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鑑札

 思いがけなく仲人が決まり、めでたく祝言の日取りも決まった。二組の祝言を一度にやってしまっても、親類縁者がいるわけではないのだから構うまい。祝いの席は簡素にしようということで話はまとまった。ところが、お君は大事なことに気がついた。おツネもそれは同じであった。

 祝言を機に、お君もおツネもそれぞれ長屋住まいをするものと思い込んでいた。その予行演習というわけではないが、二人とも当然のように外泊をした。周りに気を使わずに二人だけの世界を満喫したのだが、朝になって気がついた。ムスビをつくらねばならないことに。

 二人とも大慌てで店に戻ったはいいが、店の前には大勢の人だかりができていて、店では、両肌脱いだ親方が汗を飛ばして握っていた。

 そうでなくても、店が終わるのは遅い時刻である。暗い夜道を女が独り歩きするのは物騒だ。これはいけない、なんとかしなければ。

 お君はお君で、おツネはおツネで弱りぬいていた。

 源太も庄吉も、自分で朝飯を炊き、一人だけで食べるのはおかしいと思う。それでは所帯をもったことにならないと。しかし、新所帯をもつ二人で話し合っても答が見つからないことだった。


「なるほどなぁ、いや、さすがに気がつかなかったぜ。たしかに夜道は物騒だし、朝飯を亭主独りで食うってなぁおかしなこった。よっしゃ、そいつはわかった。で? 何か算段でもあんのか?」

 四人が頭を寄せて解決策を探っていたところに、親方が首をつっこんできたのだ。おツネに聞かせるために大きな声を出していたものだから、聞きつけられるのは当たり前のことだ。

「ですからね、宿替えすればいいのでしょうが、都合よく空きがあるやら……」

 源太が嘆くのは無理ないことだ。毎日のように火事があり、焼け跡に新しい長屋が建つ。しかし、それ以上に家を求める者が多く、新しく建った長屋はすぐに埋まってしまう。ましてや大瓢箪から近いところを求めてみてもありはしないのだ。

