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 高山が二人の御用聞きを震え上がらせてすぐ、橋を渡る二人連れがあった。小商人風の若い男と、うら若い娘である。連れ立っているだろうことは、その足取りで察することができる。しかし、橋の中ほどで急によそよそしく左右に分かれた。高山に目礼をした親方の目にも、当然その様子が見えていた。

 ちっ

 我知らず舌打ちをした親方は、口の先で呟いていた。

『あいつら、この期におよんでよそよそしくしやがって、なにしに上野くんだりまで出かけ……。まてよ、何にもなけりゃ、あんなおかしな素振りをすることはあるまい? ……そうか、あいつら、とうとうやりやがったな』

 そう考えたらおかしくなったのか、急に相好を崩してしまった。

『そうか、とうとうやったか。あいつなら大丈夫だ、お君を泣かすようなことはできない男だ。ようやく、ようやくここまできたぜ。椋鳥よぅ、おノブさんよう、これで良いよな?』

 にやけていたはずなのに、ちょろっと鼻水をのぞかせる。それを大きな手のひらで擦り取って目を瞬かせた。急いで店の奥に引っ込むと、ヘッと薄笑いを浮かべたまま勝手場へ姿を隠した。


「ただいまぁ。菖蒲の花、ちょうど見頃でね、大賑わい。出店もいっぱい出ててさぁ。……あっいけない、遊んできたんだから、すぐに支度しないとね」

 どんな花が咲いていたとか、どんな出店があったとか、そういったことを一しきり喋ってから着替えをするのがお君なのに、今日はそそくさと奥へ引っ込んでしまった。

 送ってきた源太にしても、気の利いた冗談を飛ばすでもなく、お君と目を合わせるのを避けているように思える。


『ははーん、こいつは間違ぇねぇや。あの二人、とうとうできちまったな』

 そ知らぬ顔で世間話をしながら、徳市はじっと考えた。

 二人ができたのはかまわない。いや、罠に嵌めてでもそうさせたかったくらいだ。が、そうとなれば源太に引導を渡してやらなきゃいけない。お君のことなら、親の言いつけで押し通すこともできよう。そんなことしなくたって、お君が源太に惚れているくらい先刻ご承知だ。となると、お君とおツネ、二組の祝言だ。だったら、その前に心の支えをとっておこう。そういうことは早いほうがいい。もし、気まずいことになったら……。スパッと諦めるしかあるまい。

 源太との世間話など上の空だった。


「なあ源さん、実はな、どうしても聞いてもらいてぇ話があるんだ。すまねぇが、今夜来てはもらえねぇか。大事な話だ、この通り、たのむよ」

 人の話を上の空で聞いていた徳市が急に真顔になって、ぺこっと頭を下げた。何のことやらわからない源太は、慌てて立ち上がり、その手を上げさせる。怒ったり笑ったり、いろんな表情を見せてくれる徳市だが、思いつめた表情は初めてのことだった。

「承知しました。何も言わず、今夜来れば良いのですね? お役に立てるかどうかわかりませんが、きっと参りますよ」

 源太は、その目をじっと見据えて約束をした。


 夕方になると大瓢箪のかきいれどきがやってくる。といっても波があって、ただ空腹を満たす客は少し早めに、少しだけ酒を飲みたい客は遅めにやってくる。客筋が酒目当てになるのは、もう少し後なのだが、それまでの間は比較的客の空いている時間帯である。いつも食事目当ての客がひける頃に仕事を上がるのがおツネだ。徳市から残り物をもらって母親に食べさせてやり、最近は庄吉の長屋にも食べ物を配んでやっているのだ。


「おツネちゃん、今日は上がっていいぜ。と言いてぇところだが、今夜、うちに泊まっちゃあくれねぇか。みんなに話しておきてぇ大事な話があんだ。そいでな、すまねぇが庄さんを連れてきてくれや。この通り、恩に着るからよ」

