第44話 薔薇の王子
アドリアン・ローゼンベルク。
国王フィリップの次男として、彼は生を受けた。
三歳上の兄クリスチアンと、二歳下の腹違いの妹リーゼロッテの三人兄弟だった。
「クリスチアン殿下、ご立派でした!」
訓練場に大歓声が響く。
当時まだ十歳だったアドリアンは、その熱狂の輪の外から、静かに兄を見つめていた。
木剣を握るクリスチアンは、誰よりも剣の才能があるわけではない。
それでも相手を気遣い、戦いの後には必ず優しく手を差し伸べる。
「流石は王太子殿下です」
「将来は必ずや、名君になられますな」
周囲がそう口にするたび、アドリアンの胸の奥には小さな、しかし鋭い痛みが走った。
「アドリアン」
振り返ると、汗を拭った兄が笑っていた。
「次はお前とやろう」
「……兄上には勝てません」
「そんなことはない。お前はよく考えて剣を振る。私にはない長所だ」
クリスチアンは本気でそう言っていた。
だからこそ、アドリアンは返す言葉を失う。
兄は優しすぎた。
そして優しすぎるからこそ、誰からも無条件に愛されるのだ。
誰も兄を疑わない。
兄が笑えば皆が笑い、兄が頷けば皆が従う。
アドリアンには、それが少しだけ眩しかった。
(どうして兄ばかりなんだ)
◇
数年後。
王宮の一室で、リーゼロッテは嬉しそうに一体の人形を抱いていた。
金色の髪をした、美しい姫君の人形。亡き母の形見だった。
「可愛いでしょう、お兄様」
アドリアンは妹の手から人形を取り、首を傾げた。
「これは、おとぎ話『竜と薔薇姫』の王女か?」
「そうよ」
「あの話の王女は、黒髪のイメージなんだがな」
翌日。
人形の金髪は、アドリアンの手によって真っ黒に染められていた。
「……!」
部屋に入ったリーゼロッテは、それを見るなり泣き崩れた。
「どうして……どうしてこんなことをするの……!」
「『竜と薔薇姫』の王女にしてあげたんだ」
アドリアンは本気でそう思っていた。
その方が物語に近い。
だから、きっとリーゼロッテも喜ぶと思っていた。
騒ぎを聞いて駆けつけたクリスチアンは、黒く染まった人形を見つめ、それから弟へ静かに視線を向けた。
「アドリアン」
怒鳴ることはしなかった。
「お前は、リーゼロッテのためを思ったんだな」
「そうだ」
「だが、人の大切なものは、その人のままであってこそ意味があるんだ」
「……」
「お前がどれだけ正しいと思っても、それを勝手に変えてはいけないよ」
その様子を後ろで見ていた父王フィリップは、満足げに頷いた。
「流石はクリスチアンだ。よく諭した」
その一言だった。
また兄だ。また兄が正しいのだ。
アドリアンの胸に、深く消えない棘が刺さった。
◇
あるとき、アドリアンは家臣の一人に尋ねた。
兄が国王に即位したとき、次男である自分の立場がどうなるのかを。
「兄上が王になったら、私はどうなる?」
「大公となられますな。領地も拝領されます」
「しかし、王国に大公領など存在しないではないか。では、これまでの大公はどうなったのだ?」
家臣は困ったように小さく首を振った。
「大公の地位は、王弟殿下一代限りのものでございます」
「……一代限り?」
「はい。一代限りのお立場ゆえ、薨去の後は領地も爵位もすべて王家へ返還される決まりとなっております」
いずれ歴史の隅に消えていく存在なのだと、十代半ばのアドリアンはその時初めて知った。
◇
それから数年後。
王太子クリスチアンは病に倒れた。
国中の名医を集めてあらゆる手を尽くしたものの、その若い命を救うことはできなかった。
国中の誰もが若き王太子の死を惜しんだ。
「惜しい方を亡くした」
「クリスチアン殿下なら、必ずやこの国を導く名君になられたでしょうに」
アドリアンもまた、涙を流した。兄を失った悲しみそのものは、決して偽物ではなかった。
そして、盛大な葬儀が終わると同時に、彼は新たな「王太子」となった。
厳かな玉座の間。
居並ぶ重臣たちが、一斉に彼へ頭を下げる。
その静寂の中で、一人の老臣が小さく声を漏らした。
「……クリスチアン殿下が生きておられれば」
あまりにも小さな、誰の耳にも届かないはずの呟きだった。
だが、一人だけ、それを確実に聞き取った者がいた。
アドリアンである。
(また、それか)
