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第18話 森での商談

巨木と布で編み上げられた宮殿に、張り詰めた緊張が満ちていた。

引きずり出されたピエトロの正体は、バザル・アムの商人などではなかった。その実態は、ヴァリシア公国軍に所属する工作部隊の密偵。


愛娘ルナを攫い、あまつさえ恩人を装って集落へ入り込もうとしたその非道な策略に、イルーシアの怒りは沸点に達していた。


「――この者共を即刻、処刑せよ! 我が森の掟に従い、土の肥やしにしてくれる!」


激昂するイルーシアが処刑を命じようとしたその時、カイルが静かに制止の手を挙げた。


「お待ちください、イルーシア殿」


「止めるな、カイル殿! こやつらは我が娘を、我が同胞を弄んだのだぞ!」


「処刑してしまえば、そこで終わりです。それに……たとえヴァリシア産であっても、今この森から塩の供給が完全に途絶えれば、困るのはあなた方のはずだ」


カイルの冷静な指摘に、イルーシアは唇を噛み締めた。


「しかし……黙って見過ごすことなどできん!」


「ええ、もちろん。ですから『商談』ではなく『外交』をしましょう」


カイルは、地面に這いつくばるピエトロを冷徹な瞳で見下ろした。

「ピエトロ殿。もし自由都市同盟リベルタ・カンダムが、ヴァリシア公国がバザル・アムの名を騙り、詐欺同然の行いをしていたと知ったら……どうなると思う?」


ピエトロの顔から、さらに血の気が引いていく。


「同盟はお前たちの国との取引を即座に停止するだろうな。この大陸の物流を握る自由都市同盟リベルタ・カンダムを敵に回せば、公国は自給自足で生きていくしかなくなる」


カイルは一歩踏み込み、逃げ場を奪うように言葉を重ねた。

「主力産業である『黒鋼』を輸出し、公国で採れない必需品を輸入することで、お前たちの国は成り立っている。……自給自足など、到底不可能だ。国が干上がるのを待つか、それともこちらの条件を飲むか。……選ぶのはお前たちだ」


「くっ……して、その条件とは」


這いつくばったまま、ピエトロが震える声で問う。カイルは冷徹な眼差しを崩さず、三つの条件を突きつけた。


「一つ。サリナッツォ湖産の塩は、今後も継続して取引すること。ただし、これまでの詐欺的な価格ではなく、適正な相場でだ」

「二つ。ヴァリシア公国は、この森への侵略行為を当面一切行わないこと」

「そして三つ目。これらを単なる約束ではなく、国家間の正式な条約として締結しろ」


ピエトロの顔が苦渋に歪む。だが、カイルの追撃は止まらない。


「イルーシア殿。ヴァリシア公国は到底信用に値しません。私がバザル・アムの知人に書を送り、念のために正式な塩の取引ルートを確立させましょう。保険は多いほうが良い」


カイルは笑みを浮かべながら補足した。

「それに新たな交易の可能性も増えるかもしれませんよ。自由都市同盟リベルタ・カンダムの市場に、この森の特産品が並ぶ日も近い」


「……カイル殿。貴殿の配慮、痛み入る」

イルーシアは深く頷き、信頼を込めた眼差しをカイルへ向けた。


「そして、もし公国が条約を違えるようなことがあれば、即座に自由都市同盟リベルタ・カンダムへ『公国による詐欺行為と条約破棄』を伝えるといい。彼らが黙っているはずがない」


血の気の引いた顔で、ピエトロが震える唇を動かした。


「……私の一存では、そのような重大な決断は……」


「わかっている。本国に戻り、上層部といくらでも相談してこい」


言い淀むピエトロを、カイルは冷たく突き放した。


「答えは一つしかないはずだ。国を滅ぼしたくなければな」



ピエトロたちが解放され、宮殿に静寂が戻った後。

フェリックスが不思議そうに首を傾げ、カイルに問いかけた。


「なあカイル。塩を適正価格でって……もっと吹っ掛けても良かったんじゃねえか? あいつらの弱みを握ってるんだしよ」


「……フェリックス。追い詰めすぎた鼠は、時に猫を噛み殺すものだぞ」


カイルは窓の外、森の様子を見つめて答える。


「この件で、公国は『鉱石マグナイトの供給が断絶するのではないか』という不安に駆られる。ここでこちらが法外な要求をすれば、奴らは『破綻するくらいなら、いっそ森を奪い取った方が早い』と更なる強行手段に出る可能性があるだろう」


