風の構えを知る者
エリカが滞在しているこの町――《レンハイム》は、周囲に山岳と渓谷が広がる、小さな交易都市だ。
規模は小さいが、周囲には魔物の生息地が点在しており、冒険者ギルドは比較的活発だった。
そのギルドに、ひとりの“流派持ち”の人物がいるという噂をエリカは耳にする。
「……“風刃流”の師範代が今、ここに?」
受付嬢に何気なく聞いた質問に、思わぬ答えが返ってきた。
「ええ、数日前にこの町に戻ってきたそうです。名前はリュシアン=ハルト。風刃流の中でも“跳躍脚”の異名を持つ剣士で、元はB級冒険者だった人よ」
風刃流――気力を用い、空気の流れと一体化するような俊敏な戦法を信条とする流派。
エリカは思った。
(風刃流……確か、試験で戦った教官もその流派だったはず。あの足運び……学べるなら、ぜひ)
ギルド裏手の稽古場。木立の影で、リュシアンと呼ばれた青年が、ひとり素振りをしていた。
銀髪を後ろに束ね、薄い軽装を纏ったその姿は、まるで風のように軽やかだった。
剣を振るたびに、枝葉が微かに揺れる。
そこへ、足音を殺して近づいたエリカが声をかける。
「……風刃流の方ですか?」
男は振り返り、一瞥をくれただけで言った。
「君が“無銘の剣姫”か。話は聞いている。……模擬戦でギルドの教官を翻弄したってな」
エリカは軽く頭を下げる。
「私はまだ未熟です。無刃流を求めていますが、それだけで足りないとも感じていて……。もし可能なら、あなたの技も学ばせてほしい」
リュシアンの目がわずかに細まった。
「……風刃流は“気力”と“空間の流れ”を重視する流派だ。外の者に教える義務も理由もない。だが――」
剣の柄を軽く地面に突き刺し、彼は言った。
「教えを乞う者がどれほどの覚悟を持っているかは、“身体”に聞くのが一番だ」
こうして、エリカとリュシアンとの“風刃試し”が始まった。
木剣を交えた軽い手合わせは、圧倒的な速度の差を見せつけられる形となる。
だがエリカも、気力の流れを読もうと必死に食らいつく。
(空気を裂くような足運び……! これが、風刃の“構え”)
数刻後、リュシアンは剣を引いた。
「……悪くない。特に気力の感覚は鋭い。明日も来い。基礎の“気脚”から教えてやる」
その一言に、エリカは無言で深く頭を下げた。
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翌朝、ギルド裏の稽古場には、早くも朝露を払いながら風が吹いていた。
エリカは木製の稽古着に身を包み、地面に並ぶ滑り止め砂を睨んでいた。
すぐ隣、長身の青年――リュシアン=ハルトが、木剣を背に組んで立っている。
「風刃流の基礎は、“気脚”にある。力で動くな。気で動け」
言葉と共に、リュシアンの身体が風に溶けた。
踏み出し、滑るように一歩。
つま先で地を蹴ると同時に、足元から気流が巻き上がり、まるで身体が風に運ばれるかのようだった。
「ただ速く動けばいいんじゃない。風を切るな、風と並べ」
リュシアンが戻ると、エリカはすぐに構えを取る。
だが、動き出しの瞬間――足元が空を掴めず、身体が前のめりに崩れた。
「……力を抜け。蹴るな。“流せ”」
再び挑戦するエリカ。
呼吸を整え、周囲の空気の流れを感じる。
風が、左から右へ。肌をかすめる感覚に意識を合わせた――
踏み込む。足の裏に集中し、足首からふくらはぎへ気力を流し込む。
(流れと、同じ方向に……)
ざっ……と足元で小さな渦が舞い、身体がわずかに前へ滑った。
リュシアンの眉がわずかに上がる。
「……今のだ。少しだけ風と足が一致したな」
エリカは息を整えながらも、僅かな感触に目を輝かせていた。
午前中、エリカは何十回も同じ動作を繰り返す。
風を読む。足裏で風を“感じる”。気を足に通す。呼吸と動作を一致させる。
だが、うまくいくのは数回に一度。
そのたびにリュシアンは短く助言を与えた。
「風は見えない。だが、“気配”はある。足裏が熱くなるのは、流れと気がぶつかってる証拠だ」
「吸うな。風を“喉で受ける”感覚だ。力むな。抜け。風は柔らかいぞ」
午後、エリカの踏み出しに変化が現れる。
一歩、一歩、わずかに滑るような移動ができるようになっていた。
そしてついに、リュシアンが「構えろ」と言った。
二人が木剣を手に向き合う。
「……風刃の歩法の基礎を掴んだ者が、どう動くか。見せてみろ、“無銘の剣姫”」
風が吹く。二人の髪がなびく。
次の瞬間、エリカの姿が一歩滑った。
その動きは、明確に“風刃の匂い”を纏っていた――
(これが……風を纏う剣士……!)