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救出

 捨松という御用聞きは、親方の反撃を喰らってから五日ほどになるというのに姿を見せていない。間違いだったことに気付いたのか、それとも裏工作に血眼になっているのか、薄気味悪さが拭えないまま日が経っていた。


「ごめんなさいよ」

 風采のあがらない若者が一人、時分時を外して昼飯を注文した。イワシの煮付けに目を細めながら飯をかきこむ。誰かに追われているような忙しない食べ方だった。

「残り物ですまねぇが、よかったら」

 椀がそっと添えられた。湯気の上がる味噌汁である。客は椀を見、気を利かせてくれた親方を見、軽く会釈した。そして、椀の中に飯を入れようとする。

「おいおいおい、喰えなくなっちまうぜ。慌てねぇで、ゆっくり喰いな」

 慌てて制する声にあらためて椀の中を見てみれば、小粒だが黒光りした貝が口を開けていた。


 ズッ、熱ちっ……、フーフー、ズズッ、ズズズッ……

 舌に馴染んだ味がした。


「兄さん、わけありかぃ?」

 食事のしかたでピンときた親方は、念のためにと味噌汁を振舞ったのだ。すると、思ったとおり汁椀に飯を入れようとする。これは間違いない、自分も人様が見たらこうだったんだなと切なくなってきた。

「お訊ねしやすが、ご亭主さんはどちらで?」

「亭主ってぇご大層な者ぁいねぇが、俺が主だよ」

 二人の視線が絡み合った。ふっと力を抜いた客が懐から布の切れ端を出して見せた。

「高山様の使ぇでめぇりやした、イハチと申しやす」

 客の手には、忘れようとして忘れられない柿色の布。人足寄場のお仕着せの色だ。

「高山様からの伝言でやす。いつも通りにしてろと。万一しょっ引かれることになっても、手向かいするなとも仰っておりやした。徳市のこったから言うまでねぇが、でかい態度でいろとも仰っておりやした」

「そうかい、わざわざそれを教えに来てくれたかい。ありがとうよ」

「富田町の捨松、こいつには別の者が張り付いてやす。それと、親方が飯をやっている相手がどこの誰かも調べとりやす。とにかく、感付かれると困りやすので」

「おうおう、おりがとうよ。一切のみこんだ、そうお伝えしてくんな。ところで、どうだい、もう一杯」


 先にも述べたが、人足寄場は出入りが厳重に監視されてはいるが、決して禁足ということではない。実際、寄場への船着場周辺には柿色の着物があちこちで働いているのだ。だからといって勝手に逃げようとでもすれば、軽くて叩き、下手をすれば死罪になるのだ。とはいえ、逃げようと考えるのは馴れぬ間のことである。日々の生活の中で、更生させようと心を砕いていることを知ると、逆に居心地が良い場所でもある。高山は、人足の中から十分に立ち直り、目端の利いた者を張り付けてくれたようだ。

「旨かったぜ、また寄らせてもらうぜ」

 戸口で振り返った客は、そういい残して人の波に姿を消した。


 あれから幾日かたつが、捨松が動こうとしないことに苛立っている男がいる。北六間堀を根城にしている義助という御用聞きである。先代から縄張りを受け継いだのはいいが、正業についていない。些細な揉め事に首をつっこんでは仲裁料をせしめるのが生業となっていた。だから、つまらない失敗を見つけては銭をせびるので、縄張り内では相手にされなくなっている。それでブラブラうろついたあげく目をつけた中に大瓢箪があった。他の店は、厄介払いのつもりで小銭を渡したのだが、大瓢箪だけはそうはいかなかった。店主のことを探ってみると、昔は盗賊をしていたことがわかり、それをネタに強請ろうと考えたのだ。ところが、それに屈するどころか、言いふらせと開き直られる始末。どうにか尻尾を掴んでやろうと見張っていると、こんどは盗賊改めの同心が現れた。それも、刃引きではないと刀を叩いてみせたのだ。それで諦めればよかったのだが、掻かされた赤恥を雪がなければ気持ちが収まらない。無い知恵を振り絞ったあげく、腹痛騒ぎを思いついたのだ。


