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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第49話: 決断の夜

 明日、世界が変わる。


 出力制限の実行が明日に決まった。大魔法炉の出力を100から55に段階的に下げる。三百年前の設計者が残した計算式に従って。


 戻れない。下げた出力を再び上げることは——技術的には可能だが、政治的には難しい。一度微生物が蘇り始めれば、再び殺すことへの反対が起きる。明日の選択は——不可逆に近い。


 夕方の炊き出しを終えた。広場は静かだ。市民はもう慣れた。発酵パンと融合パンの列に並び、漬物をもらい、海藻出汁の粥を飲む。それが当たり前になりつつある。


 ——当たり前になることが、一番大きな変化だ。




 王宮の庭に出た。


 夜の庭は暗い。魔法の灯りが弱まっている——出力制限の前から、大魔法炉は不安定だ。だが星が見える。王都の空に、星が。


 母の声が聞こえる気がした。


「あなたの舌は宝物よ」


 十二歳の夏。病床の母。枕元に座って手を握っていた。母の手は細くて冷たかった。


「あなたには——わかるでしょう。味の中にある、小さな命の声が」


 あの時はわからなかった。小さな命の声。——今はわかる。酵母が炭酸ガスを出す音。乳酸菌が酸味を生み出す振動。カビがチーズの中で脂肪をアミノ酸に変える、静かな仕事。


 母が教えてくれた最初の発酵食品は——漬物だった。蕪の糠漬け。「三日待ちなさい。三日後に味を見なさい」。三日後に食べた蕪は、漬ける前とは別のものになっていた。酸味があった。深みがあった。蕪のまま——蕪を超えていた。


「お母さん」


 声に出した。誰もいない庭で。


「ここまで来ました」




「緊張しているか、アネリーゼ」


 マティアスの声。庭の木の下に立っている。灰青色の目が闇の中で光っている。


「……少し」


「俺もだ」


 マティアスが隣に来た。だが座らない。立ったまま、空を見ている。


「明日——うまくいくと思うか」


「わかりません。設計者の計算式が正しければ——」


「計算式は正しい。俺が検算した。問題は——理論と現実の差だ」


 沈黙。


「アネリーゼ」


「はい」


「明日、最高のパンを焼こう。俺は融合パンを。お前は発酵パンを。出力が下がった後の世界で——最初のパンを焼くのは、俺たちだ」


「……はい」


「俺は先に寝る。明日は早い」


 マティアスが踵を返した。去り際に——。


「お前の隣にいるのは——俺じゃない」


 聞き取れないほど小さな声だった。だが聞こえた。マティアスは振り返らなかった。




 一人になった。


 庭の石のベンチに座った。冷たい。夜風が吹いている。


 追放の朝を思い出した。


 あの朝も、庭にいた。ヴァイスガルテン家の庭。父の声が廊下から聞こえてきた。「料理は伯爵家の仕事ではない」。扉が閉まった。荷物をまとめた。馬車に乗った。——フィールデンへ。


 あの朝から——どれだけの日が過ぎただろう。


 石窯を建てた。酵母を起こした。パンを焼いた。チーズを作った。砂漠を歩いた。火山で菌を見つけた。海で海藻を採った。星空の下で肩が触れた。王都に戻った。炊き出しをした。設計図を見つけた。宮廷で進言した。


 全部——ここに繋がっている。明日に。




 足音が聞こえた。


 振り返らなくても——わかった。靴音ではない。作業靴が草を踏む音。


 エルマーが隣に座った。何も言わない。


 いつもの沈黙。だが今夜の沈黙は——今までと違う。重い。重いけれど、苦しくない。二人で同じ重さを抱えている。


「眠れないか」


「……はい」


「俺も」


 沈黙。


「明日——」


「ああ」


「うまくいくと、思いますか」


「わからねえ。——でもあんたが作ったパンは美味かった。それだけは本当だ」


 理論でも数式でもなく。パンが美味かったから。——それが、この男の全てだ。




 時間が過ぎた。


 星が動いている。夜が深くなっている。庭の花が夜露に濡れて、微かに光っている。


 手が冷たい。夜風で。指先が——冷えている。


 隣のエルマーの手が見えた。膝の上に置かれている。大きな手。節くれだった指。土の色が染みた爪。——今日、宮廷の大理石の廊下に泥の跡を残した手。


 あの手が。父の代わりに言葉を発した時——震えていた。


 アネリーゼの手が動いた。


 自分の意志で。——考えたのではない。手が、動いた。


 エルマーの手の上に、自分の手を重ねた。




 エルマーの手が——固まった。


 石のように。呼吸が止まったのがわかった。心臓の鼓動が——手のひら越しに伝わっている。速い。


 指が——絡んだ。


 エルマーの指が動いた。アネリーゼの指の間に。節くれだった指が、細い指と交互に組み合わさった。


 手を繋いだ。


 ——温かい。


 エルマーの手は温かかった。土を触る手。種を蒔く手。火を起こす手。パンを焼く手。蕪を切る手。荷物を運ぶ手。今日、国王の前で震えていた手。


 その手が——今、自分の手を包んでいる。


「明日——」


 アネリーゼが言いかけた。声がかすれた。


「ああ」


 エルマーの声も掠れている。


「明日——世界が変わります」


「ああ」


「怖いです」


「……ああ」


「でも——」


「手、離さねえよ」


 短い言葉。——エルマーの言葉はいつも短い。「不味くはない」。「見てらんなかった」。「言わなきゃいけないと思った」。そして——「手、離さねえよ」。


 泣きたくなった。泣かなかった。手を握り返した。強く。エルマーの手が握り返してきた。——もっと強く。




 どれくらいそうしていたか。


 星が移動した。夜風が止んだ。庭が静寂に包まれた。


 手は繋いだまま。


 何も言わなかった。言葉は要らなかった。今までの全ての言葉——「不味くはない」から「手、離さねえよ」まで——全てがここに辿り着くためにあった。


 指が触れた日がある。袖を掴んで離した夜がある。肩が触れて離れなかった夜がある。——そして今夜、手を繋いだ。


 名前をつけなくてもいい。まだ。——でも、もうわかっている。二人とも。


「寝るか」


「……もう少し」


「……ああ」


 もう少し。もう少しだけ。この手の温かさを。




 夜が白み始めた頃——立ち上がった。


 手が離れた。——離れた場所が、冷たかった。


「行くか」


「はい」


 エルマーが先に歩き出した。三歩歩いて——振り返った。


「あんた」


「何ですか」


「……朝飯、焼く」


「お願いします」


 エルマーの耳が赤い。朝焼けのせいだけではない。


 広場に戻った。ルッツが寝ている。記録帳を抱えたまま。ハンスの鼾が響いている。リーナは毛布にくるまっている。


 日常の風景。——だが今朝は、全てが少し違って見える。


 窯に火を入れた。生地をこねた。酵母が膨らみ始めた。


 ——今日。世界が変わる。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


手を繋ぐ。——たったそれだけのことに、48話かかりました。


EP004で指が触れた。EP031で袖を掴んで、すぐに離した。EP040で肩が触れて、離れなかった。そして今夜——手を繋いだ。アネリーゼのほうから。


「手、離さねえよ」。この物語でエルマーが言った最も長い愛情表現です。六文字。この男にとっての精一杯。


感情の頂点に豆知識を入れませんでした。ここに情報は要らない。必要なのは二人の手の温度だけ。


明日、世界が変わります。でも二人の間では——もう変わっていた。


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