第58話 仮面の皇子
帝都ライヒェンバッハ。カシュタイン子爵邸の応接室。
侍女がテーブルに紅茶を四人分運んできた。
カシュタイン子爵が侍女に命じた。
「ご苦労。下がってくれ」
侍女が退出すると、エルム・クロウが口を開いた。
「閣下。私のような者が同席してよろしいのでしょうか? 部屋の外でお待ちしますが……」
ジークフリードが言った。
「俺は構わない」
「私が皇后陛下の間者だったらどうするのです?」
ジークフリードはエルム・クロウに鋭い視線を向けた。
「わかった瞬間に殺すだけだ」
そう言って、口の端をわずかに歪めた。
「義母上は血にこだわる人だ。王国から逃げてきた女を、よりにもよって俺の身辺に間者として送り込むほど、あの人の誇りは安くない」
マクシミリアンは、まだ張り詰めた空気を払うように口を開いた。
「それにしても殿下、お早いお着きで」
「関所や街で検問やら何やら嫌がらせをされてな。部隊を置いて単身で来た」
「護衛も付けずにですか?」
「護衛など、足手まといになるだけだ」
カシュタイン子爵が笑いながら言った。
「確かにそうですな。それで……本題に移っても?」
「ああ」
「宰相ベルトルトから書状が届きました。五日後に『十二鉄血会議』を開くと」
マクシミリアンがそれを聞いて言った。
「次期皇帝陛下をその会議で決めるということですね。我々は決定を待つのみですか……」
カシュタイン子爵は首を振った。
「いや、今回は特例で皇后陛下、マリウス殿下、そしてジークフリード殿下の出席が認められた」
ジークフリードはため息をついた。
「面倒だな。皇帝の座などマリウスにでもくれてやれ」
カシュタイン子爵が戒めた。
「殿下!」
「冗談だ。政治には興味ない。だが、皇宮でさえずる連中に頭を下げるのはごめんだ。で、狙いは数合わせか?」
カシュタイン子爵が答えた。
「はい。十五人による多数決になると思います。皇后陛下と、幼いとはいえマリウス殿下のお二人が加わり、ジークフリード殿下側は殿下お一人」
マクシミリアンが言った。
「実績も年齢も上のジークフリード殿下を差し置くなど、まったく何を考えているのか」
ジークフリードは自嘲気味に言った。
「帝国人の血が半分しかないからだろう」
その言葉を聞いたエルム・クロウが口を開いた。
「僭越ながら……数合わせだけが目的ではないかと」
マクシミリアンの顔が青くなった。
「待て、エルム・クロウ。お前……」
ジークフリードはマクシミリアンを遮った。
「なんだ? 言ってみろ」
「殿下の御姿を諸侯に見せるためではないでしょうか?」
「おい! エルム・クロウ! それが、どういう意味かわかって言っているのか?! 親父からも何とか言ってくれ」
しかしカシュタイン子爵は止める様子もなく、意外そうな顔でエルム・クロウを見ているだけだった。
ジークフリードは顎に手を当てて聞いた。
「俺が出席するとかえって選ばれないと言いたいのか?」
「はい」
ジークフリードは立ち上がり、剣を抜いてエルム・クロウの額の前に突き出した。
「元王国人。お前、誰に口を利いているのかわかってるのか?」
エルム・クロウは目の前の剣など意に介さず、ジークフリードを真っ直ぐ見据えて言った。
「はい。ジークフリード第一皇子殿下にございます」
「……お前、その目と手は戦場でか?」
「はい」
ジークフリードは剣を収め、どさりとソファーに腰かけた。
「皇帝に相応しくない外見ということか?」
「いえ、それだけではありません。血の匂いです」
「簡単にとれるものでもないし、取ろうとも思わんが……」
エルム・クロウは意を決して言った。
「一日だけ……いえ、会議の数刻だけ」
「なんだと?」
「数刻だけ、私の言う通りにしていただけませんか?」
「断る」
「殿下は負けるのがお嫌いでしょう?」
「当たり前だ。だから数刻であろうと、お前の言いなりになるのもお断りだ」
「最も勝たなければならない勝負を捨てて、小さな負けが嫌でございますか?」
「……」
エルム・クロウは頭を下げながら言った。
「万が一、殿下の望む結果にならなかったときは、私の首と……部下であるマクシミリアンの首を捧げます」
マクシミリアンが一瞬、目を丸くした。
「……俺の首まで、勝手に差し出すな」