「そりゃそうだ。何でもかんでも都合よくいくわきゃねぇや」

 どういうわけか、徳市はおかしそうにケラケラ笑い声をあげた

「ちょ、ちょっと、なんで私を見るのさ。悪いけどね、これまでずっとここで暮らしてきたんだからね、空き屋がどうだなんて、わかるわけないんだから」

 徳市の視線が自分で止まったのでお君は慌てた。朝から夜まで店で働いているのだから、世間のことをまったく知らないのだ。

「私もね、商いをしながら訊ねてみたのですよ。でも、気に入るところは空いていなくて」

 案の定、源太はいろんな伝手を頼ってみたものの、見つけられなかったことを白状した。

「そうかい、そいつは困ったなぁ。……庄さんはどうだい?」

 困ったと言いながら、それでも徳市は面白がっている。

「生憎外歩きが……」

「まあ、無理ねぇやな。おツネちゃん……は、無理だな。うちで働いてるから暇がねぇや」

「……」

「……」

「……」

「……」

「そうかぃ、名案が浮かばねぇんだな? だったらよ、こういう方法もあるぜ」

 何を思いついたのか知らないが、徳市は悪戯の相談でもするように言葉を切った。

 四人が一斉に親方を窺った。考えあぐねて答が見つからないのだから、もし許せる内容だったら素直に従ってもいいとさえ思ったくらいだ。

 チョイチョイチョイ

 散らばって座っている四人を招き寄せた親方が、おもむろに切り出した。


「庄さん、お前ぇ、おツネちゃんの長屋へ引っ越せ。荷物なんかてぇしたことないんだろ? んなもなぁ半日もありゃぁ片付いちまわぁ」

「ちょっと、おツネさんどうするのよ」

 すかさずお君が異議を唱えた。一間しかない長屋に母親が同居できる余裕などありはしない。仮に二間あったにしても、夜毎悩まされて気鬱になることは目に見えている。

「うるせぇ奴だな、お前ぇ。おツネちゃんは庄さんと暮らすにきまってるだろうが。ちぃと黙ってろぃ」

「黙ってらんないよ。だって、庄さんが暮らすとなったら、おハツさんが」

「だからぁ、おハツさんはここで暮らせばいいだろうが」

「ここぉ? 赤の他人の男と女が一つ屋根の下? 何考えてるのよ」

「しょうがねぇだろうが、そうでもしねぇとどうにもならねぇんだぞ。それにお前ぇ、お前ぇの部屋が空くんだしよ」

「部屋、隣同士じゃないの」

 きつい目である。

「いいだろうが。じゃあ聞くけどな、赤の他人が一つ屋根だとだめなのか? そんなので長屋暮らしができるか?」

「だけど、襖一枚じゃない。私がいなくなるからって、やりたい放題するつもり?」

 ますますきつい目になった。

「……お前ぇなぁ、なにもそんなこと言ってねぇだろうが。岡場所で大年増を呼ぶ奴がいるか? それになぁ、長屋だって隣との境は壁一枚じゃねぇか」

「まったく。……それで? 私と源さんはどうしろと?」

「お前ぇたちか? お前ぇたちは……、納屋を手入れすりゃ住むくらいできるだろう。ちぃとばかり狭ぇかもしれねぇが、そのほうがくっついてられるってもんだ。それにだ、店賃は助かるわ、朝晩の飯も店で食える。庄さんもだぞ、おツネちゃんを朝早くから借りなきゃならねぇんだからな、飯は店で食いな。そうすりゃ銭はかからねぇ」

「だけど、おハツさん……」

「黙ってろって言っただろうが、まったく。じゃあ聞くがな、お前ぇら、子供を産まねぇつもりか? 子供でも生まれてみろ、気はあっても手を出せるかぃ? そこへいくとだな、おハツさんならもう子供ができる心配ぇなんかあるめぇし……じゃなくてだな、えーっと、あれだ。そうそう、なにかと手伝ってもらえるじゃねぇか」

 邪まな思惑が入り乱れてはいるが、考えてみれば合理的な方法だ。当のおハツさんは、すでに割りない仲になっているからか、二つ返事で承知してくれたのだった。

 そんなこんなでバタバタしたが、めでたく祝言の夜となったのだった。



 大瓢箪の常連がいつものように腹ごしらえにでかけると、戸口の前に打ち水の跡。綺麗に揃った箒目が、ただならぬ雰囲気をつくりあげていた。まるでそこだけ、埃っぽい深川の町から切り離されているようである。

 開け放たれた入り口から、煌々と灯が点された中がくっきりと見えていた。

 上がり座敷に真っ白な屏風、その前に二組の夫婦。店の親父は、似た年恰好の女とともに脇に控えていた。夫婦の間には白木の酒樽。そして、銘々に立派な鯛がピンと尾鰭を立てている。

 漏れ聞こえる高砂は、稽古を重ねた趣があった。

 こんな下町の飯屋に不似合いな裃姿。脇差しが見えることから、立派なお侍に違いない。

 他に縁者もなさそうで、つましいのやら、分不相応に立派なのやらわからない。

 飯屋の親父が立ち上がって、朱塗りの盆を捧げてきた。それを一組の夫婦の前に置いた。

 小さな杯を新郎に持たせると、やはり朱塗りの銚子から酒を注いだ。三献である。

 女が親父と交代し、別の夫婦に同じことをした。

 大瓢箪の看板娘お君と、手伝いをしているおツネの祝言であった。


 せっかく来たのに店は休みである。ところが客は、とんだことだと腹を立てるどころか、珍しいものを見せてもらったと納得してしまっている。こんなに寂しい祝言なら、少しでも賑わしてやろうかと考えるお調子者は一人もいなかった。


「このたびは、まことにありがとうございました」

 四人が四人、神妙な顔つきで高山に礼を言った。もう儀式としての祝言は終わったのだからと、高山の杯を空にすることがない。快く仲人を買って出た高山は、恩着せがましいことなど一言も言わず、源太や庄吉のことを旧知の友のように扱っていた。


「源太、庄吉、其の方らにこれを遣わす」

 高山が差し出したのは、人足寄場への出入りを許す鑑札であった。すっぽりと手に収まる木札に出入り勝手と高山の署名があった。それを裏付ける朱印がでんと捺されている。

「高山様、やはり私どもに手伝えと?」

「左様、皆も賛成であったぞ。しっかりたのむ」

 最初に言ったように、二人を引き込もうとして仲人をしたのかもしれない。でも、会ったのは二度目、話すのも二度目なのに、どうしてそんなに垣根を取り払ってしまえるのだろうと思えるほど、高山は気さくであった。