「どうだぃ、ちょっと手ぇ貸せば小遣けぇくらいにゃなるが、乗らねぇか?」

 大瓢箪で振舞っているムスビを奪うようにして食べる若者がいた。われ先にもらったものを物陰で大急ぎで食べてしまった若者は、そ知らぬ顔で二度目の振舞いにあずかった。こそこそと小狡いことをする若者だった。時刻は、朝の早い職人が仕事に出かける頃合いなのに、腫れぼったい目をしている。仕事をせずにブラブラしてやがるなとふんだ義助は、手下の甚六に後をつけさせた。

 蛤町から大和町へは一直線である。突き当たった堀端を右に折れ、なおも真っ直ぐ行けば永居橋。それを渡って汐見橋はもう見えている。そこを渡ると入船町。材木置き場を背にした古い長屋に入って、それきり出てこない。井戸端にたむろしていた女房どもにそれとなく探りを入れると、遊び人気取りで評判の悪い者たちであった。仕事をせずに遊び呆けているような奴なら使い捨ててかまわない。義助の脳裏にそんな囁きが響いてきたのだ。

 夜を待って見張っていると、薄暗くなりかけた汐見橋を二人連れ立って夜の灯りに吸い寄せられるように歩き出した。

 そのときはそれで終わった。しかし、行く先々でいくらかでも握らせてもらえるというのに、大瓢箪だけが大きい顔して店を続けている。十日経ち、二十日たって悔しさがつのってきたのだ。こうなったら銭金の問題ではない。若者を捕まえて小遣い稼ぎをふきこんだのだ。コケにされて一ト月以上経っていた。


「なぁに、簡単なことだ、子供にだってできらぁ。ちょちょっと耳打ちするだけのことだぞ、それで小遣ぇが手に入ぇるって寸法よ」

 言葉巧みに誘い水、案の定若者はとびついてきた。だが、頭がないのと狡賢いのとは別物で、報酬の上乗せを要求したのだ。義助が約束した一朱では中途半端にしか遊べないからと、倍の一分を要求したのである。しかも、一人当て一分だ。腹の中で舌打ちしながら、義助はそれを呑んだ。


「お前ぇたちはなぁ、どっかの御用聞きに訴え出るだけでいいんだ。小ざっぱりした身なりの奴を選ぶんだぜ。でな、こう言うんだ。施しを受けたムスビを喰って腹が痛くなりやした。仕事に出られねぇで銭が底をついてます。親分さんのお力で取り立ててくだせぇ。それ以上は言うんじゃねぇぞ、わかったか?」

 それがどういうからくりで金になるのか考えもせず、たまたま見つけた小粋な御用聞きに訴え出たのであった。

 細かな口裏合せをしていないために、事細かに説明することができず、最近は夜に配っているという噂は耳にしたが、その頃は岡場所で酔客から銭をせびるのに忙しいときである。つまり、自分たちが貰っていたことを想像して言い立てたのである。訴えを受けたのが富田町の捨松だった。


 大瓢箪で毎朝施しをしているという噂は、ずいぶん遠くまで広まっている。他人の難儀に目を瞑らねば暮らせない世の中ではあるが、どう工面しているものやら、長く続けているということである。それだけ見れば美談だ。お上ですら避けていることを、一介の飯屋が続けているのは感心なことだ。が、腹痛が出たとあっては話が別だ。事の仔細を明らかにして、再発せぬようにしなければいけない。場合によっては罰も与えねばならないことだと思った。

 施しをしている現場を窺ってみると、竹の皮に包んだものを大事そうに抱えて帰る者がいた。その数、五人や十人ではないのだ。店から漏れる明かりを浴びたその人々は、髪もサンバラにやつれた表情をしていた。あんな者たちに腐ったものを食べさせればイチコロだろう。すぐに止めさせねばと思いはしたが、腹痛をおこした日から十日経っているというのに、あの人達は病気のようには見えなかった。ただ飢えているようにしか見えなかった。翌朝、近所を回って腹痛や下痢の噂はないかと尋ねたのだが、誰もが首を横にするばかりだった。

