表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/52

第45話: 二人の料理人

 翌朝。マティアスの言葉通り、魔法料理人が来た。


 一人ではなかった。七人。全員が外套のフードを深くかぶり、広場の端に固まっている。恐る恐る——という表現がこれほどふさわしい集団を見たことがない。


「来たか」


 マティアスが窯の前に立っている。腕を組んでいる。——この男は、教える姿が似合う。


「並べ。見て覚えろ」




 実演が始まった。


 アネリーゼが発酵の基礎を教える。マティアスが間接魔法の応用を教える。


 教え方が全く違った。


「酵母は生き物です。温度と湿度で機嫌が変わる。手のひらで生地を触って——温かいですか? 少しべたつきますか? それが酵母が活発に動いている証拠です」


 アネリーゼは五感で教える。触って、嗅いで、見て。理論を語るのではなく、体で覚えさせる。


「蓄熱石の魔力充填は32から38の範囲で制御する。これ以上だと微生物の増殖速度が低下する。酵母の至適温度は28度前後だが、間接熱では2割の減衰が発生するため、石の温度は実効値より高めに設定する」


 マティアスは数値で教える。正確で、論理的で、再現性を重視する。


 七人の魔法料理人は——マティアスの言葉のほうに自然と耳を傾けた。彼らは魔法料理人だ。数値と理論の言語で育ってきた。アネリーゼの「触って感じて」は異国の言葉に聞こえるが、マティアスの「32から38の範囲で」は母語だ。


 だが。


「さあ、生地を触ってみてください」


 アネリーゼが一人の魔法料理人に生地を渡した。若い男——昨日最初に「教えてほしい」と言った男。


「触るのか……?」


「はい。素手で」


 男が恐る恐る生地に触れた。指先がへこむ。生地が戻ってくる。


「あ」


「わかりましたか?」


「……生きてる。この生地、動いてる」


「酵母が炭酸ガスを出しているんです。生地が膨らんで、指を押し返してくる。——この感覚を覚えてください。数値では測れない感覚です」


 男の目が——変わった。「数値」の世界から「感覚」の世界に、一歩だけ踏み出した瞬間。




「ヴァイスガルテン——いや、アネリーゼ」


 実演の合間に、マティアスが言った。


「お前がいなければ、俺はまだ味覚増幅だけのパンを焼いていた」


「あなたがいなければ、この人たちは永遠に発酵を受け入れなかったでしょう」


 マティアスが「ふん」と鼻を鳴らした。否定ではない。認めたのだ。


「俺の魔法は発酵を殺していた。お前の発酵は魔法を拒んでいた。どっちも——半分だった」


「はい」


「だが今は」


「——足りない半分を、互いに持っている」


 並んでパンを焼く。発酵パンと融合パン。同じ窯から出てくる。違う味で、同じ温かさ。




 ルッツが七人の魔法料理人の世話をしている。


「はいっす、こっちが酵母のサンプルっす。これをぬるま湯に溶いて——あ、ぬるま湯って言ったっすよ! 熱湯じゃないっす! 酵母死んじゃうっす!」


 一人の魔法料理人が慌てて手を引っ込めた。


「すまない……加熱が癖で」


「魔法料理は高温処理が基本っすからね。でも発酵は逆っす。低温でじっくり。師匠がいつも言ってるっす、『酵母は急がせてはいけない。人間の都合で働かせようとすると、機嫌を損ねます』って」


 ルッツが師匠の口調を真似ている。妙に似ている。


 アネリーゼは少し離れた場所から見ていた。——この子は、いつの間にか教える側に回っている。砂漠で転んでいた弟子が。「味がわかりません」と泣いていた弟子が。


「師匠、俺ちゃんとやれてるっすか」


「……はい。とても」




 昼。実演の休憩中に、エルマーが広場の端で蕪を切っている。


 漬物の仕込みだ。王都では蕪の漬物など誰も作ったことがない。エルマーが黙々と切り、塩を振り、壺に詰めている。


 アネリーゼが隣に座った。


「エルマーさん。今日の実演、見ていましたか」


「見てた」


「どう思いましたか」


「……あの男のパンは美味かった。昨日食った」


「マティアスさんの融合パン——」


「ああ。畑の匂いがした」


「畑の……?」


「種を蒔いた後の匂い。土が変わり始める匂い。——あのパンには、それがあった」


 アネリーゼは目を閉じた。エルマーはいつも——味を土の言葉で語る。だがその言葉が、いつも核心を突いている。マティアスの融合パンは「始まり」の味。種を蒔いた後の、変化が始まる匂い。