「高山様、じつは最近帳面をつけておりましてね、ご贔屓先の味噌を調べているのでございますよ」

 高山の杯に酒を注ぎながら、源太は言わなくてもいい報告を始めてしまった。褒めてもらおうとか、隠れて役に立っていることを誇るつもりはまったくない。そんなことよりも、自分が考えたこと、始めたことを知ってもらいたかったのだ。安心してもらいたかったのだ。でも、そんな思惑はすっかり外されてしまっていた。まだ何を考えているかわからない相手に、出入り勝手の鑑札を与える。全幅の信頼というかたちで叩きのめされたのだ。

「帳面をつけてくれたのか。それと味噌とどういう関係があるのかな?」

 杯を傾ける手を止めた高山が眉を寄せた。

「ですからね、どこそこはどんな味噌を使っているか。残りはどれだけかを書いておくのですよ。味噌を使い切る少し前に行けば……」

「おおっ、買うてくれるやもしれんな!」

 源太の言わんとしていることを悟った高山は、杯を置いた手を膝に添える。そして次の言葉を待った。

「はい。行く先々で味見をさせまして、一回分がとこお試しで置いて帰っております。味噌自体は悪くないと思います。親方……じゃなくて、お父つぁんのしじみ汁はこたえられませんから」

「源太、よく言ってくれた。けどなぁ、ありゃあお前ぇ、腕だぞ」

 じっと話を聞いていた親方が目尻を下げた。

「徳市、莫迦なことを申すな。あれは断じて味噌が旨いからだ。そんなことより、評判はどうだな?」

 すかさず高山は軽口で応じて先を促した。

「はい、上々でございますよ。値段も二割ほど安くしましたのでね」

「二割? いや、あれは値引くことはできんぞ」

 うんうんと頷いていた高山が慌てて遮った。ただでさえ安くしているのに、その上値引くことなど考えてはいない。もしそうするのが適当であったとしても上役の裁可を得てからのことになる。ただの売り子にすぎない源太に勝手な値決めをされてはかなわないのだから当然だろう。

「高山様、なにか勘違いをされていますよ。店売りのより二割安くしたということです。だいたい、半値の味噌なんぞ警戒されてしまいます」

「と……どうなるのかな?」

「はい。百文の味噌を八十文にしました。勝手までお届けして八十文ならべらぼうに安いのですよ。高山様の売値は五十文。となると、三十文の利があります。手前は、売り歩いて利ざやでお(まんま)をいただくのですから、その三十文から手間賃を頂戴します。わかりやすく、利を折半としますと、高山様の取り分は十五文。元値が五十文ですから三割がとこ売り上げが増したということになります」

「そうか……、いや、それはありがたい。なるほどなぁ、其の方の取り分を五文とすれば残りが二十五文……、なんと、五割も高値で売ったことになるわけだ」

「お待ちください、それではあんまりです。いくらなんでも五文というのは」

「冗談だ、ただの戯言ではないか。そのようなことを申すはずなかろうが。したが、安ければ良いというものではないのか」

「ためしに、相場より高いものを売り出してごらんなさい。きっと衆目を集めましょうし、買う者も多いと思います。そこでパパッと売ってしまって利を稼ぐ商いもありましょうが、お客様に可愛がっていただくほうが息の長い商いとなるでしょう。ですから二割がとこ値引きいたしました。味噌屋からお客を奪ってしまうためですので、それは仕方ないかと」

「なんの……、三割も高う売ってくれようとしておるではないか。このとうり、頭が上がらん」

 杯を膳に戻した高山が、背筋をピシッと伸ばして気持ちよい礼をしてみせた。

 これも違うと源太は思う。このお人は、相手の身分などにはなんのこだわりもないのだろう。真っ当なことをしている限り、誰にでも頭を下げる、いや、下げられるお人なのだ。こんなに率直に相手の考えを認められる人だからこそ、親方が心酔したのだろう。いずれにせよ、到底自分が敵うような相手でない。寿命が縮むようなことはおやめくださいくらい言ったかもしれない。とにかく源太は、今日だけでも何度目かのびっくりする場面に出くわしたのだった。

「堅う考えるな。自分にない優れたものに頭を下げるのは、当たり前のことではないか。ときに源太、まだ作っておるものがあるのだ。近いうちに寄ってはくれまいか」

「はい。このところバタバタしておりまして、ご贔屓にも迷惑をかけております。ですが、気合を入れるのは昼まででございます。近くを回るときには必ずお邪魔させていただきます」