 下調べをしてみても気がかりな噂すら洩れてこないことに、捨松は苛立ちを感じていた。飯屋はある、施しも続けている。そして妙な噂は洩れてこない。一方で、施しを受けた者がいて、腹痛をおこしたという。どうにも二つが繋がらないのだ。こうなったら……。


 店を訪ねた捨松は、相手があまりに堂々としているのに面食らった。よほどヘマでもしない限り、お上の御用と言えば引き下がるのが普通の人だ。それなのに、あの親父は面と向かって言いたい放題ぬかしやがった。挙句の果てにどんなムスビだったと謎掛けのようなことを言った。訴えがあったのは、十日ほど前に食べたムスビだった。それを口にしたとたん、一瞬だが怪訝な表情をしやがった。そして、莫迦にするような目つきに変わった。そのあげくにムスビのことを聞いたのだ。捨松は、どんなムスビだったかなんて聞いてはいない。それにだ、夜に配っているムスビが腐ってるなんて考えられない。今日の残り物を明日の朝配るのなら、もしかすると腐るということもありうるが、そういうことをしているのだろうか。

 捨松は、訴人にもう一度会わねばと思った。


 若者に会わねば、詳しい話を聞かねばと思いながら、捨松は稼業の指物に追われていた。空き巣の、押し込み強盗の、人殺しのと、嫌でも仕事を放り出さねばならないことと違い、訴え事は些細なできごとだ。それにひきかえ、旗本屋敷の改修を請け負った棟梁から日限が決められているのだから、当然のことに腹痛などは後回しにした。注文の障子が仕上がって納めたのがそれから六日後。つまり、訴えを受けて八日が経っていた。


 やれやれの想いで聞き措いた処へいってみても、本人たちは留守であった。夜に出向き、朝に出向いても留守であった。こんなことに関わっていたら面倒なだけだ。そう思って訴え書きを握りつぶしてしまおうとしたのだが、間の悪いことに、それが同心の目に留まってしまった。

「捨松、この訴え、受けて幾日になる。事の仔細を見定めねば、威信にかかわるぞ。早急に詮議いたせ」

「へえ。お言葉を返すようですが、どうにも合点がいかねぇことばかりでやして、その訴人から話を聞こうとしやしたが留守ばかり。どうすればいいか、頭を悩ませていやす」

「なにを甘いことを申しておるか。その者を引き立てて問いただせばよかろう。何度も同じことを問うてみよ、必ず違うことを言うはずだ。そこを衝けば白状するであろう」

 鶴の一声であった。


「じゃまするぜ」

 暖簾を押しのけるような声であった。ひょいと暖簾をめくって入ってきたのは、いつぞやの御用聞き。たしか、富田町の捨松とかいう奴だ。あれから姿を現さないから諦めたと思っていたら、ひょっこり入ってきやがった。今日ばかりは追い返すことが難しいのかな。徳市は、店の真ん中まで出て対峙した。

「客か?」

「生憎だがそうじゃねぇ。お前ぇに話があって来た」

「さぁて、なんのことだか。まあいいや、早くしてくんな、こちとら客商売なんだ。陰気くさい顔はごめんだ。威気高な話し方もな」

「だろうがな、好きで陰気くさいわけじゃねぇんだ。ところでなぁ、この前ぇのことについて詳しく聞かにゃならなくなってよぅ、面倒だろうが付き合ってくんな」

「付き合う? 嫌なこった。見ての通り商売の真っ最中だ。撥ねてからにしてくんな」

「そうしてやりてぇがな、そうもいかねぇんだ。どうでも聞かにゃあならねぇ……、てぇこった」

 捨松に連れられて自身番に行く親方を見つめる目が三つ。義助と甚六、それをも見つめるイハチがいた。


 自身番では、何度同じことを問われても、まったく同じ返答をする親方に手を焼いていた。

 中に入るなり、当然のように土間に正座させようとする捨松に、親方が猛然と反発した。

「こらっ、莫迦野郎。話が聞きてぇってからわざわざ来てやったのに、なんだこの扱いは。俺に咎があるってぇのならともかく、素っ堅気を罪人扱いすんのか」

 徳市は、そう言って畳にどっかと胡坐をかいた。そればかりか、訴人の申し立てたことについて、あれこれ問い返しさえしたのだ。

 徳市は落ち着いている。誰かが自分を陥れようとしていると疑っているのだから、頭の芯は冷え切っていた。日付を問えばいいかげん、ムスビのことを訊ねてもシドロモドロである。昼過ぎに始まった尋問は、もう夕刻になっていた。


