06/鮫嶋利和、拡大Ⅰ
「……なんだ、こりゃあ?」
鮫嶋利和は無精ひげに当てていた手をおろして、ゆっくりとそれに近づいた。
……目の前には、中途半端な位置で停止したエレベーターがある。
話では筐体を支えるケーブルが切れ、安全装置でこの位置に止まったとのことだ。
今は中のそれを調べるためにドアが完全に開かれているが……その"箱の中身"に問題はあった。
鮫嶋は落ち着いて、事実のみを観察する。
無理矢理こじ開け、突き破られたような天井。
何かが着弾し、大穴をあけた床。
ここまでの無茶をしてよく再落下しなかったな、という感想がまず漏れた。
次に、どうしてこんな状態になったのか? という疑問が浮かぶ。
しかし、中々いい発想は出てこない。
この状況にしっくりとくる解答を、鮫嶋は長年の経験から生み出せずにいた。
……懐の煙草を取り出して吸おうとするが、止める。ここが病院だという事を思い出して、鮫嶋は舌打ちした。
――此咲中央病院で殺しがあった。
そんな通報を警察が受けたのは四時間前の事だった。
駆けつけた警察によりすぐに二箇所の事件現場がおさえられ、周辺を捜索した結果出てきたのが、このエレベーターの惨状であったようだ。
被害者……と思われる男女三名の死亡も確認され、刑事課内部では殺人事件として取り扱う方針がすでに固まっている。
その殺人事件とこのエレベーターの関係があるかと言われれば未だ不明ではあるのだが……。
「鮫嶋さん、被害者の身元がとれました」
エレベーターの前で立ち尽くす鮫嶋の背後から、女性の声がかかる。
鮫嶋が振り返ると、それは鮫嶋の見知った人物であった。
凛とした顔立ちに、シャンプーのCMに出てきそうな長身でストレートのロングヘアの、パンツスーツの女性。最近出来たばかりの、よく出来た部下である。
「おう、亮子、おつかれ。といってもまあ、全員病院関係者だったろう?」
「……鮫嶋さん、小境です」
「あぁ? だから呼びにくいから亮子って呼ぶっつったろーが」
いちいちしつこい奴だ。服装も小奇麗だし、この新人はやたら生真面目で扱いに困っている。
――ヨレヨレのスーツに申し訳程度の清潔感をもたせた無精髭の男、鮫嶋利和と、その女性……小堺亮子は一見して正反対のナリである。
なぜ出世コースからも外れた鮫嶋に、自分の半分程しか生きていない女刑事がつけられたのかは皆目見当がつかない。
が、ついちまったもんはしようがない。使えるようにするしかないだろう。
鮫嶋はめんどくさそうな顔でいると、小境は小さくため息をついた。
「……まあ、それは一旦おいておきましょう。被害者はこの病院に勤める医師一名に看護師二名。まだ身辺の調査中ですが、暴力団との関係もまずないと思います」
ややシワの寄った眉間のまま、小境は鮫嶋に資料を渡す。
病院にあったものを即席でまとめたのであろう、写真と略歴がのった紙だ。それをぺらぺらと三秒ほど確認して、鮫嶋はそれを小境に突き返した。
小境はそれに動じず、慣れた手つきで資料を受け取る。
「んで、鑑識はなんて?」
頬をかきながら鮫嶋は続きを促す。
……別件で此咲市外から戻る途中だった鮫嶋が病院に駆けつけた頃には、被害者の遺体などは既に片付けられたあとだった。
そうして細かい調査に入っている鑑識の手を煩わせるわけにもいかず、関連があるか未だ不明のエレベーター前まできていたのである。
「はい。……これですね、どうぞ。三人はいずれも同じ方法で殺されており、全員が即死だったようです。凶器は……」
小境が言いよどむ。そうしているうちに、小境から差し出された資料を流して読んだ鮫嶋は、小境が口をつぐんだ解答にたどり着いた。
「……あぁ? 槍? 鋭利な長物? 本気か……?」
資料をバシッと叩いて、再びそれを小境に突き返す。小境は受け取りながら、顔色を変えずに続ける。
「そうとしか考えられないというのが今のところの見解でして。しかも、全て股下から上半身に向けて垂直に貫通していると。細かい調査は司法解剖の結果待ちですが」
「はぁ、槍ねぇ……しかも股下から、か……」
ボリボリと頭をかき、鮫嶋は足元を見た。
……床から槍が飛び出してきたのか?