 知らぬ間に取り込まれてしまった。自分から出向くと約束してしまった。高山自体は何もしていない。ただ相槌を打ち、感心してみせ、こっちの気持ちをほぐしているだけなのに……。そうか、そのやりかたを使えば客を取り込むことが容易になるかもしれない。これは良いことを教えてもらった。そう気付いた源太は、居ずまいを正すと高山に感謝の礼をした。

 高山は気持ちよく酔っている。目尻をたらんと下げ、手を打ち鳴らし、愉快に笑いこけている。ただ一瞬、ふっと真顔で源太を、庄吉を見ては、誰にも悟られぬ早業でだらしないふりをしている。瞬間見せた本性が、よけいに源太を虜にしてしまった。


 庄吉は高山に諭されていた。

 庄吉は職人だ。職人という生き物は妙なこだわりをもっている。技は教えない。見て盗め。そんなことを言う裏では、自分の技を絶やしたくないと願っている。絶やしたくないのなら教えればよさそうなものなのに、もったいぶって教えないのだ。庄吉は、そこを衝かれていた。

「庄吉、職人としては技を教えることにためらいがあろう。しかしだ、教えたところで損をするものでもあるまい。それがいかんと申すのなら道場はどうなるのだ? 道場で教えるのは刀の扱い、つまり、人殺しの技だ。そのようなことをしておれば、使い手になった門人に倒されるやもしれぬ。で、あろう?」

「それはそうですが、もし追い越されてしまったらと思いますとね……」

 庄吉はそれが不安なのである。誰でも同じように腕が上がるはずなのだ。では、どうして名人が生まれるのだろう。どうして腕の優劣がつくのだろう。それは、ほんのちょっとしたコツではないかと庄吉は考えている。他人に技を教えている間に、そのコツを盗まれでもしたら、庄吉はたちどころに注文を失ってしまうだろう。それが怖いのだ。

「愚かなことを申すな。何をするにせよ、一朝一夕にはゆくまいが。それに、庄吉には一日の長がある。容易く追いつける者などおるわけがない。ましてや、秘伝まで教えよとは申さぬ」

「ですが、手前は狐しか作れないし……」

「庄吉、其の方最前より、ですが、ですがを繰り返しておる。気弱になるでない。其の方が狐ばかりをつくるわけ、おおよその見当がついておる。其の方、狐で褒められたのであろう。ゆえに狐ばかりを作るのであろう? 誰しも同じ、盗賊とて同じよ」

「盗賊でございますか? それと根付とどう関わるので?」

 意外なことである。職人と盗賊、天と地、正と悪、まったく真逆なことではないか。なのに高山は同じと言い切った。

「徳、少し許してくれよ」

 親方にとって話題にするには面白くなかろう。それを見越して高山は頭を下げる。

「盗賊という奴は、それは慎重な奴でな、しくじった、しくじりかけたことは絶対に繰り返さぬものだ。逆に、うまくいったやり口から離れられん。違うか? 徳」

「盗賊なんてもなぁ、怖がりなんでございやすよ。これなら間違ぇねぇって手口しか使えねぇ。別の手口でしくじったらお陀仏でやすからねぇ。気のちっちぇえ奴ほど光モノを持ちたがる。忍び込んだ先で家の者と出くわすこともありまさぁ。逃げりゃいいんだ、にげりゃあな。ところが、気がちっちぇえと刺しちまう。慌てるとそうしたもんさ。そんな怖い思いして掴んだ金をだぜ、チマチマ使えるか? パパッと使っちまうのが落ちよ」

 親方は面白くなさそうにそう言って杯をあおった。

「庄吉には他のこともあるはずだ。其の方、犬の姿を思い描けるか? 熊は? 鹿は? 猿はどうだ。つまり、目に焼き付ける前に目が見えなくなったのではないか?」

 たしかに高山の言うとおり、ほかの生き物を思い描けないのは事実だ。というのも、どんなふうに寝るのか、走るのか、遊ぶのかを知らない。よく見ていないからだった。頭の中で自由に動き回るのは狐だけ。だから、庄吉は狐以外の生き物を彫れないのだ。それを見事に言い当てられてしまった。

