第32話: 砂漠への道
荷造りが終わらない。
フィールデンに帰ってきてから二週間。チーズの二期目を仕込み、果実酢の新しい壺を据え、マティアスからもらった岩塩で試験的な塩漬けを始めた——やることは山ほどあったのに、頭の中では次の旅のことばかり考えていた。
砂漠地方アル・シャムス。ダルムの討論会で審査員長が語った「失われた技法」の手がかりは、南にあった。乾燥発酵——水分を極限まで抜いて保存する技術。魔法に頼らない、人類最古の保存法。
寝台の上に広げた荷物を見る。発酵壺の小型版を二つ。温度計代わりの蜜蝋板。記録帳。筆記具。岩塩の残り——これはマティアスの贈り物。
足りないものがある気がして、何度も確認した。
「師匠、馬車の手配できたっす!」
ルッツが息を切らせて戻ってきた。朝露がまだ残る畑の道を走ってきたらしく、長靴に泥がついている。
「明後日の朝、ダルムまでの定期便。そこから南行きの隊商に合流できるって」
「ありがとう、ルッツ」
「いやあ、砂漠っすよ砂漠! 俺、砂漠見たことないっす!」
弟子は目を輝かせている。ダルムの三番勝負を経て、ルッツの態度が変わった。「師匠についていく」から「自分も学びたい」に。酵母を三日間抱いて体温で温め続けた経験が、この少年の中で何かを変えたらしい。
畑の端。石窯の前。
エルマーが黙って薪を割っていた。
「エルマーさん」
「ん」
「明後日、出ます」
斧が止まった。エルマーは薪の断面を見ている。——見ているふりをしている。
「……そうか」
「砂漠地方のアル・シャムスまで。乾燥発酵の技術を探しに」
「どのくらいだ」
「ひと月……いえ、もう少しかかるかもしれません。砂漠の後、火山地帯にも寄りたいので」
エルマーは斧を薪に立てかけた。腕を組んだ。琥珀色の目がアネリーゼを見ている。
「畑は俺が見る」
「ありがとうございます」
「発酵壺も」
「……はい。お願いします。チーズの温度だけ気をつけてください。朝晩、蓋を開けて——」
「毎日やってるだろ。知ってる」
知っている。エルマーはアネリーゼの毎朝の発酵壺の世話を見ていた。言わなくても知っている。
沈黙。
「気をつけろ」
「はい」
「砂漠は水がねえ。干物にされるなよ」
口元が——ほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。エルマーにしては珍しい。
「干物にはなりません。発酵食品の方が保存性は高いですから」
「……そういうとこだぞ」
何がそういうところなのか聞けなかった。エルマーはもう斧を手に取って、次の薪を割り始めていた。
出発の朝。
フィールデンの村外れに馬車が待っていた。朝もやの中、畑が霞んで見える。麦の穂がうっすらと揺れている。
ハンスが見送りに来ていた。
「アネリーゼ。無理するなよ」
「ハンスさんこそ、腰を大事にしてください」
「俺の腰は俺が一番よく知っとる」
リーナが小さな布袋を押し付けてきた。
「これ、道中で食べて。干し林檎。甘酸っぱいやつ」
「ありがとう、リーナ」
村の人々の顔が並んでいる。二週間前にダルムから帰ってきた時、発酵食品の公式承認の話を聞いて、みんな喜んでくれた。「アネリーゼが勝った」と。——勝ったのは自分だけの力ではない。胡桃を割ってくれた人がいた。桜の枝を伐ってくれた人がいた。蜂蜜を持ってきてくれた人がいた。
エルマーは——いなかった。
畑の方を見た。朝もやの向こうに、石窯の煙が細く立ち上っている。エルマーが朝から薪を焚いたのだ。見送りには来ない。そういう人だ。
「行きましょう、ルッツ」
「はいっす!」
馬車に乗り込んだ。御者が手綱を振る。車輪が回り始める。
フィールデンの畑が遠ざかっていく。石窯の煙が小さくなる。黄金麦の畑が、朝もやの中に溶けていく。
指先がまだ温かいような気がした。城壁の上で袖を掴んだあの時から二週間。夜、寝台の中で。朝、水汲みの途中で。ふと、あの感触が蘇る——消えない。
「師匠? 手、どうかしたっすか」
「いえ。何でもないです」
手を膝の上に置いた。窓の外を見た。
ダルムで隊商に合流した。
南へ向かう商人と旅人の隊列。駱駝ではなく馬と荷馬車——この世界の砂漠は完全な不毛地帯ではなく、枯れた平原と岩場が続く乾燥地帯だ。
隊商の商人が言った。「アル・シャムスまでは五日。水場は二つ。夜は冷える」
馬車の揺れに身を任せながら、荷物を整理した。
革袋の中に——干し肉が入っていた。
固い。黒ずんでいる。塩が結晶化して表面に白く浮いている。切り方が無骨で、厚さが不揃い。
——エルマーの干し肉。
いつの間に入れたのだ。荷造りは全部自分でやった。革袋の中身も確認した。なのに、いつの間にか干し肉が紛れ込んでいる。