どこの忍者屋敷だ。
「それとこのエレベーターなんですが、爆発音のようなものを聞いたと近くの患者が証言しています。上の階のエレベーターの扉は機械か何かで貫通したように突き破られているので、その際の衝撃音だと思うのですが」
「お、おい……ちょっと待て。上の階のエレベーターのドアがなんだって?」
「ですから、突き破られてるんです。それとエレベーターから屋上までの階段、踊り場、加えて屋上のドア部分もコンクリートごと激しく損壊しています。ブルドーザーか何かが突っ込んできたみたいに、です」
そうまで大仰に言っておきながら、小境の顔は無表情なままである。
かれこれ二週間になるが、事件に対してストイックな奴というのが鮫嶋の印象だった。
殺人事件にもこの前初めて関わったばかりだのに、顔色一つ変えやしない。本当に女なのだろうか。
まあ、泣いたり吐いたりしながら捜査する新米刑事のお守りに比べればなんのその、というところだが。
「……それにしたって、ブルドーザーっておまえ……屋上に降ろして突っ込ませたっていうのか?」
こんな病院の病棟、しかも一階ならまだしも屋上に? クレーンか何かで運んで?
馬鹿げてる。
しかし同時に、それが事実なのなら、想像の域では最もそれらしい答えの一つであることも確かだ。
「こちらも鑑識……それに専門家を呼んで調査にあたっていますが、まだ事件との関連性は不明です。科捜研、科警研にも要請を出したので、これも到着と結果待ちです」
「……監視カメラの映像は?」
「病棟の廊下、エレベーター共にカメラが設置されていたそうですので、もうすぐ準備が出来ると思います。病院の会議室を借りて、そちらで映像を出力する手筈になっていますので、そろそろ向かいましょう」
「なるほど、手際がいいねぇ」
「最初の一週間で手際は覚えましたから。案内しますよ、鮫嶋警部」
そうして鮫嶋を促し歩き出す小境を、鮫嶋はちんたらと追いかけて会議室へと着いた。
他にも刑事がいるかと思ったが、居合わせたのは映像の出力準備を進めている病院関係者と警官だけである。
「他の奴らは?」
「警察署の方に本部が設置されたのでそちらに集まっていると思います。ここで監視カメラの映像を確認して、有益なものがあるならこの場で編集して持ち帰ります」
「使いっ走りかよ」
「遅刻のついでですよ、警部」
「うるせえ、俺だって好き好んで桜田門に行ったわけじゃねえ」
「……はい、お願いします」
鮫嶋の小言を知ってか知らずか、小境は既に一歩踏み出して映像の再生を始めるよう指示を出していた。
「…………」
「鮫嶋さん、始まりますよ」
「…………はいよ」
そうして鮫嶋も一歩踏み出すと、じゃあ後はお願いします、という病院関係者の退室の声の後、液晶テレビに映像が映し出された。
直接そのままを持ってきたらしく、まずはただの廊下の映像が映し出される。
「……十一時半頃まで進めて下さい」
小境がノートパソコンをいじる警官に指示を出す。
「死亡推定時刻は?」
「死体の状態や発見時の状況から十一時から正午までとの見解でしたので……止めて下さい、ここからゆっくり早送りで」
ゆっくり早送りって? そう思う鮫嶋をよそに、めぐるましく進んでいたデジタルの時刻が、確かにゆっくりとした早送りになった。
それでもまだ、しばらくただのありきたりな風景が続いていく。
変化が現れたのは、ゆっくりとした早送りにしてから一分後の事であった。
映像がブラックアウトする。
ほんの二秒程ですぐ元の映像に戻ったが、しかしその映像にはまだ異常が出ていた。
「……これは一体?」