彼には、誰一人として自分を祝福していないように思えた。
誰もが失われた兄を惜しみ、誰もが過去だけを見つめていた。
父王は静かに告げた。
「アドリアン。お前が今日から王太子だ」
「……はい」
「亡きクリスチアンに恥じぬ王となれ」
その瞬間だった。
アドリアンの心の中で、何かが完全に弾けた。
兄を超えよう。
いや、違う。兄をこの国から完全に忘れさせてやる。
誰もがクリスチアンではなく、私の名を語り、称える王になればいい。
死んだ兄ではない。私こそが、この国を導く唯一の絶対的な王なのだ。
その日から、アドリアンは単に戦いに『勝つこと』ではなく、後世に『語り継がれる英雄』となることを異常なまでに求め始めた。
そしてローゼンベルク王国には、すでに誰もが語り継ぐ伝説の英雄が存在していた。
『聖女将軍ヒルデガルド』
あるとき、アドリアンは立ち寄った宮廷美術館で、一枚の神々しい肖像画を見つけた。
それは光をまとい、かつての戦女神の再来と見紛うほどの美しさと威厳を放っていた。
「これは素晴らしい。聖女将軍の肖像画かい?」
案内していた館長は、恐縮しながら深く頭を下げた。
「いいえ、殿下。こちらは聖騎士団団長、セレスティーヌ・フォン・ランカスター公爵令嬢の近影でございます」
「ランカスター? ……これが、ルチアの姉か」
アドリアンは目を細め、その肖像画をじっと睨みつけた。
あの時、国中が死んだ兄を惜しみ、そして今度はこの女性を『聖女将軍の再来』と称えて熱狂している。
(英雄は、一人でいい)
アドリアンは肖像画から目を離さなかった。
(その英雄は私でなければならない)
しばらく黙って見つめたあと、小さく笑う。
(ならば、その英雄も私のものにすればいい。英雄の隣に立つ者もまた、英雄でなければならない)
◇
王都への出兵のため、宿営地に集まったセレスティーヌ軍とライネル率いるロシュフォール侯爵軍の兵士たちは、高台に立つアドリアンを見上げていた。
ライネルがアドリアンに話しかけた。
「……殿下。アドリアン殿下?」
「ん?」
「兵が集まっております。皆、殿下のお言葉を待っております」
「……そうだったな」
アドリアンは視線を巡らせ、高台の下を埋め尽くす二万の兵士たちを見下ろした。
「我がローゼンベルクの精鋭たちよ! 私は今日、この日を迎えたことを誇りに思う!」
静まり返った宿営地に、アドリアンの声だけが吸い込まれていく。
「我らは先の戦において、帝国軍の猛攻を退けた! だが、アルテール平原での勝利は、単なる始まりに過ぎん。帝国に侵略され、屈辱のなかに喘ぐ我らが王都……そこには今も、救いを求める我が同胞たちが血の涙を流している!」
アドリアンは拳を握り、兵士たちを煽るように声を一段と張り上げた。
「いま、帝国軍の主力は本国へ向けて敗走を始めた! これは神が我らに与えられた、千載一遇の好機である! 侵略者に鉄槌を下し、王都の空に再び我が国の旗を掲げるのは、他でもない。今ここにいる諸君らだ!」
兵士たちの間に、じわじわと熱気が伝播していくのが分かった。実戦を経験し、勝利の味を知った兵士たちにとって、『王都奪還』という言葉はこれ以上ない特効薬だった。
「私は王太子として、そして全軍の総大将として、諸君らと共に戦場へ赴く! 剣を振るうのは諸君らだが、その勝利の栄光の先頭に立つのは、この私だ!」
アドリアンは一気に剣を抜いた。白銀の刀身が陽光を浴びて眩しくきらめく。
「我らの歩む道こそが、これからのローゼンベルクの歴史となる! 我ら自身の手で、新たな伝説を創り上げるのだ! 進軍せよ! 目指すは我が故郷、王都である!」
「うおおおおおおおおおおおっ!!!」
地響きのような大歓声が巻き起こった。
突き上げられる無数の槍と剣の波。それを見たアドリアンは、興奮に震える手で愛剣を握り直し、満足げに口角を上げた。
(聞いたか、クリスチアン兄上。この歓声は、もうお前ではなく私に向けられている。やがて国中が私の名を語り、歴史は私を英雄として刻む)
その視線は自然と、白銀の鎧を纏う少女へ移った。
(そして、その英雄の隣に立つ資格があるのも、お前だけだ)
熱狂の渦の中心で、アドリアンはただ一人、自らの野望の始まりに酔いしれていた。




