、小さな少女。ハンスとリーナ。先に帰っていた二人。
「お姉さーん!」
リーナの声が風に乗って聞こえる。
「お帰りなさーい!」
——お帰り。
その言葉が胸に染みた。かつて微生物に向けた言葉。「お帰りなさい」。今度は——自分に向けられている。
「ただいま——」
声がかすれた。
馬車が丘を下りた。
リーナが走ってきた。馬車に飛び乗ろうとして失敗した。「いたっ!」。ルッツが引っ張り上げた。
「お姉さん! 薪、集めときましたよ! たくさん!」
「ありがとう、リーナさん」
「大饗宴するんでしょ!?」
「します。——でも少し準備が要ります」
「何日?」
「三日。——仕込みに三日」
「待てます! 待てます!」
ハンスが丘の上でゆっくりと下りてくる。杖をついて。白い髭が風に揺れている。
「お帰り、アネリーゼ」
「ただいま、ハンスさん」
村に入った。
村人たちが出てきた。畑から。家から。水車小屋から。——アネリーゼの帰還は、この村では事件だ。王都に行って、宮廷に進言して、大魔法炉の出力を下げた女。
「おかえり、アネリーゼ!」
「土が温かくなったぞ! お前がやったのか!」
「パン、焼いてくれ! あの酸っぱいやつ!」
声が飛んでくる。手を振る。笑顔がある。
——ここが、帰る場所だ。
石窯の前に立った。
煙突。レンガ。鉄の扉。——追放の朝にエルマーと二人で建てた窯。何百回もパンを焼いた窯。
手で表面に触れた。冷たい。火が入っていない。留守の間、誰も焼いていなかったのだ。
「火を入れましょう」
振り返った。エルマーが薪を持っている。ルッツが種木を持っている。マルガレーテが——指先に小さな炎を灯している。
「みんなで。——火を入れましょう」
窯に火が入った。
煙突から煙が上がった。——フィールデンの空に、久しぶりのパンの煙。
マルガレーテが窯の温度を魔法で安定させた。エルマーが黄金麦の粉を出した。ルッツが酵母の壺を開けた。アネリーゼが生地をこね始めた。
明日の朝——パンが焼ける。三日発酵のサワードウ。帰ってきて最初のパン。
「エルマーさん」
「何だ」
「畑を見せてください。明日。あなたの畑を」
エルマーが——少し、驚いた顔をした。それから、鼻の頭を擦った。
「……ああ」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
帰り道です。
EP001では一人で馬車に乗っていた。追放されて、何もかも失って。今は——手綱を握る人がいる。弟子がいる。妹がいる。荷物には種菌と蓄熱石が詰まっている。
マルガレーテが初めて野花の根を見るシーン。白い指で土を掘り、菌糸を見つける。魔法使いの妹が微生物と出会う瞬間。——この姉妹は、母の遺産を二つに分けて持っている。舌と魔法。合わせれば、融合料理の最高の組み合わせになる。
そして「畑を見せてください」。フィールデンに何度も帰っているのに、エルマーの畑を二人で見たことはなかった。明日——二人で。
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