「なるほどな。背に腹は代えられなくなるか……」


フェリックスが納得したように頷くと、カイルは不敵な笑みを浮かべた。


「ああ。だからこそ『今まで通り鉱石マグナイトは手に入る』と安心させてやるのさ。それが結果として、奴らの侵略を阻む、最強の抑止力になる」


イルーシアはカイルに向き直ると、静かに、だが重みのある声で告げた。

「カイル殿。娘の命を救い、さらに我が一族の窮地をこれほどまでに救ってくれたこと……もはや感謝の言葉も見つからない」


カイルは静かに姿勢を正し、族長イルーシアを見据えた。

「イルーシア殿。では今度は『王国』と『シルヴァ氏族』の『商談』をさせていただきたい」


「商談だと?」


「その前に、まず断言しておきます」

カイルは隣に座るセレスに視線をやり、言葉を継いだ。

「彼女の行動は純粋な慈悲心によるものです。ルナ殿を救いたい。ただその一心で、彼女は動きました」


「分かっている。ルナのことだけでなく、塩の件でも大変世話になった。その気持ちを疑うわけがなかろう。喜んで取引に応じよう。鉱石マグナイトなら、できる限り都合をつけよう」


イルーシアの快い返答に対し、カイルは首を振った。

「いえ。欲しいのは鉱石ではなく――兵士です」


「兵士だと……?」


「私がこの地へ足を踏み入れたのは、ルナ殿の護衛だけでなく、貴方方に協力を求めに来たからです。我々は公国軍四千を壊滅させ、後方の憂いを排除しました。だが、アルクリーズ城の兵を仮に五千を借りられたとしても、我が軍は一万に満たない。王都に居座る帝国軍と戦うには、まだ戦力が足りないのです」


カイルの冷徹な分析に、同席していたセレスも表情を引き締める。


「援軍か。……だが、貴殿らのように何千もの数は集められんぞ」


「数は必要ありません。我々が求めているのは、エレフィン族の『弓』です。精密で長射程の狙撃は、我が軍にとって計り知れない価値がある」


イルーシアの表情が、少し曇る。

「森の外か……。本来なら、関わりたくはないな」


「お母様、私を行かせてください!」

その時、柱の影で見守っていたルナが、必死の形相で飛び出してきた。


「ルナ!? 聞いていたのですか。貴女はまだ安静にしていなさい」


「嫌です! 私はセレス姫様に恩返しがしたい。あの方と一緒に、ヴァリシアや帝国と戦いたいのです!」


娘の無謀な、けれど曇りのない訴えに、イルーシアは言葉を失った。


セレスは驚きに目を見開いたが、自分を見上げるルナの瞳に、かつての自分自身の姿を見た。


父の反対を押し切り、亡き母の言葉を信じて騎士になると決めた、あの日の自分だ。


――『自分の道を選ぶ自由を持ちなさい』


「ルナ、本気なの?」


セレスは優しく、だが一人の戦士としてルナを見つめた。


「はい、セレス姫! 私は、貴女のような強くて優しい姫になりたい。森に閉じこもっているだけじゃ、何も知らない、何も守れないって気づいたんです!」


「……私もね、ルナ。今の貴女と同じだった。周りにどれだけ止められても、危ないと言われても、自分の決めた道をどうしても譲れなかった。だから、その瞳に宿った火を、私には消せそうにないわ」


セレスは顔を上げ、苦渋に満ちた表情のイルーシアを真っ直ぐに見据えた。


「イルーシア様。私はルナの意志を尊重します。もし彼女を連れて行くのなら……私は命に代えても彼女を守り抜くと誓いましょう。ローゼンベルクの聖騎士団長の名誉にかけて」


