第1話 泥臭い辺境令嬢はいらない
豪奢なシャンデリアが眩い光を落とす王城の広間。華やかな管弦楽の調べが響く中、その声はひどく無遠慮に、そして芝居がかった誇張を含んで響き渡った。
「リナリア・ヴォルクハルト。君との婚約は、この場をもって破棄させてもらう」
侯爵令息セドリック・ラウゼン。次期当主として王都の社交界でもてはやされる彼は、傲慢な顎を上げ、冷酷な視線をリナリアに突きつけている。
彼の腕に親しげに絡みついているのは、王都魔導商会連合の重鎮グロウ商会の令嬢、レティシアだ。
最新の流行を取り入れた魔導織りのドレスは、動くたびに微細な光の粒子を振り撒き、彼女の美貌をこれ以上ないほどに引き立てていた。
対するリナリアは、ヴォルクハルト辺境伯領の寒冷地で織られた、地味で厚手な生地のドレスを着ている。
防寒性を重視したその仕立ては、色彩と露出にあふれた王都の貴族たちの中では、まるで農婦が紛れ込んだかのようにひどく浮いて見えた。
銀灰色の髪も、青灰色の瞳も、華やかな光の中ではひどくくすんで見える。
周囲を取り囲む貴族たちの目には、明らかな嘲笑と優越感が浮かんでいた。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
リナリアは静かに問うた。
本来であれば、ここで泣き崩れるのが辺境の哀れな令嬢としての正解だったのかもしれない。だが、彼女の喉から出た声は、不思議なほど凪いでいた。
セドリックは鼻で笑い、レティシアと顔を見合わせてから、大仰に肩をすくめた。
「理由だと? そんなもの、自分の姿を鏡で見ればわかるだろう。泥臭いからだ。君のその煤けたような髪も、洗練の欠片もない振る舞いも、そして何より、常に漂っているその貧乏くさい空気も。すべてが王都の未来にはふさわしくない」
周囲から、くすくすという忍び笑いが漏れる。
扇で口元を隠しながら、貴族たちがひそひそと囁き合う。
「没落寸前の辺境令嬢に、由緒正しきラウゼン侯爵家の妻としての価値などない。だいたい、君の家の古臭い工房など、王都魔導商会の下請けにすらならないガラクタ作りではないか。そんな泥にまみれた家の娘を、これ以上私の横に立たせておくわけにはいかないのだよ」
下請け。
ガラクタ作り。
その言葉がセドリックの薄い唇から吐き出された瞬間だった。
リナリアの頭の奥で、カチリと何かが噛み合った。
視界が激しく明滅する。王城の甘く重い香水の匂いが、突如として鼻腔から消え失せた。
代わりに肺を満たしたのは、焦げた機械油と、削られた鉄の粉と、埃っぽいコンクリートの匂いだった。
『また、だめだったよ。単価を三割下げられて、納期は半月前倒しだ。それでも、首を縦に振るしかなかった。うちみたいな下請けには、他に仕事をもらうあてがないんだ』
『社員の顔が見れない。今月の資金繰りはどうする。銀行はもう貸してくれないぞ』
『社長、少し休んでください。鈴音さん、顔色が本当に悪いですよ。このままじゃ倒れます』
ガン、ガン、ガンと、重いプレス機の音が耳の奥で鳴り響く。
胸を締め付ける、焼け焦げるような鋭い痛み。息ができない。深夜の工場の、冷たいコンクリートの床に倒れ込んだ記憶。
救急車のサイレンの音。そして、永遠の暗闇。
それは、前世の記憶だった。
彼女の前世は、日本の小さな町工場を継いだ二代目女性社長、霧島鈴音。
大企業からの理不尽な要求、容赦のない単価切り下げ、急な仕様変更。下請けという立場の弱さに耐え、それでも社員を守るために文字通り駆けずり回り、最後は資金繰りの重圧の中で過労で心臓を止めた。
呼吸が荒くなる。ドレスの胸元を強く握りしめた。
自分が十八歳の辺境伯令嬢リナリア・ヴォルクハルトであり、同時に三十代で過労死した霧島鈴音であることを、寸分の狂いもなく理解する。
二つの人生が、一つの魂の中で完全に融合した。
今世でも、家は借金まみれだ。
王都商会への莫大な負債を抱え、人の良い父はラウゼン侯爵家を後見として頼った。