「往生際が悪いぞ。いいかげんに白状しやがれ」

 捨松は、すっかり草臥れていた。徳市の言うことに齟齬があれば追及の糸口になるのだが、何度迫っても同じ返答しか返ってこないのである。自分が間違っていないという自信がないのだから、よけいに気持ちがのらないのだ。

「いいかげん諦めろ。何べん聞かれてもおんなじことしか言えねぇんだ」

 徳市の言い方にも、哀れみが混じってきていた。この捨松は、半信半疑で取り調べているのがまるわかりなのだ。

「どうしても喋らねぇんなら、泊まってもうことになるぜ」

 殺し文句のつもりだった。自身番とはいえ、狭いながら牢を備えているのだから、その一言は牢に入れるという脅しなのだ。この言葉を使った時点で、負けに違いない。

「上等じゃねぇか、泊まってやってもいいぜ。そのかわり、布団か寝ゴザ出しな。それと、飯。酒も一本つけてくれ」

 ところが徳市は、あっさりそれを受け入れた。あまつさえ、晩酌を要求さえした。

「莫迦、そんな番屋があるか」

「やかましい。おらぁ罪人じゃねぇや」

 夜が更けるまで応酬が続いた。



 翌日も、また翌日も親方は自身番に留め置かれていたが、四日目に大瓢箪を訪ねる者があった。

「だったらなんですか? やってもいないことで罪に落とされるのですか?」

 親方の様子を伝えにきてやったと、恩着せがましい言い方をする御用聞きであった。どんな罪で親方が訴えられているか、かなり詳しく説明するのだが、つねに上目遣いをする男だ。あの徳市に育てられたお君は、少々のことでは退かない勝気な娘である。そのお君は黙って言いなりにはなっていなかった。

「ま、まぁな。そういうこともあるってことさ」

「そんな莫迦な。お上って、そんな恥さらしなんですか?」

「だからだ、そこにはカラクリがあってな、裏から手ぇ回せば放免されるんだが、ちぃとばかりなぁ……」

 そこで男が卑屈な笑みを漏らした。

「ちぃとばかり何ですね?」

「だからよぅ、袖の下掴ませて、なかったことにするのが手っ取り早いんだ。でねぇとお前ぇ、町名主や町役も呼び出さにゃならねぇ。そう考えりゃなんだろ? ここは穏便にすますのがいいんじゃねぇのか?」

「お金? お金でなんとかなるのですか?」

 金で解決できるのなら。そう話をむけられるのなら縋ってみても。気持ちが動くのは当然である。

「大っきな声出すんじゃねぇよ、裏話なんだからよぅ」

「いったい、いったいいくら包めばいいんです?」

「そうだなぁ、まあ、五両ってとこが相場だなぁ」

「五両! 冗談じゃないよ。そんなお足がどこにあるんですか」

「そいつばっかりは、なぁ。けどよ、ビタ一文欠けたってだめだぜ」

「……じゃあ、……二日ほど待ってもらえませんか?」

「ああ、待つともさ。じゃあ明後日、昼過ぎにまた来らぁ」

 嫌な話し方をする男だった。無実の者を引き立てておいて、放免するのに袖の下を要求する。とんでもない男だ。お君はイハチに言われた通りに受け答えしたのだが、あれで良かったのか心配でならなかった。ただ、去ってゆく後姿を睨みつける中に、イハチが後をつけて行くのがチラリと見えた。



「ごめんよ、ごめんよ。すまねぇが開けてくれねぇか。隣のお袋が返事しねぇんだ、中通らせてくれねぇか」

 ドンドン、ドンドン、入り口を叩く者がいる。隣に住むお袋と言っているが、隣のことなどまったく頓着ないのがこの部屋の住人である。とはいえ、隣で死人がでているかもしれない薄気味悪さに、寝ぼけ眼を擦りながら若い男が戸を開けた。そのとたんに何人もが雪崩れこんできた。若者は抵抗しようとしたが、仲間とともに腕を極められてしまった。

