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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第46話: 魔法料理人の壁

 三日目の朝。魔法料理人の受講者は十二人に増えていた。


 五人が七人になり、七人が十二人になった。口伝えだった。「融合パンは本物だ」「発酵という技術がある」「マティアス・アッシェンブレンナーが教えている」——マティアスの名は魔法料理の世界で知られている。彼が教えているという事実が、信頼の担保になった。


 だが。




 午前十時。広場に四人の男が現れた。


 全員が揃いの紺色の外套を着ている。左胸に金の紋章——魔法料理人ギルドの紋。


「何をしている」


 先頭の男が声を上げた。五十代。白髪交じりの髪を短く刈り込んでいる。顔に傷がある。目が鋭い。


「ギルド長のグスタフ・ヴェルナーだ」


 受講していた十二人が固まった。何人かが無意識に後ずさりした。


「お前たちは何をしている。ギルドの許可なく、部外者の料理を学んでいるのか」


「グスタフ殿。私は——」


「お前か。ヴァイスガルテンの娘」


 グスタフの目がアネリーゼを射抜いた。


「追放された身で王都に戻り、魔法を否定する料理を広めている。そう聞いたが」


「否定はしていません。私は発酵の技術を——」


「発酵。微生物。魔法以前の原始的な技術だ。それを王都の魔法料理人に教えて何がしたい。俺たちの技術を否定したいのか」


 声が広場に響いた。炊き出しの列にいた市民が振り返っている。




「答えろ。魔法を捨てろと言うのか」


 グスタフの声には——怒りだけではなく、恐怖が混じっていた。


 魔法料理人ギルドは三百年の歴史を持つ。大魔法炉が稼働してから、この国の食を支えてきた。何千人もの料理人が一生を魔法料理に捧げてきた。


 それを——「発酵のほうが良い」と言われることの意味。


 アネリーゼには——その恐怖が、理解できなかった。自分にとって発酵は希望であり、救いだった。だが魔法料理人にとって、発酵は自分の存在を否定するものに映る。


「捨てろとは——」


「聞こえないのか! お前の炊き出しで市民が並んでいる。魔法料理が無くても食えると証明されてしまう。俺たちは——要らなくなるのか!」


 声が震えていた。




「グスタフ」


 マティアスが前に出た。


「マティアス・アッシェンブレンナー。お前もか。ギルド所属の魔法料理人が裏切るとは」


「裏切りではない」


 マティアスの声は静かだった。グスタフの怒りに対して、水のように平坦な声。


「俺は魔法料理人だ。今も魔法を使っている。昨日も今日も——魔法でパンを焼いた」


「何?」


「だが使い方を変えた」


 マティアスが蓄熱石を取り出した。白い石。表面に魔法陣。


「これを見ろ。蓄熱石だ。魔力を石に蓄え、石の熱で発酵を制御する。魔力が微生物に直接触れない。——つまり、魔法を使いながら微生物を生かす」


「そんなことが——」


「できる。三ヶ月かかった。何百回も失敗した。だが——できた」


 マティアスがグスタフの前で生地をこね始めた。蓄熱石を脇に置き、白い光が淡く灯る。


「見ろ。これが間接魔法だ。お前の魔法が無駄になるわけじゃない。お前の魔力制御の精度が、むしろ——これをやるには必要だ。32から38の範囲に魔力を制御できるか? お前の技量なら——できるだろう」


 グスタフの目が——動いた。怒りから、別の何かに。


 グスタフの目が——動いた。怒りから、別の何かに。




 焼き上がった融合パンを、マティアスがグスタフに差し出した。


「食べろ」


「……」


「食べろ。話はその後だ」


 グスタフがパンを受け取った。一口、噛んだ。


 咀嚼。沈黙。——もう一口。もう一口。


「……何だ、これは」


「酸味があるだろう。それが微生物の仕事だ。甘みと旨味は——俺の魔法だ。どっちが欠けても、この味にはならない」


「魔法を使っているのか。この味の——」


「うま味の底上げに。グルタミン酸の選択的増幅。俺の魔力制御で」


 グスタフの手が——震えていた。パンを持つ手が。


「……捨てなくていいのか」


「捨てるわけがない。使い方を変えるだけだ」




 グスタフの隣にいた三人の幹部も、パンを食べた。


 一人が目を閉じた。もう一人が天を仰いだ。三人目は——何も言わずにもう一切れ要求した。


 味覚の順応。強い味に慣れた舌は、繊細な味を感じにくい。魔法料理のインパクトに慣れきった彼らの舌は、発酵の酸味を「薄い」「不十分」と感じるかもしれない。だが融合パンは違う。魔法の深みが残っている。その上に発酵の酸味と甘みが乗っている。彼らの舌でも——美味いとわかる。