その宣言が、宮殿の空気を震わせた。


イルーシアは沈黙した。セレスの瞳に宿る覚悟と、娘の揺るがぬ意志を交互に見つめ、やがて、小さく息を吐いた。


「……その言葉、森の精霊(エレフィナ)の名の下に聞き届けました。ローゼンベルク王国聖騎士団長セレスティーヌ。我が愛しき娘と、一族の誇りを貴女に託しましょう」


「お母様……!」


「ルナ。森の外は精霊の加護が届かないかもしれない。十分に注意するのだぞ」


母の懸念に、セレスが静かに微笑んで答えた。

「イルーシア様、大丈夫です。自分を正しく見つめ、奢らず、謙虚に行いをすれば、必ず『加護』は届くはずです。ルナなら、特に」


イルーシアは即座に、娘に同行する勇者を募った。

こうしてセレス率いる一行に、森の精鋭たる五十名のエレフィン長弓部隊が加わることとなった。


ルナという新たな仲間、そして頼もしい援軍と共に。

聖騎士団は、次なる戦いへと歩み出したのだった。



グランゼイド帝国。

帝都ライヒェンバッハの威容を誇る宮殿、その王座の間には重苦しい沈黙が流れていた。


玉座に深く腰掛けた皇帝ヴィルヘルム三世は、手元の報告書を忌々しげに放り投げた。隣に控える宰相ベルトルトへ、氷のような視線を向ける。


「……王都占領以降、連戦連敗ではないか。我が帝国の精鋭が、王国の残党ごときに手こずっているなど、もはや笑い話にもならんぞ」


「陛下、恐れながら……。聖騎士団の参謀役に、カイル・ヴァルデンなる男が加わったようです」


宰相が冷や汗を拭いながら告げると、皇帝は不愉快そうに目を細めた。


「変わり者として軍を追われ、辺境で朽ち果てただけの男だと思っていたがな。……ふん、腐ってもヴァルデンということか」


皇帝は鼻で笑い、苛立ちを隠さずに言葉を継いだ。


「埒が明かぬ。マクシミリアンを呼べ」


数刻後。謁見の間に現れたマクシミリアンには、かつての傲慢さは微塵もなかった。床に這いつくばるようにして、震えながら恐縮している。


「マクシミリアン・フォン・カシュタイン。貴公も、例の『戦女神セレスティーヌ』に不覚を取ったそうだな」


「……お、仰る通りにございます。弁解の余地もございませぬ」


「本来ならば厳罰に処すところだ。だが、ヴァリシア公国との国境紛争で見せた貴公の働きに免じ――何より、古くからの友人であるカシュタイン子爵が、息子のために必死に頭を下げてきたゆえな。今回に限り、不問に付してやろう」


「はっ! 寛大なご慈悲、痛み入ります!」


マクシミリアンが安堵の息を漏らしたのも束の間、皇帝の冷徹な声が追い打ちをかけた。


「その代わりだ。直ちに兵五千を率い、王都方面へ向かえ」


「はっ、承知いたしました! ……王都ローゼリアを占領しているディートハルト将軍の指揮下に入る、ということでよろしいでしょうか?」


「いや、王都ローゼリアへ入る前に合流せよ。その地には、ディートハルトの副官を務めていたエルム・クロウという者を向かわせてある。以後、貴公はその者の差配に従え」


マクシミリアンはその名を聞き、直感的に偽名だと悟った。

知恵の黒烏(エルム・クロウ)――。それは神話の中で、戦女神エイリーンを裏切った「使い魔」の名だ。


だが、それを指摘する勇気などあるはずもない。マクシミリアンは顔を伏せたまま問いかけた。


「エルム・クロウ……? 聞き及ばぬ名ですが、いかなる人物でしょうか」


皇帝は薄く笑みを浮かべた。

「かの王都ローゼリア急襲作戦、その立案者だ。……不服はあるまい?」


「……ハッ! 承知いたしました!」


マクシミリアンは深々と一礼し、逃げるように玉座を辞した。

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