第48話: 農民の証言
宮廷の回廊は、白い大理石でできていた。
足音が響く。アネリーゼの革靴。マティアスの長靴。エルマーの——泥のついた作業靴。
「場違いだな」
「気にしないでください」
「気にしてねえよ。靴が汚いだけだ」
エルマーの目が落ち着かない。壁に掛けられた肖像画を見ている。天井の魔法灯を見ている。大理石の床を見ている。——一度も来たことがない場所。農民が足を踏み入れる場所ではない。
ルッツが後ろからついてきている。「師匠、すげえっす。宮殿っす。柱がでかいっす」。——この弟子の声があるだけで、空気が軽くなる。
謁見の間。
国王ヴィルヘルム四世が玉座に座っている。六十代。白い髭。痩せた体。——だが目は鋭い。この飢餓の中で、国を統べている男の目。
左側に大臣たちが並んでいる。右側に魔法推進派の代表。ギルド長グスタフも——いる。昨日融合パンを食べた男。だが宮廷では別の顔をしている。政治の場の顔。
「アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン。前へ」
名前を呼ばれた。——この宮廷で名前を呼ばれるのは、二度目だ。一度目は追放の宣告。
前に出た。膝を折った。
「陛下。大魔法炉の出力制限を進言いたします」
アネリーゼが概要を説明した。
保存魔法の不安定化は大魔法炉の劣化に起因する。根本的な解決には、魔法だけに頼らない食品保存の技術が必要。発酵による保存は三百年前には存在した技術であり、現在の炊き出しで有効性が実証されている。
「だが出力を制限すれば、魔法食品の品質が落ちるのではないか」
大臣の一人が口を開いた。魔法推進派。
「はい。味覚増幅の効果は低下します。だが——」
「低下する。それは問題だ。市民は魔法食品の味に慣れている。品質が落ちれば不満が——」
「飢えるよりはましです」
声が強くなった。自分でも驚いた。
「失礼しました。——品質の低下は事実です。だが現在、食品の三割以上が腐敗しています。出力制限を行わなければ、この数字は増え続けます。不安定化は止まらない。いずれ——全ての保存魔法が機能しなくなる可能性があります」
沈黙。
「根拠は?」
マティアスが前に出た。設計図を広げた。
「大魔法炉の設計図です。三百年前のオリジナル」
マティアスが計算式を指し示した。
「微生物殲滅は設計意図ではありません。出力100での運転における副作用です。設計者自身がそれを認め、出力制限の計算式を残しています」
「出力を60以下に下げれば、微生物が生存可能になる。物流魔法は出力30で維持可能。照明は出力20。保存魔法は出力50で限定的に機能する。——完全な停止ではなく、均衡を求める提案です」
魔法推進派の大臣が設計図を覗き込んだ。計算式を指で追っている。
「この計算式は——検証されたのか」
「されていません。三百年前の設計者の理論値です」
「未検証の理論で国家の基盤を変更することはできない」
「では——現状維持で、市民が飢えるのを見ていろと?」
マティアスの声に刃が立った。三番勝負の時の鋭さが戻っている。
「貴様——」
「私は魔法料理人です。魔法を否定しているのではない。魔法の使い方を変えよと言っている」
議論が白熱した。推進派は「理論の検証が先」と主張する。マティアスは「検証を待つ間に市民が死ぬ」と返す。アネリーゼは「発酵技術で移行期の食を支えられる」と補足する。
だが——膠着した。理論と現実の間で、宮廷は動けない。
「発言を許可する」
国王の声。静かだが、部屋全体に届く声。
「そこの男。名は」
エルマーが——立っていた。謁見の間の端に。泥のついた作業靴で。
「エルマーです。フィールデンの農民です」
「農民が宮廷で何の用だ」
「……呼ばれました」
国王がアネリーゼを見た。アネリーゼが小さく頷いた。
「話を聞こう」
エルマーが前に出た。
大理石の床を作業靴が歩く。一歩ごとに泥の跡が残る。——場違いだ。この男も、自分が場違いなことを知っている。
だが——立った。国王の前に。
「俺は辺境の農民です」
声が低い。普段と変わらない。だが——少しだけ震えている。
「魔法のことはわかりません。計算式も読めません」
「だが——何を知っている」
「土のことはわかります」
沈黙。
「俺の親父は——フィールデンで畑を耕していました。魔法農法が広まる前から。在来種の黄金麦を育てていました。手で種を蒔いて。手で草を取って。堆肥を作って。——全部、手で」
「魔法農法が来ました。魔法で種を蒔けば、収穫量は三倍になる。親父の畑は——要らなくなりました」
エルマーの目が——遠くを見ている。三百年前ではない。もっと近い過去。自分の少年時代。