 仲間内で出かける風を装い、連れて行かれた先は汐見橋だった。そこで猪牙船に乗せられ目隠しをされた。

「声出すんじゃねぇぞ。突き落としたってかまねぇんだからな」

 耳元で囁かれては言葉が出なかった。そこいらのチンピラと違って、無駄に話さない男たちにすくみ上がっていたのだ。



「降りな」

 立派な船着場だった。陸に上がると柵があり、門番が立っている。門番は、一言も口を利かず、顎をしゃくっただけだった。


「手荒なまねをしてすまなかったな」

 柿色の着物ばかりの中で、紺の単衣に袴姿である。それが侍だということは一目でわかった。

「少し尋ねたいことがあるゆえ、こうして来てもらった。正直に話せばすぐにも返してやる」

 間近に顔を近づけて穏やかに言った。

「まず、名を聞こう」

 人足の一人がさしむけた床几にどっかと腰をおろしてジロリと二人をねめつけた。

「……」

「……」

「言わぬか。……そうであったな、儂が誰か知らぬのであった。ここがどこかも判らぬ。ゆえに話せぬ。そういうことか?」

 しばらく待ったがどちらも口を開かない。というより、周囲を取り囲んでいる人足どもに気おされているようだ。

「……」

「……」

「ここはな、佃島の人足寄場だ。儂は盗賊改め方同心、高山新十郎。嫌なら黙っておってかまわん。が、御用繁多でな、何かと忙しい。意味はわかるな?」

 人足寄場に盗賊改めと聞いて二人は青ざめた。何の咎で捕らえられたのだろうと思惑が入り乱れるが、自分たちのしたことは、悪事というより悪戯でしかないという思いが強い。なんにせよ、盗賊改めに詮議される理由には思い至らないのである。

「ち、長太」

 しわがれた声だ。高山が何を言い出すやらと警戒しているのか、視線がたえず定まらない。

「ぶぶぶ、ぶんぞう」

 裏返ったように甲高い。親に叱られた子供のようにビクビクしている。

 二人は、震えながら名前を告げた。

「そうか、長太にぶんぞうだな。ときに、富田町の御用聞き、捨松に訴人いたしたのはどちらだ?」

 高山はゆっくり二人を見やった。悪ぶってはいても素人に毛の生えた程度でしかなさそうである。胆の据わった相手に言うようなことを口にすれば腰を抜かしてしまうかもしれない。ただ目をみるだけでブルブル震えているのだから。だからなるべく穏やかに振舞っているのだ。しかし、ここで怖い思いをすれば、もう悪事に加担しないかもしれないと高山は思う。だからこそ、黙って相手の話すのを待った。

「……」

「……」

「忙しいと言うたはずだ。無駄は嫌いな性質(たち)でなぁ」

 高山がうっそりと言う。大瓢箪での饒舌はどうなったのかと疑いたくなるほどの変わりようである。

「……」

「……」


「高山様ぁ、あっしらに任せちゃぁいただけやせんか。我慢比べさせりゃいいでやしょう。指を一本っつへし折って、どこまで我慢できるか見ものでやすよ。いかがです?」

 二人が引き据えられているのは小屋の中ではない。広場なのだ。しかし、小屋の中のほうが安全ともいえた。二人の尋問を面白がって取り巻いている人足が多いのだ。その中から一人が進み出て高山に進言した。

「高山様ぁ、そんなクズ、海ん流したっていいんでやしょう? 言いたくねぇんなら流せばいいじゃねぇですか。魚が喰ってくれますぜ」

 先の意見より凶暴だし、もっと恐ろしいのは、侍が発言を抑えないことだ。

「聞いたか長太、ぶんぞう。其の方ら、誰を罠に嵌めたか知っておるのか? 知るまいのう。其の方ら、事もあろうに徒食の者を容易に黙らせる男を嵌めてしもうたのだ。今すぐ放免することは容易い。ここなら命は護ってやれる。が、噂を流せばどうなるかな。いつまで命があるやら見ものよな」