 手を合わす徳市に、おツネは何も言えなかった。ポンと胸を叩いて、

「まかしてください」

 そう言ってにっこりするしかできなかった。



「みんな、呼びたてちまってすまねぇな。俺ぁな、隠し事が大ぇ嫌ぇな性分でな、この人にと決めたお人にだけは洗いざらい言わねぇと我慢できねぇんだ。お前ぇたちが、この人なんだ。だからな、こっから先の話をよっく聞いてくれ」

 少し早めに店じまいをした徳市は、言葉少なに料理をこしらえた。それを小座敷に並べる。

 並んで二膳。向かい合わせに二膳。そこに二組の男女を並ばせた。入り口を背にした膳の前は自分の膳。四畳ほどしかないが、この人数なら狭くはない。そして小さな火鉢に炭をついで、鍋は横に置いた。チロリには冷酒を注いであった。

 そうすることで気持ちを落ち着け、入り口にどっかと腰を据えた。


「まず、源さんに聞く。じつは、お君が身篭っちまったんだが、父親はお前ぇだな?」

 考えに考え抜いた嘘である。こんなことを言えば皆が驚くだろうが、徳市にはそれしか思いつかなかった嘘だ。

「み、身篭ったですって? あたし、私じゃありませんよ、だって、今日初めてそのぅ……」

 源太は仰天した。だって、今日初めてお君と結ばれたばかりなのだ。そんな、結ばれた日に身篭ったことがわかるなんて、誰が真に受けるというのだ。

「今日、初めて……。ふうん、今日初めてってことは、つまり、やったということだな?」

 やっぱり源太とお君はそういう仲になった。当てずっぽうではなく、当の本人が白状してしまったのだ。しめしめと徳市がほくそ笑んでいるとも知らずに。

「は、はい。初めて結ばれました」

 しまったという表情で源太が下を向いた。あまりに意外なことを徳市が言ったものだから、つい本当の事を言ってしまったのだ。だが、そんなことは当たり前ではないか。自分は経験していないが、盛んに夜這いに精出す男も女もいるのだ。が、源太はそういうことには臆病である。面倒事に巻き込まれたくないあまり、生真面目に暮らしているのだ。

「お君、それは本当か?」

 徳市は、頬を染めて俯くお君に念を押した。

「……はい」

「で、どうするね、源さん。お君とは遊びかぃ? 」

 源太は、お君を窺った。もうずっと前からお君を憎からず思っていたのは確かなのだ。そして、ああいう形ではあったが、お君と結ばれることを望んでいたのも確かなことだった。源太の腕に抱かれてお君は燃えた。同時に自分も夢中になった。耳に聞こえるものは、お君の鼓動と荒い息と喘ぐ声だけ。お君の耳に聞こえるのは、絶えず囁く源太の声だけ。二人をさんざん悩ませた嬌声は、まったく耳に届かなくなっていた。

 ところが、いざ肌を重ねてしまうと妙な気恥ずかしさに苛まれて、わざと離れて歩いたのだった。

 お君となら。

 徳市の言葉が強く後押ししてくれていると源太は思った。


「……わかりました。庄吉には偉そうに言っていましたが、私も臆病だったのですね。うん、ふんぎりがつきました。お君ちゃんと所帯をもちます」

 意外なことに、源太はお君の意向など気にも留めずに言い切った。

「そうかい。そうしてくれるかい。だがな、その言葉、俺の話を聞いてからにしてもらおうか」

 そう言って徳市が語り始めた。


 奉公先をしくじって暇を出され、手っ取り早く銭を掴もうとして盗賊になったこと。たった一人、心を許せる友ができたこと。捕縛されるときに抵抗した友が、命を落としたこと。友には女房子供がいたこと。盗賊改めの同心に心酔したこと。人足寄場で板前の腕をみがいたこと。寄場を出るとき、お上が店を出してくれたこと。友の妻が死に、娘を引き取ったこと。その娘こそがお君であること……。

