表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/55

第32話: 砂漠への道

 荷造りが終わらない。


 フィールデンに帰ってきてから二週間。チーズの二期目を仕込み、果実酢の新しい壺を据え、マティアスからもらった岩塩で試験的な塩漬けを始めた——やることは山ほどあったのに、頭の中では次の旅のことばかり考えていた。


 砂漠地方アル・シャムス。ダルムの討論会で審査員長が語った「失われた技法」の手がかりは、南にあった。乾燥発酵——水分を極限まで抜いて保存する技術。魔法に頼らない、人類最古の保存法。


 寝台の上に広げた荷物を見る。発酵壺の小型版を二つ。温度計代わりの蜜蝋板。記録帳。筆記具。岩塩の残り——これはマティアスの贈り物。


 足りないものがある気がして、何度も確認した。




「師匠、馬車の手配できたっす!」


 ルッツが息を切らせて戻ってきた。朝露がまだ残る畑の道を走ってきたらしく、長靴に泥がついている。


「明後日の朝、ダルムまでの定期便。そこから南行きの隊商に合流できるって」


「ありがとう、ルッツ」


「いやあ、砂漠っすよ砂漠! 俺、砂漠見たことないっす!」


 弟子は目を輝かせている。ダルムの三番勝負を経て、ルッツの態度が変わった。「師匠についていく」から「自分も学びたい」に。酵母を三日間抱いて体温で温め続けた経験が、この少年の中で何かを変えたらしい。




 畑の端。石窯の前。


 エルマーが黙って薪を割っていた。


「エルマーさん」


「ん」


「明後日、出ます」


 斧が止まった。エルマーは薪の断面を見ている。——見ているふりをしている。


「……そうか」


「砂漠地方のアル・シャムスまで。乾燥発酵の技術を探しに」


「どのくらいだ」


「ひと月……いえ、もう少しかかるかもしれません。砂漠の後、火山地帯にも寄りたいので」


 エルマーは斧を薪に立てかけた。腕を組んだ。琥珀色の目がアネリーゼを見ている。


「畑は俺が見る」


「ありがとうございます」


「発酵壺も」


「……はい。お願いします。チーズの温度だけ気をつけてください。朝晩、蓋を開けて——」


「毎日やってるだろ。知ってる」


 知っている。エルマーはアネリーゼの毎朝の発酵壺の世話を見ていた。言わなくても知っている。


 沈黙。


「気をつけろ」


「はい」


「砂漠は水がねえ。干物にされるなよ」


 口元が——ほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。エルマーにしては珍しい。


「干物にはなりません。発酵食品の方が保存性は高いですから」


「……そういうとこだぞ」


 何がそういうところなのか聞けなかった。エルマーはもう斧を手に取って、次の薪を割り始めていた。




 出発の朝。


 フィールデンの村外れに馬車が待っていた。朝もやの中、畑が霞んで見える。麦の穂がうっすらと揺れている。


 ハンスが見送りに来ていた。


「アネリーゼ。無理するなよ」


「ハンスさんこそ、腰を大事にしてください」


「俺の腰は俺が一番よく知っとる」


 リーナが小さな布袋を押し付けてきた。


「これ、道中で食べて。干し林檎。甘酸っぱいやつ」


「ありがとう、リーナ」


 村の人々の顔が並んでいる。二週間前にダルムから帰ってきた時、発酵食品の公式承認の話を聞いて、みんな喜んでくれた。「アネリーゼが勝った」と。——勝ったのは自分だけの力ではない。胡桃を割ってくれた人がいた。桜の枝を伐ってくれた人がいた。蜂蜜を持ってきてくれた人がいた。