「なればこそ、小石川へ参ろう。目さえ見えれば他の生き物を彫ることもできよう」

 うつむいてしまった庄吉を励ますように、高山は療養所で診てもらうことを勧めたのだ。

 じっと俯いていた庄吉が、懐から手拭いを取り出した。二つ折りになったそれを広げて高山に差し出した。

「むっ? ……これはまた……」

 高山の声がかすれていた。手拭いに挿まれていたものをしげしげと見つめ、咽の奥で微かな唸りをあげるばかりである。

「庄吉、これを彫ったときは目が達者だったのだな。なんと見事な……」

 それは、餌を狩るために跳び上がった狐である。細かな体毛を丹念に刀で彫り、更に、胴体と足で毛先の流れが変えてある。ピンと立った耳といい、少し撓んだ尻尾といい、まさに生き写しであった。

「いや、目の保養をさせてもろうた」

 うんうん頷いて返そうとする手を庄吉が抑えた。

「何もできませんが、せめてものお礼に」

「いや、しかし」

「どうか」

「そうか? かまわぬのだな? では、ありがたく頂戴いたす」

 高山は、生真面目に押し戴くと満面の笑みをたたえて印籠をとった。そして、ついていた根付を外してしまった。

「高山様ぁ、相変わらず無茶なさいますねぇ」

「何を申す。ひとたび貰うたからには、返せと言われる前に付け替えておかねば……。よし、もう取れぬぞ。これでどうだ」

 高山が揺らすたびに、こげ茶の狐がピョンピョン跳ねた。

「それ、それそれ、どうだ徳市、天はちゃんと見ておるぞ、このように褒美をくださる。源太に庄吉、それに天下一品の根付だ」

 それは嬉しそうに根付をふるふると振ってみせた。


「さて、お君。善い(えにし)で結ばれたのう。徳市といい源太といい、庄吉はおツネも、おハツも、望んで得られるものではないが、わかるな? ここで結んだ縁を大事にいたせ。困ったときには遠慮のう訪ねてまいれ。この高山、鬼になってつかわす。おツネも同じだぞ。この縁を結ぶために辛い思いをしてまいったのだ、決して失くすでない。それでな、両名とも可愛い子を産め。親の務めを果たせ。よいな」

 根付をもう一度額に押し当てた高山は、印籠を腰に提げると居ずまいを正した。

「さて、そろそろ暇をせねばならぬが、例のものを所望したい」

 長い付き合いの親方には、高山が何を食べたいか察しがついている。もうすっかり温くなってしまったがと言い訳をしながら配んできたのは、椀に注がれたしじみ汁だった。


「しからば、二組の夫婦が誕生したこと、この高山しかと見届けた。邪魔者が早う去らねば床入りが遅れるゆえ、このあたりで暇つかまつる。さても目出度きことにござぁる」

 心づくしの料理を受け取った高山は、提灯を提げて確かな足取りで帰って行った。


 誰も手伝いのいない婚礼である。自分たちの食べたものは、自分たちで片付けねばならない。なんとも貧乏くさいが、六人が六人、とても満たされた気持ちでいた。

 店の片付けをしているとき、源太が親方にこう言った。

「朝の施しですが、見れば体の達者な者がいます。先を争うのは、そういった者ばかりで、大工や左官も手を伸ばしていました。あれを見ると意地汚い人間に思えてなりません。施しは邪まな心を育てているようにも思います。もちろん必要としている人もいますが、方法を考えたほうが良いかもしれません。それと、そろそろモノがいたみやすくなってきました。昨夜の残り物を与えて腹でもこわしたら大事です。やるのなら、夜にしたほうが良くありませんか?」

 たしかにそうなのだ。けんか腰で奪い合う元気があるのなら施しなど受ける必要はないはずだ。どうせ仕事をせずにぶらついている奴だろう。だからといって、困っている人もいるのだ。やめれば飢えてしまうに違いない。ともすれば、一家心中ともなりかねないのだ。それと、腐りやすい時季になったのは事実である。それが元で病気にでもなったら目も当てられない。