「エルマーさん。あなたの言葉は——」


「何だ」


「……何でもありません」


 蕪を切る手が止まらない。エルマーの手。節くれだって、土の色が染みた大きな手。——見ている自分に気づいて、目をそらした。




 午後の実演が続く。


 アネリーゼは七人に発酵食品の試食をさせた。漬物。干し肉。チーズの小切れ。海藻出汁。


「これが微生物の仕事です。塩を振った蕪を微生物が分解し、酸味を生み出す。干した肉の表面で微生物が旨味を凝縮する。チーズの中でカビが脂肪をアミノ酸に変える」


「……全て微生物が?」


「はい。人間は環境を整えるだけ。温度と湿度と塩分を管理して、微生物に仕事をしてもらう」


「それは——魔法と同じだ」


 一人の魔法料理人が呟いた。年配の男。皺が深い。


「どういう意味ですか」


「魔法も……環境を整えるだけだ。魔力を注ぎ、反応を制御する。食材を変化させる力は魔力にある。俺たちは——環境を整えているだけだ」


 アネリーゼは息を呑んだ。——そうだ。魔法料理人も、発酵料理人も、やっていることの本質は同じ。人間が制御できない力——微生物の力、魔力の力——を、環境を整えることで方向づける。


「同じですね」


「……ああ」


 年配の男が小さく頷いた。その目から——敵意が消えていた。




 1グラムの土壌に——10億の微生物がいる。


 実演の最後に、アネリーゼはこの話をした。


「この王都の土にも、かつては微生物がいました。大魔法炉が稼働する前は」


 七人が黙って聞いている。


「微生物が有機物を分解し、植物の根に栄養を届ける。落ち葉が土に還り、土が作物を育て、作物が人を養う。その循環を——大魔法炉が止めてしまった。微生物を殺してしまった」


「……知らなかった」


「多くの人が知りません。魔法が便利すぎたから。知る必要がなかった」


「だが今は」


「——今は知る必要があります。保存魔法が不安定化している今、微生物の力を借りなければ食品を保存できない。そして微生物の力を借りるには——微生物のことを知らなければならない」


 沈黙。


「明日も来ます」


 年配の魔法料理人が言った。


「俺も」


「俺も来る」


 七人のうち五人が残った。二人は黙って去った。——全員ではない。だが五人が残った。




 夕方。炊き出しの列がさらに長くなっている。


 発酵パン。融合パン。漬物。海藻出汁の粥。——メニューが増えた。マティアスの融合パンが加わり、魔法料理人の志願者が手伝い始め、生産量が上がった。


「師匠……かっこよかったっす」


 ルッツが炊き出しの片付けをしながら言った。


「何がですか」


「マティアスさんと並んでパン焼いてるとこ。元敵が味方になったっていうか——最初から敵じゃなかったっていうか」


「最初から敵ではありませんでした。ただ——同じ場所に、違う道から辿り着いただけです」


「いい言葉っす。記録帳に書くっす」


 ルッツが記録帳を広げた。この弟子の記録帳は——もう三冊目だ。砂漠の乾燥発酵から港の魚醤まで、全てが書かれている。




 夜。広場で仮眠の準備をしていた。


 エルマーが蕪の漬物壺を確認している。塩を振って半日。まだ水は上がっていない。


「明日には水が上がる」


「はい。明後日から食べられます」


「あんた」


「何ですか」


「……あの魔法料理人、明日も来るって言ってたな」


「ええ。五人が残りました」


「あいつらの気持ちも——わかるんだ」


 昨晩と同じ言葉。だが今度は続きがあった。


「畑を奪われた親父は——怒ってたんじゃねえ。怖かったんだ。自分が要らなくなることが」


「……」


「あの二人。去った二人。あいつらも——怖いだけだ。自分の魔法が要らなくなることが」


「エルマーさん」


「なんだ」


「あなたは——優しい人ですね」


「うるせえ。蕪を切ってただけだ」


 鼻の頭を擦った。——闇の中でも、耳が赤いのがわかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


大魔法炉の設定を書きながら「均質化」という言葉が出てきた時、現代の食品加工業と重なって背筋が寒くなりました。均一であることは品質管理の基本だし、大量生産には不可欠。でも均一さの代償として何が失われるのか——微生物の多様性、発酵の偶然性、同じ食材でも毎回違う味になるあの「揺らぎ」。大魔法炉は悪意で作られたのではなく、飢饉を救うための善意から生まれた。善意の副作用が三百年かけて世界を変えてしまった——このアイロニーが書きたかったことです。


「菌に名前をつけるな」というヴェルナーの台詞。書いている最中にぽろっと出てきて、自分でも驚きました。菌に妻の名前をつけていた男が、その菌を失った時の二重の喪失。彼の五十年の孤独が、この一言に凝縮されている気がします。


次回は「雪国の保存食」。旅も終盤、北の凍土の世界へ。


評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