「いえ、病院の人間の話では生データとのことですので、何がなにやら……」
小境と警官が目を丸くする中、鮫嶋だけがそれを厳しい目で眺めていた。
……黒く塗りつぶされた長方形が、廊下の窓際に佇んでいる。
それは黒帯の大きさからして、おそらくそこに人がいるであろう事を鮫嶋に連想させた。
画面が黒く染まった時間でどこからか現れ、窓際に歩み寄ったであろう黒帯。
そこに、看護師の女性が近づいてくる。
「……おい、なんだこの黒いのは」
鮫嶋は出ないであろう答えを求めて、疑問をつぶやく。
「いえ、こちらでは何も……すみません、さっきの人をもう一度ここへ」
「わ、わかりました」
小境が対処する間も、鮫嶋はじっと画面を見つめていた。
看護師の女性が近寄って身振り手振りで話しているのがわかる。彼女が近づいてそうしている以上、黒い帯はやはり人間なのだろう。
何かを話し終えた看護師をよそに、黒い帯は走るようなスピードで奥の階段へと消えて行く。そして……。
看護師の女性が、より大きな黒い帯に覆われ、直後、黒帯が解けると同時に血まみれの死体になって現れた。
「……っ!」
鮫嶋は目を見張る。隣で小境ですら息を呑むのが耳に入った。
その場に倒れ動かない看護師の女性をよそに、黒い帯は階段へと駆け抜けていく。途中、通り過ぎた部分に何度か黒帯がかかる。
「なんなのこれ……モザイク? どうして?」
素の声を小境が漏らした。
「亮子、本部に問い合わせて何人か刑事をこっちに回せ。カメラ映像がいじられた可能性が高い、特捜も呼べ。さっきの男も含め監視カメラの映像に関われるやつを任意同行するぞ。この調子じゃ他の監視カメラも同じかもしれないが、念のためお前の方で調べてくれ」
そう言って踵を返す鮫嶋に小境は驚いて声を出す。
「さ、鮫嶋さん! 鮫嶋さんはどこへ?」
「デスクワークは好きじゃねえんだよ! 俺は先に病院の関係者を洗う! 細かい雑務は頼んだぞ、新人!」
そうして部屋を飛び出した鮫嶋は、急ぎ足で歩を進めながら、頭の中で鳴り響く危険信号を感じ取っていた。
監視カメラの改ざん。そんな事が簡単にできるのか?
そもそもなんであれだけの騒ぎがあって、なんで犯行現場に誰も居合わせなかった? 此咲で最も大きな病院なんだぞ?
嫌な予感がする。可能ならば、その予感には当たって欲しくない。
だが、鮫嶋は経験則でわかっている。
この感覚を抱いた時は、必ずといっていいほど危険なヤマなのだ。
*
「くそ、くそ! くそ……!」
怒りのあまり、車椅子の少年……貞義は、何度も何度もディスプレイに拳を降ろした。
その度に振動が波紋になり画面を揺らすが、画面が伝える情報は変わらない。
『結晶の守護者 石化』
『COST 2/10000』
『HEAT 100%』
『SYSTEM:結晶の守護者の召喚を終了します。』
いくつかの赤い文字列が、エレベーター内部に入った守護者……クリスタルゴーレムの"行動不能"を伝えたログを残していた。
何だよ! 何で! 何で動かなかったんだ!
冷静さを失った貞義には――それを抜きにしても、インターフェイスの無機質な情報からでは――何が起きたのかはわからない。
しかし、未だ貞義が理解していない針の夢城の欠点が露呈する形で、彼は敵ホルダー……星弥を完全に見失った。
――感情を爆発させる貞義をよそに、通報を受け駆けつけた警察が病院周辺に警官を配備し、病棟は警察の監視下に置かれつつあった。
『三日目が終了しました。経過報告を開始します。▽』
『今日の一言:そろそろ皆さんもクラフトの使い方、わかってきたんじゃありませんか?