「……」

「ちょう、長太でございます」

 ぶんぞうが口を開いた。少なくとも、訴人として自分の名前は書かれていないだろうとの打算もあった。

「長太が訴人したか。どういうつもりでそうしたのだ?」

「……」

「こ、小遣いをくれるって」

「小遣いのう。いかほどだ」

「……」

「いち、一分。一人当て一分で」

 ぶんぞうが下を向いたまま呟いた。

「聞いたか、おい。一分だとよ、一分ぽっちで罪人を仕立て上げるんだとよ。事もあろうにニゴロの親方をやっちまったんだとよ」

 周囲の男たちから失笑と罵声が浴びせられた。初めて事の重大さに気付いたのか、二人の顔色が失われてゆく。

「長太、ずっと黙ったままだが、相違ないか?」

「……」

 高山が尋ねてみたが、長太は顔色を失ったまま黙りこくっていた。

「なかなか根性が据わっておるとみえる。盗賊改めを舐めるでないぞ」

 高山が苦笑した。それを合図と受け止めたのか、方々から腕が伸びてくる。長太が身を堅くして拒んでみても、それを制する声は聞こえない。


「イハチ、明日の昼であったな?」

 高山の脇で面白くもなさそうに二人を見つめる男がいた。大瓢箪で汁を飲んだ男だ。

「へぇ、明日の昼ということでございやした」

 つまらぬ見世物には興味なさそうにプイッと目をそらてしまう。

「すまぬが、また今日のようにたのむ。そこで白状させたら捨松だが、これには罪はないゆえ、丁重にな」


 人足たちに引き立てられた長太は、息を継ぐ間もないほどの暴行を受けていた。

 桶に太い綱を浸して、それで殴るのが彼らのやりかただ。傷は残らないし、なにより自分の拳を痛める惧れがないからだ。一方、叩かれるほうは酷い痛みを味わう。水を吸った綱は、鞭となってどこにでも巻きつく。皮膚の痛みではなく、肉の奥深くからの痛みなのだ。

「慌てるなよ、おい。慌てたら転ぶぞ」

 まわりで見物している中から声援がとんだ。鞭打つ者に対してではなく、長太への声援である。なにせ、宴は始まったばかり。簡単に音を上げられては興を殺ぐからだ。

 長太は脛を打たれ、棒立ちになったところでふくらはぎを打たれた。崩れて膝立ちになると腿を打たれる。長太が歩けなくなるのは、あっという間のことだった。前屈みになって腿をかばうと、無防備な尻に綱がとぶ。庇った手の上から何度も打ち据えられた。


「気絶すんなよ、おい。この何倍も苦しい思いをさせたんだぞ、手前ぇがよぅ」

 横倒しになれば脛を狙われる。仰向けになれば顔に水を流される。切れ目なく流される水により、長太は息ができない。限界まで息を堪えたのだが、とうとう堪えきれずに吐き出してしまった。ところが、息を吸おうにも、鼻も口も水で塞がれている。長太はしたたか水を飲んだ。吐く息すらないというのに酷くむせた。

 水がぴたっと止んだ。激しくむせながらゼイゼイと息を吸うことだけに集中していた長太の耳に、身も凍るような一言が告げられた。

「ガキにゃあ用のねぇもんだな。しなびてんだし、こいつはいらねぇだろ。ついでにタマも潰してやっからよ、よっく見とくんだぜぃ」

 両足を目いっぱい広げさせられた長太は、ぐいっと頭を持ち上げられた。そこに見たものは、手に唾をして、太い綱を振り上げようとする人足の姿だった。どこを狙われているのかは十分すぎるほどわかった。

「ヒッ、ヒィッ、や、やめてくれーーーー」



 イハチは、大瓢箪の小座敷で息を潜めていた。昼には間がある頃から引きこもったきりである。今日現れるはずの手合いを締め上げれば、あとは捨松を丁重に案内するだけである。捨松に真相を見せれば奉行所の面子も守れるし、盗賊改めの介入もうやむやにできるはずだと語った高山の言葉を信じている。