その担保として、領地の生命線である工房の管理権の一部を、婚約という名目でラウゼン家に握られている。
だからこそ、セドリックは高を括っていたのだろう。
婚約破棄を突きつけられれば、リナリアは工房を守るために泣き崩れ、すがりつくしかないと。レティシアも、周囲の貴族たちも、皆そう思って見下ろしていた。
だが、リナリアの青灰色の瞳に、涙の膜は一滴たりとも張らなかった。
前世で幾度も味わった、血を吐くような交渉の修羅場。社員の生活を背負って銀行員に頭を下げ続けた日々に比べれば、目の前で胸を張っている青二才の侮辱など、そよ風にも満たなかった。
リナリアは深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。
そして、セドリックを真っ直ぐに見据えた。
「理由については、十分に承知いたしました」
その落ち着き払った、冷ややかでさえある声に、周囲の嘲笑がふっと止む。
「なんだ、強がっているのか? 今さら泣いて謝っても遅いぞ」
セドリックが怪訝な顔をするが、リナリアは瞬き一つせずに言葉を紡いだ。
「婚約破棄は受け入れます。では、違約金と工房担保解除の書面をお願いします。皆様が、今の宣言の証人です」
広間が、水を打ったように静まり返った。
セドリックの顔から、余裕の笑みがパラパラと剥がれ落ちていく。
「な……何を言っている? 違約金だと?」
「ええ。両家で交わした婚約契約書の第三項です。ラウゼン家側からの、正当な理由なき一方的な婚約破棄の場合、ラウゼン家は規定の違約金を支払い、ヴォルクハルト工房への担保管理権を即時かつ無条件で放棄する。相違ありませんね?」
リナリアは一歩前へ出た。
その歩みには、辺境の泥臭い令嬢の怯えなど微塵もない。あるのは、契約と事実だけを武器に戦い抜いてきた経営者の圧倒的な胆力だった。
「泥臭い、没落寸前、下請けにもならない。それらはラウゼン卿の個人的な美的感覚や評価に過ぎず、我が家に帰責事由のある契約上の瑕疵には当たりません。よって、規定通りの違約金をご用意ください。明朝、正式な使者を遣わさせていただきます」
貴族たちの間に、ざわめきが波のように広がっていく。
「おい、聞いたか……」
「ラウゼン侯爵家が、支払う側になったぞ。しかも、自ら声高に宣言して」
「担保管理権も手放すとなれば、大損害じゃないか」
「あんな公衆の面前で宣言してしまっては、後から取り消すことも、言い逃れもできないな……」
さきほどまでリナリアを嘲笑していた声は、今や哀れみと好奇の混じった視線となって、一転してセドリックに突き刺さっていた。
セドリックは顔を真っ赤にし、口を金魚のようにパクパクとさせている。
隣のレティシアも、扇の向こうで引きつった顔を隠しきれずに、すっとセドリックの腕から手を離していた。形勢逆転を悟り、巻き添えを食うのを避けたのだろう。
リナリアは静かに視線を巡らせる。
貴族たちの感情的で無責任な反応の中で、ただ一人、壁際に立つ男だけが異質だった。
夜会服ではなく、かっちりとした公的な軍服に近い装い。
その腕には、王国調達監査官の腕章が巻かれている。
冷たい灰色の瞳が、面白がるでもなく、かといって哀れむでもなく、ただ事実を記録する機械のようにリナリアを見つめていた。
エルネスト・グランヴェル。
彼がこの場にいて、監査官としての厳しい目で事の次第を見たのなら、侯爵家といえども契約の事実を握りつぶすことはできないだろう。
彼は公正な記録者だ。
担保管理権は外れる。工房は奪われない。
莫大な違約金が、首の皮一枚で家を繋ぐだろう。今は、それだけで十分だった。
リナリアは、優雅とは言えないかもしれないが、無駄のない正確な動作で一礼した。
そして、何も言い返せずに立ち尽くす元婚約者へ向けて、静かに、だが広間の全員に届く声で告げた。
「下請けを笑う人間に、ものづくりを語る資格はありません」