新しい何かに気づいたら、参加証をご確認下さい。理解が深まる度に、広がる知識あり!▽』
『四日目を迎えたプレイヤーは十二人。三日目のリタイアは一名となりました。▽』
『リタイアされた方のお名前、リタイア原因は以下のとおりです。▽』
『【もりたかずなり さま】
ホルダーを発見し先手を打ちましたが、為す術もなくカードを破壊されました。
完全に力負けです。残念、アンラッキー。相手が悪かったですね。 ▽』
『それでは、ゲームは四日目へと突入します。
残りの参加者の皆様に、ナイアーラトテップの微笑みがありますように▽』
『ナイアーラトテップの微笑み』
ゲーム続行 四日目
星弥はどうやって自宅にたどり着いたのか、記憶が曖昧になっていた。
エレベーターから何とか脱出し、転がりでて…………。騒ぎが大きくなる中、病院を後にして……。
……あとは、無我夢中でその場を離れた。そんな断片的な感覚だけが残っていた。
そんな回想をしているのはベッドの中で、帰り着くなり疲労困憊で倒れこみ、這うようにしてベッドに入ったのだけは覚えている。
そうして、いつの間にか手元に転がっていたクラフトカードの経過報告だけを確認し、星弥はテレビへと目を移した。
……こんなにテレビを身近に感じたのは、生まれて初めてかもしれない。
星弥はそう思いながら、ベッドに横たわったままニュースを眺める。
『警察によりますと、午前十一時半ごろ、此咲市中央区にある此咲中央総合病院の病棟で、血を流して倒れている医師や看護師、あわせて三名を病院の関係者らが発見し、間もなく死亡が確認されました。死亡したのは――』
少し身体を起こそうとするが、体が悲鳴をあげる。
……所々打ち身もしているが、根本的なものは筋肉痛だ。しばらくは痛みが続くだろう。
そう思いながらも肩をまわすと痛みが走り、思わず声が漏れる。
『――また、同じ病棟内でエレベーターが損壊するなどの事故も発生しており、警察では事件との関連性を調べています』
エレベーター。
昨日の出来事が、手に取るように蘇ってくる。
巨大な腕に貫かれた床。
無我夢中で手当たり次第にものを投げつけた。
そして……。
右手を観る。
特におかしいところはない。
だが、あの時たしかにこの手にグローブがはめられていた。
――クラフトカードが変形し、クラフトになる。
星弥がその結論に至るのに、あまり時間はかからなかった。
昨日の時点でも考えていたことだ。
佐藤が手品のように刀を取り出していた事や、あの病院で出会った少年が目の前でやった事を考え、星弥が行き着いた答え。
……それだけじゃない。星弥はそう思い立ち、体の痛みを引きずりながらもベッドの対岸にある棚からそれを取り出した。
最初の手紙、招待状。
その一文に抱いた疑問に対しても、この推測はつじつまが合う。
――参加証はどうやって壊すの?
――参加証をご覧になればわかりますが、参加証は常に危険に晒される立場であり、最強の切り札である事をお忘れなく。
最強の切り札であり、常に危険に晒される立場。
それはつまり、『クラフトカードそのものがクラフト能力に大きく関わっている』事を意味しているのではないだろうか。
例としてあげるならば、佐藤の日本刀のようなクラフトがもっともわかりやすいはずだ。
クラフトカードはクラフトでしか破壊できない。このルールに基づくならば、佐藤はあの刀でクラフトカードを斬らなければならない。
……しかし、『この刀そのものがクラフトカード』だったとしたら?
佐藤はクラフトカードを破壊するために、常に自分のクラフトカード=刀を武器として最前線に置かなければならない。
最強の切り札であり、常に危険に晒される存在、それがクラフト、クラフトカード。
……なら、俺の顛帯観測はなんだ?