そう小さく呟きながらも、彼は慌てて頭を下げた。
カシュタイン子爵が笑いながら言った。
「殿下の負けにございます。この私からもお願いします。騙されたと思って、この者の企みに乗ってみては?」
「……わかった。好きにしろ」
◇
翌日から、カシュタイン邸は嵐のような忙しさに包まれた。
「殿下、お座りください。動かれては髭が剃れません」
「……お前も大概、遠慮がないな」
ジークフリードは苦い顔をしながらも、大人しく椅子に腰を下ろした。
侍女たちは戸惑いを隠せなかった。数日前、あれほど戸惑いながら出迎えた「隻眼の女性」が、今や邸の主人であるかのように次々と指示を飛ばしていたからだ。
「その衣装は駄目です。詰め襟の丈が短すぎます。王国の宮廷儀礼では、王族の襟は喉元を隠すのが基本でした」
「王国と帝国は違いますが……」
「作法が違っても、『見せ方』の理屈は同じです。首元を隠せば、それだけで顔に視線が集まり、姿勢の良さも際立ちます」
侍女長は目を白黒させながらも、黒い軍服姿の女性士官の的確な指示に従わざるを得なかった。
「あの、失礼ですが……あなた様は、いったい……」
「聖騎士団にいた頃、儀礼や式典の警護を何度も務めましたので。作法には、少々うるさいのです。見よう見まねですが、帝国の皇宮なら十分でしょう……あら、ごめんなさい。他意はないのよ」
ジークフリードは鏡に映る自分を見て、居心地悪そうに肩を動かした。
「……このような装いは性に合わん。そもそも俺に似合うと思うか?」
「似合う必要はございません。『それらしく見える』だけで十分です」
「同じことだろう」
「違います。似合う人間は、気を抜いても様になります。殿下はまだそこまでの余裕がありませんので、崩さぬよう気を張っていてください」
「言うようになったな、元王国人」
「殿下がそう仕向けたのでしょう」
「ところで、会議中の数刻だけの約束だったが……この時間はどうなるのだ」
「数刻のための準備時間です」
「口が減らん奴だな。マクシミリアンでは相手にならんはずだ」
カシュタイン子爵が扉の隙間から覗き込み、感心したように呟いた。
「これは……見違えましたな」
無精ひげは丁寧に剃り落とされ、乱れていた髪は一つに束ねられている。すっと伸びた背筋に、皇家の色である漆黒の正装がよく似合っていた。
もはやそこに、街で剣を抜いた無頼の男の面影はなかった。
「殿下。最後にこれを」
エルム・クロウは翡翠の耳飾りを見せた。
「ふざけるな。俺がそのような装飾品など」
「殿下のその緑色の瞳にお似合いかと」
「……」
ジークフリードはエルム・クロウの掌から奪い取った。
「気が向いたらな」
◇
そして十二鉄血会議の前夜。
帝都ライヒェンバッハの皇宮にある宰相執務室。
この部屋の主であるベルトルトと皇后ベアトリクスは、ソファーに座り、ワインを傾けていた。
「ジークフリードはすでに帰ってきていたようだな」
「はい。帝都の門番が傭兵にしては良い馬だったため、呼び止めたとのことで」
「なるほど、傭兵か……お似合いだな。いずれ帝国の元帥になるのだからな」
「して、皇后陛下。ザイデン将軍は何と?」
「言わずもがな。マリウスにつくとのことだ。よほど恨みがあるのであろう」
「良い傾向ですな。皇族の方を含め十五人。過半数の八票で決します。ザイデン将軍がマリウス殿下を支持されたことで、すでに七票になりますな」
「ふむ。あと一人でよいのか」
「おそらくですが、ジークフリード殿下の支持はご本人合わせて四名。問題は残り四名の大貴族です」
「カシュタイン子爵の影響を考えるとどうだ?」
「四人全員がジークフリード殿下を支持することはないでしょう。しかも、あのお姿を見たら、四人以外からも鞍替えする者が出るかもしれませんぞ」
「ジークフリードの奴の支持が本人一人だけということにならないことを祈っておるぞ。ふふ、さすがに哀れだからな」
「その場合は、私が支持にまわりましょう。元帥になるにも体裁が悪いですから」
「よろしく頼む。明日が楽しみだな」
ベルトルトは皇后のグラスにワインを継ぎ足した。
「新皇帝マリウス陛下の誕生に……」
「帝国の未来に……」
「乾杯」
グラスが触れ合う軽やかな音は、まるで戦の合図のようだった。