 それにしてもとイハチは思う。高山を信じる徳市、徳市を信じる高山。自分は高山にどう思われているのだろう。二人の関係が羨ましく思えた。

 それと奇妙なことだが、今回の手伝いが面白く思える。これまではずっと追われる立場だったのだが、追う立場もすてたものではないのだ。それに、相手に気付かれずにいるのの不思議な気がした。こういう生き方も捨てたものでは、そこまで考えて頭を振る。なにを莫迦なことを考えるのだ。所詮俺なんか。そう諦めながらも思う。俺にだって。と。


 表で人の声がした。

「お君、まだ来ないかぃ?」

「あぁ、まだ来ないよ。本当に来るんだろうか」

「来るさ、きっと来るよ。ちょっと様子見てきたんだけどね、親父さん、さすがだよ。達者なもんだったよ。大威張りで茶を飲んでたよ」

「そう、よかったぁ。だ、だけどおまえ、いつ来るかわからないから」

「そうだね、じゃあ、また様子見に寄るからね」

 若夫婦のようだ。今のうちに用足しをすませておこう。イハチは厠へ立った。


「ごめんよ、約束のものは整ったかぃ?」

 聞きなれぬ声がした。障子を細めに開けて覗いてみると、一昨日来た御用聞きの手下だった。

「親分さんは?」

「先に番屋へ行ってなさるんだ。お役人を引き止めておかねぇと台無しになっちまうからよ。金を預かったら一目散に届けることになってんだ」

「大金だから……、本当にそうしてもらえるのですか?」

「本当だってば、嘘なんかつかねぇよ」

「じゃあ、お願いしますよ。すぐに帰してくださいよ」

「まかしておきな」

 男は、お君から金包みを受け取ると中を改めて懐深くねじ込んだ。


 イハチは急いで店を出た。ほんの十歩ほど先を男が歩いている。イハチが合図をすると、道端で休んでいる人足が立ち上がった。男を取り囲むように歩調を合わせている。

「なんでなんでぇ、邪魔すんな、この野郎」

 前後左右を挟まれた男が、不意に声を上げた。集団スリに狙われたとでも思ったのだろうか。

「来てもらおう」

 囁くようにイハチが呟いた。

「なんだ、手前ぇら」

「黙って来てもらおう。声を上げるな」

 男のわき腹に硬いものが押し付けられた。


 店の正面に見える橋を左に折れると船着場がある。イハチはそこに繋いである猪牙船に乗るよう命じた。

「なんだ、手前ぇら。どこへ連れて行くつもりだ」

 乗るのを拒み、暴れようとした男が足を掬われた。そのまま船に移され筵をかけられる。男が動けないようにするためか、人足たちは菰の上にどっかり腰を下ろしていた。


 引き立てられた場所がどこかということは、男には見当がついている。柿色の着物といえば人足寄場しかないことぐらい知っていた。

「二度目だのう」

 そう言われてしげしげ見ると、いつぞや橋のたもとで脅された侍である。名は忘れたが、たしか盗賊改めの同心と名乗っていた。

「覚えておるようだな。名は?」

 高山が聞いている間に、男の持ち物がすべて検められた。

 煙草入れと巾着、そして、薄汚れた布にくるまれた五両だけが持ち物だった。

「……」

「忘れたか? 町方と違って刃引きではないと申したはずだぞ」

「じ、甚六と申しやす」

「では甚六、連れてこられた訳を申せ。心当たりがあろう」

「さ、さっぱりわかりやせん。む、無理矢理船に乗せられやしたんで」

 甚六は、そ知らぬふうに横を向いた。

「なるほど……。ときに、この者らに心当たりは?」

 イハチが引き出したのは、ガタガタブルブル震える長太と、ぶんぞうであった。特に長太は、自力で歩けないほど足を腫らしていて、脅えきった目をしていた。狡猾そうな小悪党の面影は微塵も残っていない。

「し、知りやせん、こんな奴ら」

 甚六は、自分たちのたくらみが露見していることを瞬時に悟った。が、それを認めることなどできるわけがない。かといって、当の本人を目の前に引き出されては、惚け通すこともできない。切羽詰った状況に追い込まれてしまったのだ。