「グスタフ殿」


 アネリーゼが口を開いた。


「私は魔法を否定していません。否定したことは一度もありません」


「……」


「発酵は微生物の力を借りる技術です。魔法は魔力の力を借りる技術です。どちらも——人間が環境を整えて、人間には直接制御できない力を方向づける。本質は同じです」


「本質が同じ——」


「はい。だからこそ、共存できる。捨てるのではなく——合わせる」


 グスタフが長い息を吐いた。


「……明日も来ていいか」


「もちろんです」


「ギルドの人間を——何人か、連れてくる」




 グスタフたちが去った後、受講者の十二人が息を吐いた。


「死ぬかと思った……」


「ギルド長が来るとは……」


「でも——食べてくれた。食べて、認めてくれた」


 マティアスが窯の火を確認しながら言った。


「食わせれば終わる。どんな言葉より、一口のほうが強い」


 アネリーゼは微笑んだ。——その通りだ。三番勝負の時も同じだった。言葉で勝敗を決めたのではない。味で。




 だが全員が受け入れたわけではない。


 夕方。広場から少し離れた路地で、二人の男が話しているのが聞こえた。


「あの女。微生物だの何だの——結局、魔法は要らないと言ってるのと同じだ」


「マティアスも堕ちたものだ。天才と呼ばれた男が、虫の力を借りるとは」


「ギルド長まで取り込まれた。だが俺は——」


 声は遠ざかっていった。


 エルマーが広場の端で蕪の壺を確認しながら、その声を聞いていた。


「あいつらの気持ちもわかる」


 独り言のように呟いた。——畑を奪われた父と同じだ。恐怖は理屈では消えない。時間がかかる。




 夜。炊き出しの後片付けが終わった。


 ルッツが興奮した顔で走ってきた。


「師匠! 師匠!」


「どうしましたか」


「地下書庫っす! 城壁の下の古い書庫! 水汲みに行った時に見つけたんすよ!」


「書庫?」


「中に入ったら——すごいっす。三百年前の羊皮紙がいっぱいあって——これ、見てください!」


 ルッツが巻物を広げた。広場の灯りの下で。


 黄ばんだ羊皮紙。古い文字。——だが図面は明確だ。巨大な装置の断面図。配管と魔法陣と、出力制御の数式。


「これは……」


「大魔法炉の設計図っすよ! 三百年前のオリジナルっす!」


 マティアスが寄ってきた。設計図を見下ろして——目が見開かれた。


「これは本物だ。設計者の筆跡がある」


 欄外に——手書きの書き込みがあった。インクの色が本文と違う。後から書き足されたもの。


『微生物殲滅は設計意図に非ず。副作用。出力を一定の水準まで減ずれば、微生物の生存圏と魔法の有効範囲を両立可能——』


 その下に計算式が並んでいた。


「設計者は——知っていたのか」


「知った時には止められなかったのでしょう。装置はもう動いていた。止めるには——国王の命令が要る」


 アネリーゼは設計図を両手で持った。手が震えていた。


 三百年前の設計者が残した言葉。微生物殲滅は望んでいなかった。共存は可能だった。——ただ、止められなかっただけ。


「これがあれば——」


「ああ」マティアスが言った。「宮廷に進言できる」



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「風乾し」のモデルは、アンデスの高地で数千年前から作られてきた「チューニョ」です。ジャガイモを夜間の凍結と昼間の乾燥を繰り返して脱水する——まさに天然のフリーズドライ。インカ帝国の軍用食糧として重宝され、数年間の保存が可能だったと言われています。現代の宇宙食にも使われるフリーズドライ技術と、原理は全く同じ。数千年前の人々が「昇華」を知らなくても、経験から同じ技術にたどり着いていたということに、書きながら感動しました。


芋が凍ると甘くなる現象——「低温糖化」は実在する生化学反応です。植物は凍結のストレスを受けると、デンプンを糖に変換して細胞液の浸透圧を上げ、凍結温度を下げようとする。寒い地方のキャベツや大根が甘いのもこの原理です。


次回は「氷の中の宝」。永久凍土の奥に眠る「氷結蜜」の正体が明らかに。


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