「親父は怒りませんでした。怖かったんだと思います。自分が要らなくなることが」
「だが——親父は畑を耕し続けました。要らないと言われても。魔法が広まっても。毎朝、同じ時間に畑に出て。土を触って。種を蒔いて」
「なぜか。——土が生きていたからです」
エルマーの声が——変わった。震えが止まった。
「土の中には小さい命がいます。俺には見えない。だが——親父には見えていた。土を触ればわかると言っていた。温かい土は生きている。冷たい土は死んでいる」
「魔法農法の畑は——冷たかった。収穫量は多い。だが土は冷たかった。小さい命が殺されていたからだ」
「俺はあの人の言葉を——ずっと信じていませんでした。土の中に命がいるなんて、見えないものを——」
エルマーが手を見た。自分の手を。節くれだった、大きな手。土の色が染みた手。
「でも——この人が来てから」
アネリーゼを見た。一瞬だけ。すぐに国王に目を戻した。
「この人が発酵を教えてくれた。微生物という——小さい命が食品を変えることを。酵母がパンを膨らませ、乳酸菌が漬物を作り、カビがチーズを作る。見えない命が——俺たちの食を支えている」
「親父が言ってたことは——正しかった。土の中に命がいる。その命が、土を生かし、作物を育て、俺たちを養う」
「あんたらの魔法が——その命を殺し続けてきた」
謁見の間が静まり返った。
エルマーの声だけが残っている。——感情を言葉にできない男が、初めて公の場で言葉にした。父の記憶。土の命。見えない命への信頼。
「俺は——魔法が悪いとは言わねえ。魔法がなきゃ食えない人間がいるのもわかる。でも——土を殺し続けるのは、間違いだ。親父がそう言ってた。俺もそう思う」
「出力を下げてくれ。土の中の小さい命を——殺すのを、やめてくれ」
最後の言葉は——震えていた。
国王が立ち上がった。
謁見の間の全員が息を呑んだ。国王が立つのは——重大な決定の時だけだ。
ヴィルヘルム四世が階段を降りた。エルマーの前に立った。
「農民よ。お前の名はエルマーと言ったな」
「はい」
「お前の父の名は」
「……ヨーゼフです」
「ヨーゼフ。——覚えておこう」
国王がエルマーの手を見た。泥の染みた手。
「出力制限を試みよ」
短い命令。だが——決定的な。
「ただし段階的に行え。一度に下げるのではなく、影響を確認しながら。——ヴァイスガルテンの娘。発酵の技術で移行期を支えられるか」
「はい、陛下」
「マティアス・アッシェンブレンナー。魔法料理人への教育を続けよ」
「はい」
「農民エルマー。——お前は帰っていい」
「……」
「帰っていい、と言ったのだ。畑に」
「俺は——もう少し、ここにいます」
国王が——微かに笑った。
廊下。
謁見の間を出た。足が震えている。——アネリーゼだけではなく、エルマーも。
「エルマーさん」
「……」
「よく——言えましたね」
「言わなきゃいけないと思っただけだ。親父の代わりに」
鼻の頭を擦った。手が震えている。
「あんたの前で恥はかけねえ」
呟いた。アネリーゼには聞こえていないと思ったのだろう。——聞こえていた。
「エルマーさん」
「何だ」
「……ありがとうございます」
それ以上は言えなかった。言いたいことは——もっとあった。だが宮廷の廊下では。まだ。
ルッツが廊下の端で待っていた。目が赤い。
「エルマーさん……かっこよかったっす」
「うるせえ。泣くな」
「泣いてないっす。目にゴミが——」
「嘘だろ」
「嘘っす。泣いたっす」
三人で廊下を歩いた。大理石の床にエルマーの泥の跡が続いている。
——明日。世界が変わる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話を書きながら、旅で出会った人たちが一人ずつ再登場するシーンで自分が一番嬉しかったのはガストンの登場です。山賊だった男が革のエプロンをつけて燻製を作っている——食べ物が人を変えるという物語のテーマが、彼の姿に凝縮されています。しかも「塩蔵→風乾→燻製」の三段階を独自に再発見している。教えたのは干し肉の作り方だけだったのに、自分たちで燻製まで辿り着いた。人間の食への本能的な好奇心を書けた気がして、書いていて胸が熱くなりました。
ナディアの「父が送ってきた」の場面。星砂の胡椒を全収穫分送るというのは、砂漠の民にとっては大変な贈り物です。それを惜しまずに送ったファーリスの中に、「この嬢ちゃんなら任せられる」という信頼があったのだと思います。
次回は「世界の一皿」。旅で集めた全ての食材と菌で——集大成の料理を作ります。
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