 それだけではなかった。お君の話がすむとおツネのことになった。

 色町に通いつめて、身代を棒に振った男がいたこと。亭主に早死にされ、無一文で放り出された母娘がいたこと。親方の施しで生き長らえたこと。耳が悪いこと。そのために、妾同然の縁談しかもちこまれなかったこと。そして、母親が健在なこと……。


 長い話だった。少しぐらいの正座はどうでもないが、ジーンと痺れがでるほど長い話だった。


「さっ、これで全部話した。こんなこと話したのは高山様のほかには誰もいねぇ。お前ぇたちには包み隠さず話しておきてぇ。それに応えてくれる奴らだと思ったんだ。もっとも、俺が勝手に思い込んでるだけかもしれねぇがよ」

 重い話だった。しかし、話すことで重荷を下ろすことができたということか、親方一人がせいせいした様子である。

「私は、お君ちゃんがどういう生い立ちかなんてどうでもいい。いや、むしろ親方のおかげでお君ちゃんがいると思います。こんな大事なことを打ち明けてくださった。どうしたらその気持ちに応えられるのか、申し訳ないですが、私にはわかりません。……ただ」

「ただ?」

「お君ちゃんと添い遂げます」

 源太はきっぱり言い切った。

「ほ、本当かい? 信じていいんだな?」

 徳市がひと膝のりだした。義助に啖呵を切った時と同じ、爛々とした眼で源太を見つめている。


「おいらは、あれからずっと世話を焼いてくれているおツネさんと添い遂げます。そりゃあ、しがない職人ですから、稼ぎだってしれたものです。目が見えなくなっておツネさんを困らせるかもしれない。けど、それ以外で泣かすようなことはしません」

 意外なことに、庄吉は当たり前のことをどうして尋ねるのかと不思議そうにしている。それだからか、世間話をしているように力みなどまったくなかった。


「そ、そうか? 約束してくれるか? じゃ、じゃあ、お君はどうだ? おツネちゃんはどうだ? お前ぇたちの気持ちを聞かせちゃあくれねぇか?」

 源太と庄吉の気持ちを確かめた親方は、向かい合わせに座る二人に目を移した。

 この男ならと選んだ若者、それが胸を張って連れてきた若者。どちらも真面目な若者だ。しかし、お君もおツネも自分と同じ見方をしているとは限らないのだ。ひょっとしたら無茶な押し付けをしているのかもしれないと、不安でいっぱいだった。

「私は、……もう、お父つぁんの意地悪」

 お君は拗ねてみせた。それが今の気持ちをなにより伝える方法だろうと、拗ねてみせた。

「私、庄吉さんと生きてみます」

 おツネは、庄吉が穏やかな男であることを感じ取っていた。蛆が湧くと揶揄される男ヤモメ。その住まいは、世間が笑うように酷いものだ。朝のひと時、仕事を終えてからのひと時、この三日ほどでおツネはすっかり見違えるように片付けてしまった。道具らしいものが何もないのだからちょっと片付ければすっきりするのだ。そして、そうすることで庄吉の暮らしぶりを感じ取ってもいた。飯粒がこびりついた茶碗を平気で使っているし、皿も箸もヌルヌル。手伝いに行くおツネを喜んで迎え入れ、照れくさそうに片付けを手伝う。この人は、明け透けに自分を受け入れている。それで十分だ。