星弥が行き着いた疑問はそこだ。
星弥はクラフトカードの変形など一度もした事がなかったし、させようと考えたこともなかった。
そもそも、この魔眼が発現する時点でクラフトカードが必要だという記述もなかったし、今でも必要だという記述は……。
「あ」
星弥は、エンカウントやホルダーサーチの一件を思い出し、クラフトカードを確認した。
……クラフト、メンバー、ディクショナリに『New!』の文字がついているのをみて、思わずため息がもれた。
なんて都合のいい、現金なシステムだ。
無機物に苛立ちを覚えても仕方ないとは思いながらも、呆れ顔のまま星弥はクラフトカードの更新内容を確認していった。
更新内容は三種類。『顛帯観測』、『病院で出会った少年』、そして『クラフトの実体化』だ。
まず、顛帯観測の能力解説に変化が現れていた。
『名 称 顛帯観測
種 別 魔眼・魔手 Update!
能 力 超能力型
RANK CUpdate!
【攻撃/G】【防御/G】【敏捷/G】【魔力/C】【視界/B+】
スキル ≪魔界視≫ ≪身体強化:視力≫ ≪属性干渉≫ New!
左目に発現する菱形の瞳と、右手に備わる甲の黒手。万物を理解しうる全知の魔眼と、万物に触れうる全能の魔手。
視界内に捉えた万物を所有者の理解しうる媒体で表示し、またそれに干渉し多様な操作が可能。
捜査型、干渉型のクラフトとしては王道で強力だが、星弥のクラフトランクはCであり、完全な能力発現とは言い難い。』
甲の黒手。昨日発現したフィンガーレスグローブの事であろう。その解説を加え、能力ランクが上昇しているのがわかる。
また、新たにスキルが一つ。
『≪属性干渉≫ RANK/-(不明)
スキル≪魔界視≫により見た属性に接触することが可能な能力。
手でふれその属性を持ち歩くことができ、これを何らかの物体に組み合わせることで、その物体に属性を付与させることが可能である。
あまりに非常識な力に見えるかもしれないが、その非常識さゆえに、常識に囚われている程使用が困難なスキルである。
強固な意志なくしては使用は不可能であり、使用条件も厳しいことから能力としての初期表記はされず、副次的なものとして扱われている。』
属性干渉……属性に触れ、操り、組み合わせる能力。これが星弥にはいまいち理解ができなかった。
属性を持ち歩く? 組み合わせる?
辛うじてわかる事といえば、属性を付与させる、の部分だろうか。
例えばRPGなどのゲームには属性という概念があり、火や水、風や土といったグループの括りの下、それぞれが得手不得手をもっている。
そういう何らかに属するものを属性と呼び、ファンタジーなゲームならば剣に炎を宿して火属性にする、といった魔法がある。
属性の付与というのは、いわばこの剣に炎を宿す、という概念だと考えていいのかもしれない。
だが……魔界視により見た属性、という文章がしっくりこない。
顛帯観測が表示する文字情報……ここでは属性としているが、ようするに壁を見たら壁、床を見たら床、と出ているこれらの事であろう。
剣に壁という属性を付与してどうなるというんだ?
