第1話 努力の方向を間違えた男
あと一歩。
あと一歩で、理想の体に届く。
そう信じて、俺――桐生翔は鏡の前に立っていた。
「……よし。昨日より絞れてる」
腹筋はくっきりと割れ、肩から腕にかけての筋肉も浮き上がっている。
数か月前の自分が見たら、間違いなく歓声を上げるだろう。
俺が目指しているのは、フィジーク大会への出場だ。
鍛え上げた肉体の美しさを競う大会。そのステージに立つ自分を想像するだけで、胸が熱くなる。
俺は昔から、努力することだけは得意だった。
勉強でも仕事でも趣味でも、目標を決めたら一直線。うまくいかなくても、もっと頑張ればいいと考えてきた。
ただ、なぜか結果がついてこない。
試験では出題範囲を勘違いして、誰よりも熱心に勉強した部分が一問も出なかった。
仕事では頼まれた資料を完璧に仕上げたつもりが、そもそも求められていた資料と違っていた。
それでも俺は諦めなかった。
努力が足りないなら、もっと努力すればいい。
そう思っていたからだ。
「今度こそ、結果を出すぞ……!」
体重計に乗る。
表示された体脂肪率は、一%。
家庭用の体重計が示す数字に多少の誤差があることくらい、俺だって知っている。
だが、鏡に映る体は確かに仕上がってきていた。
「一%か。……まだ、いけるか?」
大会までは、もう少し時間がある。
せっかくここまで頑張ったんだ。中途半端なところで止めたくない。
そう考えて、俺はさらに減量を続けた。
食事を削り、運動量を増やし、疲れが抜けなくても予定どおり体を動かした。
立ち上がるたびに目の前が暗くなる。
階段を上るだけで息が切れる。
それでも、鏡の前では笑っていた。
「ここを乗り越えれば……!」
そして、大会を目前に控えたある日。
いつものようにトレーニングを終え、ロッカールームへ向かおうとしたところで、足元がふらついた。
「あれ……?」
視界が揺れる。
壁に手をつこうとしたが、腕に力が入らない。
まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
床が近づいてくる。
誰かの叫び声が聞こえた。
そこで、俺の意識は途切れた。
◇
「おお、翔よ。死んでしまうとは情けない」
「えっ!? 俺、勇者なの!? 復活できるの!?」
目を開けた瞬間、俺は反射的に叫んでいた。
目の前にいたのは、白く長いひげを蓄えた老人だった。
真っ白な衣をまとい、いかにも神様ですと言わんばかりの姿で、ふかふかの椅子に腰かけている。
周囲はどこまでも白い。
壁も天井も見当たらないのに、不思議と足元には床があった。
老人は満足そうにうなずく。
「いや、一度このセリフを言ってみたかったんじゃ」
「言ってみたかっただけかよ!」
「うむ。なかなかよい反応じゃった」
「俺の死を使って遊ぶな!」
思わず突っ込んでから、俺は固まった。
……死?
「ちょっと待って。俺、死んだの?」
「そうじゃ」
「本当に?」
「本当に」
「夢とかじゃなくて?」
「残念ながらのう」
老人は気の毒そうに眉を下げた。
俺は自分の手を見つめる。
さっきまで、ジムにいたはずだ。
大会に向けて、最後の追い込みをしていた。
それが、どうして。
「……大会は?」
「出られんのう」
「参加費、もう払ってるんだけど」
「そこを気にするのか、お主は」
だって、結構したんだぞ。
いや、それよりも。
「俺、なんで死んだんだ?」
老人はひげをなでながら答えた。
「過度な減量と無理な運動で、体をひどく弱らせておった。十分な栄養も休息も取らず、限界を超えてしまったんじゃ」
「……ああ」
心当たりしかなかった。
「体脂肪率、一%まで落としたんだけどな」
「そこからさらに落とそうとしておったじゃろう」
「せっかくなら、もうひと頑張りしようかと」
「その『もうひと頑張り』が間違いじゃったんじゃよ!」
老人が椅子から身を乗り出した。
「お主は昔からそうじゃ。努力は惜しまん。根性もある。じゃが、努力する方向を選ぶのが下手すぎる!」
「神様にそこまで言われる!?」
「試験勉強で範囲を間違えたときも、確認せずに勉強時間を増やしたじゃろう」
「うっ」
「仕事で求められておらん資料を作ったときも、間違いに気づかず完成度を上げ続けた」
「ううっ」
「そして今度は、体を美しく見せる大会に出るために、自分の体を壊した」
「……ぐうの音も出ない」
俺はその場にしゃがみ込んだ。
言われてみれば、そのとおりだ。
頑張ることばかり考えて、何を頑張るべきなのか、立ち止まって考えたことがなかった。
「俺、努力する才能はあると思ってたんだけどな……」
「それは間違っておらんよ」
老人の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お主は、よく頑張った。ただ、頑張る先を間違えてしまった。それだけじゃ」
顔を上げる。
老人は穏やかに笑っていた。
「そこでじゃ。お主には、もう一度人生を送る機会を与えようと思う」
「……え?」
「別の世界で、新しい人生を始めてみんか?」
「別の世界って……異世界?」
「そうじゃ」
異世界。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭にいろいろな光景が浮かんだ。
剣と魔法。
ドラゴン。
冒険者ギルド。
そして、伝説の勇者。
「ま、まさか……魔法が使える世界?」
「使えるぞ」
「魔物とかいる?」
「おる」
「ジョブとかレベルとかも?」
「あるとも」
俺は勢いよく立ち上がった。
「行きます!」
「返事が早いのう」
「だって異世界だぞ!? 魔法が使えて、レベルが上がって、強くなれるんだろ!?」
「まあ、そうじゃが」
「今度こそ最強を目指す! 努力する方向さえ間違えなければ、俺だってきっと……!」
そこまで言って、口を閉じた。
……待てよ。
努力する方向を間違えなければ?