 おツネは、何も言い足さずに、ただ頭を下げた。


「おい、いいのかぃ? 二人とも、突かれたからって遠慮しなくていいんだぜ。それともなにか? そんなに具合が良かったのか?」

 二人の顔がパアッと赤くなった。


「お、親方、それは……」

「なんでぇ、源さんは好くなかったってぇのか?」

「そ、そりゃあまあ……」

「まあってなんだい、まあって。不服だったってぇのか? 好かったかつまんなかったか聞いてんだい」

「好かったですよ。なにも大声出さなくても……」

「なぁっ。四人が四人とも不満はねぇってことだ。よかったなぁ……」

 堪えきれなくなったのだろう、言葉を詰まらせたとおもったら、大粒の涙をボロッと零した。

「あり……ありがてぇ……。これで俺の役目が終わる……。椋鳥のぅ、おノブさんよぅ、約束、守ったぜぇ」

 天井にむけて呟いたまま、目を閉じてじっと固まってしまった。

「お父つぁん、どうしてよ。そりゃぁ実の親じゃないことはわかってるよ。けど、お父つぁんが父親だよ、本当の父親だよ」

 甘えが籠もっていた。変に大きな声を出さないだけ、情が籠っている。

「親方、まだ役目は終わっちゃいませんよ。私も庄吉もすでに親無しです。ここはひとつ男気だして、頑固親父を続けてもらわないと。なあ、みんな」

 親方はうな垂れたまま、うんうんと首を縦にした。


「庄さん、根付ありがとうよ。お前ぇ、てぇした腕をもってるじゃねぇか。大事に使わせてもらうからな」

「さあさあ、湿っぽい話はこれまでにしましょう。堅気の私たちが杯事をするのはおかしなものですが、しじみ汁で固めの杯を……」

「ば、莫迦。どこの世界にしじみ汁で杯事する莫迦がいんだぃ。待ってろ、すぐに温めてやっから」


「ところで親方、高山様というのは、どういうお方なんですか?」

 ひとしきり冗談が飛び交い、それにつられて小さな座敷に弾けるような笑いが響く。腹の底から笑うことなんて、源太も庄吉も忘れてしまっていた。いつも誰かの目を気にして、面白くもないのに愛想笑いを浮かべる。たまに面白いことがあっても、気を許して笑うことなどできなかった。侍が刀を構えて笑うようなもので、世間というものに緊張しっぱなしだったのだ。それはお君もおツネも同じだった。笑いは自己防衛のための防具でしかなかったのかもしれない。そう思わせるほど、底抜けに可笑しかった。親方もまた心底笑わぬまま生きてきた。心を許せる者の前でしか笑うということはできない。息を継ぐのも苦しいほど笑いながら、修羅の道を歩んできただけに嬉しさがひとしおであったのだ。

 その笑いが収まりかけたとき、シジミの身を丹念にしゃぶりながら源太が訊ねた。


「高山様かぁ、ありゃあ神様だ。そりゃあ厳しいお方だがな、それは親身になって話を聞いてくださる。気さくでなぁ、よく失敗なさるんだ。それも、人足の目の前でだぞ。憎めねぇなぁ、あの照れくさそうな顔。だからな、人足が失敗したって怒らねぇ。早く一人前に仕事ができるように励ましてくださる、できたお人だぁ。そうだっ、高山様んところへ味噌を取りに行かなきゃならねぇんだが、お前ぇたち、明日の都合はどうだい?」

「明日かぁ、今日休んでしまいましたので、二日続けて休むというのはどうも……」

「じゃあよ、朝のうちならどうだ? お前ぇたちも引き合わせてやるよ。惚れるお人だぜ」


 佃島の人足寄場。火付け盗賊改め方をあずかった、長谷川平蔵が開設した就労支援施設である。手に職さえあれば、悪事を働かなくても食っていける。そうすれば二度三度とお縄になることはない。そういう考えで開設された。出入り勝手とはいかないが、中では比較的自由な環境で罪人に仕事を覚えさせている。大工、指物、壁、畳。縫いから染めのような軟らかな仕事もある。僅かとはいえ給金も出た。それが解き放たれたときの当座資金になるのだ。女囚にもいろんな仕事を覚えさせている。その人足の賄いを兼ねて、親方は板前の仕事を覚えたのだ。高山は、そこの同心であった。