 だからといって明日はいつものようにしなけりゃいけないだろう。

 片付けがすんだところで、それぞれに料理を取り分け、明日もいつものようにということだけ告げて帰らせた親方だった。



「おハツさん、今日はすまなかったなぁ。疲れなかったかぃ?」

 襖越しに声をかけてみた。寝酒を少し飲んで、灯りを消したところである。声をかけるのを遠慮しようかと思ったのだが、襖の隙間から糸のような灯りが漏れていたのだ。

「おかげで、ツネに人並みのことをしてやれました。ありがとうございました」

 細い声が返ってきた。

「こんなときになんだけど、今日は飯が残ってねぇから炊かねぇとなぁ。悪いけど、うるさくするぜ」

「こちらへ……」

 細く襖が開いた。

「な、何言うんでぇ。そんなつもりなど……」

「いいではありませんか。もう気付かれてしまったのだし。きっとツネも今頃は。お君ちゃんも……」


 結局、明くる朝は炊いたばかりの飯を握って配ったのだが、表立っては取りやめということにした。

 当てが外れたのか、道具を抱えた職人や、夜遊びをしてきたばかりのような不埒者はそそくさと帰ってしまった。ここで貰えないと困る者だけが未練がましく残ったのである。

 その様子を確かめて、戸を僅かに開ける。決して他人に話してはいけないと念押しをして、湯気のあがるムスビを持たせたのだ。そのとき、これからは夜に配ることを伝えたのだった。


 それから一ト月ほど経ったある日、無心に訪れたのとは違う御用聞きがやってきた。

「亭主ってのはお前ぇか?」

 粋な着こなしをしているが、自分が何者かも告げずに横柄な言葉を吐いた。

「そうだが……、見ねぇ顔だが、お前ぇさんは?」

 源太や庄吉ではそうはいかないだろうが、この親方に横柄な態度は通用しない。

「俺は深川、富田町で御用をあずかる捨松ってもんだが、ちょいと聞きてぇことがあってな」

「何のことかわからねぇが、まあいいや、言ってみな」

 御用風をふかせれば、普通の者ならオタオタするものだが、この男は違っている。何の用かと戸惑うどころか、挑戦的に薄笑いさえ浮かべている。よほど自信があるのか、場慣れしているのか、とにかく腹が据わっていることはたしかだと捨松は思った。

「お前ぇ、ムスビを施しているそうだな」

「施しだなんて偉そうなこたぁしてねぇ。残り物を分けてやってるだけだ」

「それを施しって言うんでぇ」

「莫迦なことを言うもんじゃねぇ。こちとら他人様に施すようなご身分じゃねぇぞ。下町に住んでる俺が、他人様に施しなんぞできるか。思い上がっちゃいけねぇよ」

「どうでもいいんだ、そんなこたぁ。十日ほど前にその施しを喰った奴が腹痛おこしたんだ」

「腹痛だぁ? 腹痛なぁ……、そつはいけねぇや。ちょっと聞くがよぅ、そいつ、何を喰って腹が痛くなったんだって?」

「ムスビだそうだ。身に覚えがあるだろうが」

「たしかに残り物をムスビにしているが、どんなムスビだって言ってた?」

「どんなってお前ぇ、ムスビはムスビだろうが」

「それが違うんだなぁ。どんなムスビだって言ってた?」

「……ふ、普通のムスビだ」

「普通のなぁ……。中に何が入ぇってたか聞いてねぇのかい?」

「ムスビに何を入れるんでぇ、惚けんじゃねぇ」

「おい、富田町の捨松とか言ったなぁ。もっとしっかり聞いてから出直せ。でねぇと赤っ恥かくことになるぜ」

 こんな応酬があってこの場は収まった。しかし、どうにも釈然としないのだ。源太が心配したように腐りやすい時季になっているのだから、一晩おいたものなら臭い出すかもしれない。それを見越して一夜越しのものを出さなくしたのは一ト月も前のことである。それからは、その日の残り物しか使っていないし、その飯は昼から炊いたものなのだ。

 何かわからないが、罠に嵌めようとしている者がいる。徳市はそう直感した。


「なによ、言い返せないで帰っちゃった。どうなってるの?」

 腹痛と聞こえたので耳をそばだてていたのだが、たいしたことではなさそうとお君は安心した。

「妙だ。誰かが嵌めようとしてるみてぇだ。捨松ってぇ御用聞きがまともな奴ならいいが、なにかたくらんでやがったら面倒なことになる」

「どうすんのよ」

「……気は進まねぇが、高山様に助けてもらうしかねぇな」

 あまり心配をかけたくない相手ではあるが、自分のことを一番理解してくれている役人といえば、高山しかいないのだ。


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