「神様」
「なんじゃ?」
「俺、異世界でも間違えるんじゃない?」
「うむ。その可能性は高いのう」
「即答!?」
老人は楽しそうに笑うと、片手を持ち上げた。
「じゃから、お主には特別な力を授けよう」
その手のひらから、淡い光がこぼれる。
光はゆっくりと宙を漂い、俺の胸へと吸い込まれていった。
体の奥が、ほんのり温かくなる。
同時に、目の前へ半透明の文字が浮かび上がった。
【ユニークスキル《正解選択》を取得しました】
「……正解選択?」
「お主が何かを選ぶとき、正しい選択を示してくれる力じゃ。普通なら見つけられん選択肢が見えることもある」
「正しい選択……!」
俺は表示された文字を食い入るように見つめた。
すごい。
これさえあれば、もう勉強する範囲を間違えない。
仕事で的外れな資料を作ることもない。
いや、そもそも異世界で会社勤めをするつもりはないけど。
「つまり、最強になるための正解もわかるってことか!」
「お主が進むべき道は示してくれるじゃろうな」
「よっしゃあ!」
俺は拳を握りしめた。
今度こそ、努力を結果につなげてみせる。
そんな俺を見て、神様は何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わなかった。
「さて。異世界へ送る前に、いくつか準備をしてもらおう」
「準備?」
「まずは、持っていくスキルじゃ。これから見せる中から、好きなものを三つ選ぶがよい」
目の前に、ずらりと文字が並んだ。
【剣術】
【槍術】
【火魔法】
【水魔法】
【身体強化】
【鑑定】
【経験値増加】
【スキルポイント増加】
【収納】
ほかにも、数え切れないほどのスキルが表示されている。
「うわっ、こんなにあるのか!」
俺は目を輝かせた。
剣術もいい。
魔法も捨てがたい。
身体強化があれば、前世で鍛えた体以上の力を出せるかもしれない。
だが、選べるのは三つだけ。
適当に選んで、あとから後悔するわけにはいかない。
「……いや、待てよ」
俺は胸に手を当てた。
さっき授かったばかりの力があるじゃないか。
「神様。このスキル選びにも《正解選択》って使える?」
「もちろんじゃ」
「じゃあ、さっそく!」
俺は並んだスキルを見つめ、心の中で問いかけた。
――俺が選ぶべきスキルは、どれだ?
すると、無数の文字の中から三つが淡く輝き始めた。
【《経験値15倍》――正解】
【《スキルポイント15倍》――正解】
【《ストレージ》――正解】
「……十五倍!?」
思わず声が裏返った。
経験値が十五倍。
スキルポイントも十五倍。
しかも、便利そうな収納能力までついてくる。
「これ、選んでいいの!?」
「三つ選べと言うたじゃろう」
「いや、そうだけど! こんなの絶対強くなれるやつじゃん!」
俺は迷わず三つを選択した。
今度こそ、正しい方向に努力できる。
しかも、努力した分だけ普通の十五倍で成長できるなんて。
最高じゃないか。
「よし! 異世界最強への第一歩だ!」
神様は、またしても何か言いたそうな顔をした。
けれど俺は、次に表示された画面に夢中で、その表情には気づかなかった。
【初期ジョブを選択してください】
【剣士】
【魔法使い】
【盗賊】
「おおっ! ジョブ選択まであるのか!」
剣士も格好いい。
魔法使いにも憧れる。
盗賊なら、素早く動けそうだ。
さて、どれにしよう。
俺は一度深呼吸してから、口元を緩めた。
もう、昔の俺とは違う。
迷ったときに、ただ闇雲に頑張る必要はない。
「《正解選択》!」
その瞬間。
三つしかなかったはずのジョブ一覧に、四つ目の文字が浮かび上がった。
【隠しジョブ《賢者》――正解】
「……賢者?」
俺は目を見開いた。
神様が提示していなかった、四つ目のジョブ。
しかも、名前からして強そうだ。
「神様! これ、隠しジョブって書いてある!」
「ほう。見つけたか」
「賢者って、絶対すごいやつだろ!」
「選ぶのはお主じゃよ」
そんなの、決まっている。
俺は迷わず《賢者》を選択した。
【初期ジョブが《賢者》に決定しました】
表示を見た瞬間、胸の奥から笑いがこみ上げてきた。
経験値十五倍。
スキルポイント十五倍。
そして、隠しジョブの賢者。
これだけそろえば、最強だって夢じゃない。
「よーし! 今度こそ、絶対に最強になってやる!」
俺は拳を天に突き上げた。
神様はそんな俺を見つめ、静かにほほ笑んでいた。