「知らぬと申すか。ぶんぞう、この者を知っておるか?」

 高山はどこにも目をそらさず、じっと甚六の様子を眺めていた。

 キラリ、ピカリ。甚六の鼻のまわりに汗が滲み出てきた。

「一分くれると言った御用聞きです」

 打てば響くようにぶんぞうが答えた。

「と、申しておるが?」

「う、嘘だ、嘘ついてやがる。お、俺を罪人にしようとしてやがる」

 白状したぶんぞうを睨みつけ、一方では高山に縋るような眼差しを向ける。こちらも狐である。

「徳市を嵌めたようにか?」

「知らねぇ。……知らねぇ」

「両名とも、すべて白状したぞ。それに、その金子はなんだ?」

 膝の前に並べられた金を扇子の軸で示してみせた。

 一分銀で五両なら庶民が持っても不思議はない。ただ、多くの庶民は、ほとんどが日銭を稼いでいるのだから、一分という金自体が贅沢なのだ。とびきり腕の良い大工でも五百文の日当は得られない。仮にそうだとして、宵越しの金を持たないという気風が一般的なので、二日分の日当を持つことは不自然だ。まして、日用のまかないにそんな高額の銭を使うと、つり銭に困る。一分でさえそうなのだから、五枚の小判など、どう考えても不自然すぎるものだ。

「こ、これはかり……借りたんでさぁ」

 苦し紛れの方便が続く。

「借りたか。誰に?」

「だ、誰から借りたか言わなきゃならねぇんですかい?」

 借りたと言えば追求が収まる。甚六の咄嗟の嘘は、次なる混乱を招いた。

「ぜひとも聞きたい」

「お、親分でさぁ」

「親分とは?」

「深川、北六間堀の義助……」

「その義助がこのような大金を貸してくれたか。何に使うつもりだったのだ?」

「……」

 使い道など考えてもいなかった。下手なことを言えば撥ねつけられるだろう。そう考えるだけの知恵はある。が、うまく言いくるめる口実がどうにもみつからない。

「もう一度言うておくが、刃引きではないのだぞ」

「……」

「ところで、ある者が金を騙し取られたのだ。嘘の罪で捕えられておる者がおってな、上役に袖の下を渡せば放免されると家の者に吹き込んだのよ。引き抜き……、という名目であろうな。普通なら上手くいったであろう。だが、其の方らの浅知恵を見抜く者などいくらでもおるぞ」

 そう言って手にした包みから一枚抜き取り、ためすつがめつそれを眺めた。みるまに頬に意地の悪そうな笑みが浮かんだ。

「その者は、騙されたふりをした。すぐに見分けがつくようにしたのだ。其の方が借りたと申す金子だが、額もぴたりと合うておる」

 まさか、甚六は小判と高山を交互に見つめた。だが、混乱する頭では何が目印なのかさっぱりわからない。

「し、知りやせんよ、そんなこと」

 鬢からも、額からも汗が噴出してきた。知らないと言い張る声が裏返っている。

「だがな甚六、このように目立つ目印に気付かぬとは、愚かしいにも程があろう。この包み、見覚えがないか?」

 金の包みは甚六の懐から出したものである。汚らしいそれは、煮しめたような柿色の布に水玉が入っていた。

 なんのことか解らずぼんやりしている目の前で、同じ柄の着物が並んでいた。


「ふぅむ、道理をもってしても無駄なようだな、どうでも口を割りたくないようだ。どうだ、その気にさせられる者はおるか?」

 高山が声をかけると、方々から腕が伸びてきた。


 訴人の口書はとれている。白状こそ拒んでいたが、堀を埋められた甚六は落ちたも同然である。主犯である義助を捕らえていないことが心残りだが、すぐにでも徳市を救い出してやろう。高山は、捨松を連れてくるようイハチに命じた。



 その日の夕方、徳市はようやく帰ることができた。季節のおかげで風邪をひくこともなく、蚊に悩まされたことと月代が伸び放題になったことに困ったようだ。ただ、真相を知った捨松は、何をおいても放免せねばと駆け回ったらしく、主犯の義助は、たちどころにお尋ね者になったのである。


「くそぅ、このままじゃすまさねぇぞ」

 たくらみが露見したことを知った義助は、富岡八幡宮の床下でギリギリと歯を鳴らしていた。


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