 エルマーは——いなかった。


 畑の方を見た。朝もやの向こうに、石窯の煙が細く立ち上っている。エルマーが朝から薪を焚いたのだ。見送りには来ない。そういう人だ。


「行きましょう、ルッツ」


「はいっす!」


 馬車に乗り込んだ。御者が手綱を振る。車輪が回り始める。


 フィールデンの畑が遠ざかっていく。石窯の煙が小さくなる。黄金麦の畑が、朝もやの中に溶けていく。


 指先がまだ温かいような気がした。城壁の上で袖を掴んだあの時から二週間。夜、寝台の中で。朝、水汲みの途中で。ふと、あの感触が蘇る——消えない。


「師匠? 手、どうかしたっすか」


「いえ。何でもないです」


 手を膝の上に置いた。窓の外を見た。




 ダルムで隊商に合流した。


 南へ向かう商人と旅人の隊列。駱駝らくだではなく馬と荷馬車——この世界の砂漠は完全な不毛地帯ではなく、枯れた平原と岩場が続く乾燥地帯だ。


 隊商の商人が言った。「アル・シャムスまでは五日。水場は二つ。夜は冷える」


 馬車の揺れに身を任せながら、荷物を整理した。


 革袋の中に——干し肉が入っていた。


 固い。黒ずんでいる。塩が結晶化して表面に白く浮いている。切り方が無骨で、厚さが不揃い。


 ——エルマーの干し肉。


 いつの間に入れたのだ。荷造りは全部自分でやった。革袋の中身も確認した。なのに、いつの間にか干し肉が紛れ込んでいる。


 出発の朝、エルマーは見送りに来なかった。だが石窯に火を入れていた。この干し肉を荷物に忍ばせたのは——昨夜か。アネリーゼが寝た後、荷物に近づいて。


 一切れ齧った。


 硬い。噛まなければ味が出ない。三回、四回、五回——ようやく肉の繊維がほぐれて、塩味の奥から旨味がじわりと染み出す。


「……不味くはない」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。


 不味くはない。——エルマーの口癖。ルッツの酵母パンを食べた時も、アネリーゼのチーズを初めて味見した時も、エルマーはそう言った。最高の褒め言葉を、最も不器用な言い方で。


「師匠、それ何っすか」


「干し肉です」


「エルマーさんの?」


「……たぶん」


「いいっすねえ。差し入れっすねえ」


「差し入れではありません。……たぶん、余っていただけです」


 ルッツがニヤニヤしている。この弟子は最近、妙に察しがよくなった。以前は何も気づかなかったのに。


 ——気づかないでいてほしい。自分でもまだ名前をつけていないこの感情に、他人が先に名前をつけるのは困る。




 三日目。景色が変わった。


 緑が減り、茶色い岩肌が露出し始めた。草は背が低く、まばらになっている。空気が乾く。唇が割れる。


「師匠、水飲みましょうよ。唇カピカピっす」


「もう少し我慢してください。次の水場まであと——」


「水は惜しむな」


 隊商の年配の商人が振り返った。日に焼けた顔。皺の間に砂が溜まっている。


「砂漠で水を惜しんで死んだ馬鹿は腐るほどいる。——ああ、こっちじゃ腐る前に干物になるか」


 水筒を口に当てた。ぬるい水が喉を通る。——エルマーが「干物にされるなよ」と言った声が脳裏をよぎった。


 四日目。完全に乾燥地帯に入った。地平線まで続く黄褐色の大地。岩が点在し、その隙間に低い灌木がしがみついている。


 発酵食品を作るには水分が要る。微生物が生きるためには水が要る。こんな場所で——何を発酵させるというのだ。


「ルッツ。この環境で発酵食品を作るとしたら、どうする?」


「えっ。……水がないっすからね。……干すしかないっすか?」


「逆だよ、ルッツ。水がないから微生物が繁殖できない。つまり——」


「あ。腐らないっす」


「そう。乾燥は人類最古の保存技術。発酵が『微生物に仕事をさせる』なら、乾燥は『微生物を眠らせる』。どちらも、微生物との付き合い方。表と裏」


 ルッツが記録帳に何かを走り書きした。字は相変わらず汚いが、書く量が増えている。




 五日目の夕方。


 岩の丘を越えると——集落が見えた。


 乾燥地帯の只中に、低い土壁の家が並んでいる。天幕が風にはためいている。人の姿。子供の声。


 そして——匂い。


 乾いた空気の中に、かすかに酸味のある匂いが混じっていた。


「師匠。何か発酵してるっす。この匂い——」


 アネリーゼの鼻が動いた。乳酸。微かだが確かに。この乾燥した大地で——何かが発酵している。


 集落の入り口に、日焼けした男が立っていた。布を頭に巻いた長身の男。目が鋭い。


「旅人か」


「はい。フィールデンから来ました。発酵食品の——料理人です」


「料理人?」


 男の目が変わった。警戒から——好奇心に。


「面白い。ちょうど太陽が一番強い季節だ。——干し肉を作っているところを見たいか?」


 アネリーゼは頷いた。心臓が高鳴っている。三番勝負の前夜とは違う鼓動。知らない味への期待。知らない技術への渇望。


 砂漠の集落アル・シャムスに、足を踏み入れた。


 熱気の向こうに——肉を天日に干す架台が、何十本も並んでいた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ギルド長オットーの告白シーン、実はこの展開は第1話の時点で決めていました。「大魔法炉の出力低下」はEP023のあとがきで匂わせた設定ですが、ここで初めて数字が出ます。年平均0.6%の低下。緩やかだけど止められない。これは現実世界のインフラ老朽化問題がモデルです。


オットーが「面子だ」と白状する場面は、書いていて一番苦かったです。組織の体面のために一人の料理人と弟子に負担を強いた——でもこれが組織というものの現実でもある。アネリーゼが「ルッツは壺を抱いて寝ました」と言い返す場面、彼女が本当に怒ったのはこれが初めてかもしれません。


マティアスとアネリーゼの会話は、対立が終わり協力が始まる瞬間です。「あなたの技術は無意味にはなりません」——この一言で、二人の関係は変わりました。


評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