「……なるほど」
星弥は理解した。
何を理解したかというと、いかにこのスキルが"非常識"であるかという事だった。
その非常識さゆえに、常識に囚われている程使用が困難なスキル。
記述の通りだ。これは実際に試して、出来る範囲でやっていくしかない。
そう考えて、星弥は胸の高鳴りを感じた。
……その高揚感に、今はやや後ろめたさを感じる。
初めて顛帯観測を手に入れた時の自分を思い出して、星弥は苦笑した。
バカだった。
もっとよく考えていれば、あんな怖い目にも合わなかったかもしれないのに。
――それでも
「……やってみるか」
*
クラフトの実体化。
それはクラフトカードを手に持ちクラフト名を念じたり、口にしたりする事でカードがクラフトとして発現する"初歩的なシステム"のようだ。
星弥はまず室内で簡単にそのテストを始めた。
――顛帯観測。
右手にクラフトカードを持ち、念じる。
するとクラフトカードが光の粒子になり、手の甲に集まっていく。
……微かに熱を帯びた光に驚きながらも、そうして形になったそれに息を飲んだ。
黒手と記述されていた、フィンガーレスグローブ。
触ってみると、皮のようなゴムのような、なんともいえない材質の肌触りがある。
「すげ、どうなってんだ……?」
なぜあのカードが砕けてこのグローブになるのかは理解できないが、深く考えても仕方ない。
それよりも、まず疑問をもつべきは、なぜ"今までクラフトの実体化ができなかった"のか、だ。
ディクショナリの項目はホルダーが一度確認した知識しか追加されないのは確認済みだ。
なら、星弥にとってクラフトの実体化は開始時点では存在していなかった要素になる。
招待状にもその下りはなかったし、そもそも星弥の顛帯観測の使用条件は『左手で左目周辺に触れている事』だ。
ところが、このクラフトの実体化後は違う。
右手にこのグローブが装着されてからは、何もせずとも顛帯観測が発動しているのがわかった。
それも、今までは左目、右目と意識してみなければ判別がつかなかったものが、統合され一つの視界としてクリアに情報を示している。
これは劇的な変化だ。
左手を顔に添えた状態というのは予想以上に疲労するし、動きづらい。ましてや、左手を負傷した際には使用できなくなる可能性さえあった。
だが、この状態ならばより自由な動きで、自然に顛帯観測を使用する事ができる
……ただ、新たな短所は生まれた。
「クラフトカードが使えない……か」
考えてみれば当然だ。様々な情報、機能を搭載しているクラフトカードも、カードの形を保っていなければ使用はできない。
試してみたものの、案の定ホルダーサーチはクラフトを実体化した状態では発動しない。おそらくエンカウントに関してもそうなのだろう。
いかにホルダーサーチ、エンカウントを使うためにクラフトカードを使い、どのタイミングでクラフトを実体化させるか。
その切り替えの判断は重要な要素かもしれない。
それに何よりも、それをもって有り余るメリットがクラフトの実体化には存在するはずだ。
星弥の中には、スキルの解説を噛み砕いたある程度のイマジネーションが生まれ始めていた。
あとは、訓練が可能なスペースの確保だけだった。
……自分の部屋で行なってもいいのだが、よくわからない力である以上、何が起こるかわからない。
使った瞬間に爆発、アパートごと吹き飛んで真っ黒焦げ……なんて事はないにしろ、取り返しのつかない事態になるのが星弥は一番怖かった。
人様に迷惑をかけてはいけない。かつて叔母に口を酸っぱくして言われた事だ。
こうして育った今でも他人を頼るのに抵抗があるものだから、学校でも割と"優等生"のままでいる星弥にとって、何かトラブルが起きて居住区で問題視されるのは避けたかったのである。
よって、星弥が選定したのは人目につかず、多少の無茶が効き、人里離れた場所であった。
そんな都合のいい場所が此咲市のあるのかというと……あった。
南此咲。
東西南北で区画も街並みも劇的に変化する此咲市だが、その中でも特に開発が全く進まない地区が南此咲だ。
昔からこの土地に住む地主が開発を推し進める都市開発派と真っ向から対立しているとの話だが、細かい事情は星弥も知らない。
とにもかくにも、此咲市において森林、山、農村といった概念が集中する南此咲だからこそ、その一角に星弥は秘密の練習場を置くことにした。
未開発地域とはいえ、観光客からの収益で栄えている此咲市においては南此咲もその対象であり、一部はハイキングコースとして少なからずの人気がある。
そんな人気のある場所から更に奥地に入り、入ってはいけないという旨の看板があるような場所に見つけた野原を星弥は利用させてもらう事にした。
早速、クラフトを実体化する。
右手に現れるフィンガーレスグローブ……顛帯観測の黒手。
その特性、その能力を
この力で何ができるのか。
知らなければならない。
顛帯観測というクラフトを。
そして、またあの少年に会いに行こう。
病院で出会った、星弥が今現在知るただ一人のホルダー。
おそらく、今度こそ真正面から戦う事になる。
……いや、戦えるようにならなければならない。
星弥の中に、小さくも確かに存在する、一つの目的。
その目的の為に、星弥は顛帯観測を使う訓練を開始した。