出発の朝、エルマーは見送りに来なかった。だが石窯に火を入れていた。この干し肉を荷物に忍ばせたのは——昨夜か。アネリーゼが寝た後、荷物に近づいて。
一切れ齧った。
硬い。噛まなければ味が出ない。三回、四回、五回——ようやく肉の繊維がほぐれて、塩味の奥から旨味がじわりと染み出す。
「……不味くはない」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
不味くはない。——エルマーの口癖。ルッツの酵母パンを食べた時も、アネリーゼのチーズを初めて味見した時も、エルマーはそう言った。最高の褒め言葉を、最も不器用な言い方で。
「師匠、それ何っすか」
「干し肉です」
「エルマーさんの?」
「……たぶん」
「いいっすねえ。差し入れっすねえ」
「差し入れではありません。……たぶん、余っていただけです」
ルッツがニヤニヤしている。この弟子は最近、妙に察しがよくなった。以前は何も気づかなかったのに。
——気づかないでいてほしい。自分でもまだ名前をつけていないこの感情に、他人が先に名前をつけるのは困る。
三日目。景色が変わった。
緑が減り、茶色い岩肌が露出し始めた。草は背が低く、まばらになっている。空気が乾く。唇が割れる。
「師匠、水飲みましょうよ。唇カピカピっす」
「もう少し我慢してください。次の水場まであと——」
「水は惜しむな」
隊商の年配の商人が振り返った。日に焼けた顔。皺の間に砂が溜まっている。
「砂漠で水を惜しんで死んだ馬鹿は腐るほどいる。——ああ、こっちじゃ腐る前に干物になるか」
水筒を口に当てた。ぬるい水が喉を通る。——エルマーが「干物にされるなよ」と言った声が脳裏をよぎった。
四日目。完全に乾燥地帯に入った。地平線まで続く黄褐色の大地。岩が点在し、その隙間に低い灌木がしがみついている。
発酵食品を作るには水分が要る。微生物が生きるためには水が要る。こんな場所で——何を発酵させるというのだ。
「ルッツ。この環境で発酵食品を作るとしたら、どうする?」
「えっ。……水がないっすからね。……干すしかないっすか?」
「逆だよ、ルッツ。水がないから微生物が繁殖できない。つまり——」
「あ。腐らないっす」
「そう。乾燥は人類最古の保存技術。発酵が『微生物に仕事をさせる』なら、乾燥は『微生物を眠らせる』。どちらも、微生物との付き合い方。表と裏」
ルッツが記録帳に何かを走り書きした。字は相変わらず汚いが、書く量が増えている。
五日目の夕方。
岩の丘を越えると——集落が見えた。
乾燥地帯の只中に、低い土壁の家が並んでいる。天幕が風にはためいている。人の姿。子供の声。
そして——匂い。
乾いた空気の中に、かすかに酸味のある匂いが混じっていた。
「師匠。何か発酵してるっす。この匂い——」
アネリーゼの鼻が動いた。乳酸。微かだが確かに。この乾燥した大地で——何かが発酵している。
集落の入り口に、日焼けした男が立っていた。布を頭に巻いた長身の男。目が鋭い。
「旅人か」
「はい。フィールデンから来ました。発酵食品の——料理人です」
「料理人?」
男の目が変わった。警戒から——好奇心に。
「面白い。ちょうど太陽が一番強い季節だ。——干し肉を作っているところを見たいか?」
アネリーゼは頷いた。心臓が高鳴っている。三番勝負の前夜とは違う鼓動。知らない味への期待。知らない技術への渇望。
砂漠の集落アル・シャムスに、足を踏み入れた。
熱気の向こうに——肉を天日に干す架台が、何十本も並んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ギルド長オットーの告白シーン、実はこの展開は第1話の時点で決めていました。「大魔法炉の出力低下」はEP023のあとがきで匂わせた設定ですが、ここで初めて数字が出ます。年平均0.6%の低下。緩やかだけど止められない。これは現実世界のインフラ老朽化問題がモデルです。
オットーが「面子だ」と白状する場面は、書いていて一番苦かったです。組織の体面のために一人の料理人と弟子に負担を強いた——でもこれが組織というものの現実でもある。アネリーゼが「ルッツは壺を抱いて寝ました」と言い返す場面、彼女が本当に怒ったのはこれが初めてかもしれません。
マティアスとアネリーゼの会話は、対立が終わり協力が始まる瞬間です。「あなたの技術は無意味にはなりません」——この一言で、二人の関係は変わりました。
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