 可能なかぎり自給自足を旨とする寄場では、当然のことに味噌は自家製である。そして売り物でもあった。ところが、商いには疎い侍のこと、売り先に窮していたのだ。


「じゃあな、言いたいだけ言っちまったし、夜も更けたし、そろそろ寝るとしようや。庄さんはここを使ってくれ。源さんは二階だ。ところで庄さんよぅ、もちぃと声をだな……。筒聞こえなんだよ、お前ぇの声が。お君なんか可哀相に、寝られねぇでゴソゴソしてたんだぞ。気持ちいいのはわかるけどだな、黙ってやれ、黙って。……とはいっても、隣でお君がアフンアフン騒いだら寝らんねぇし、……そうだ、おツネちゃん家で泊めてもらうわ」

「お父っつぁん、だれがアフンアフン言うのよ、この、助平親父。……ちょっと、ちょっと待ってよ、まさかおハツさんを狙ってるんじゃないでしょうね。勝手な理屈つけちゃって」

「あっ、そういうことか。だからおツネさんは娘なんだ。なんだ、そうだったのですか」

「源太! 手前ぇこの野郎。それが親父に利く口か」

「へへっ、それはまだ先ですよ、親方」

 源太とお君、庄吉とおツネ。二組の縁組みがまとまった一夜であった。



「庄さん、起きてるかぃ。起きてたらちょっと出てきちゃぁくれねぇか。お前ぇのおっかさんになる人を連れてきたからよぅ」

 障子の前で遠慮がちに声がかかった。不意に開けて寝乱れたところを見せつけられてはかなわないということだろうか。少し寝足りない様子の親方は、目をしょぼつかせてもう一度声をかけようとした。

 スーッと障子が開き、ガマガエルのように這いつくばった庄吉が現れた。

「ご挨拶が遅れました。手前からご挨拶に伺うのが筋でございますが、お許しください。神田三好町の崇伝長屋に住んでおります、根付職人の庄吉でございます。このたび、大瓢箪の親方からお世話いただきまして、おツネさんと所帯をもたせていただくことになりました。どうか、よろしくお願いします」

 どうしたらこんな見事な挨拶ができるのだろう。言った本人が一番驚いているのかもしれない。

「これはご丁寧に。母のハツでございます。庄吉さんのことはよく聞いております。ツネも気に入ってるようで、とても喜んでいますよ。ツネのこと、どうかよろしくお願いしますね」

 身代を持ち崩したということは、元を糺せば相応の商家だったのだろう。そのご新造になるくらいの人だから、やつれたとはいえ気品が漂っていた。

「……」

 庄吉は、もう何も言えず、ただ這い蹲ったのである。


「あら、お父つぁん、どうしたの眠たそうな目して。ちょっと、おハツさんに変なことしてないでしょうね」

 トントントンと二階から降りてきたお君がからかった。もうすでに襷をかけて、朝の一仕事にかかる支度はできているようだった。

「ば、莫迦。朝っぱらからなんてこと言うんでぇ。な、なあ、おハツさん」

 ハツの下目蓋が桜色になった。平気を装いながらしきりと髪を気にしている。

「ってやんでぇ。お前ぇだってアフンアフン言ったんだろうがよ。おツネちゃんだってそうだろ?」

 苦し紛れの逆襲だったが、言われたお君もおツネも頬を桜色に染める。

「あーっ、やっぱり……。お父つぁんねぇ、言葉に気をつけないと。お前らだってって言ったよね、だって。ちゃんと白状してるじゃないの。そんなことより、早くしないと待たせるよ」

 はからずもおハツとの出来事を白状したことに気づいた親方は、照れくさそうに勝手場へ消えた。


 源太は、人々が争うようにムスビを奪ってゆくのを初めて見て、まったく知らない、だがまぎれもない事実に胸糞が悪くなった。

 働こうとして働けない者はしかたない。だが、ムスビに群がる群れの中には、明らかに働ける者が少なからずいたのだ。親方のしていることは美談だ、それは間違いないだろう。しかし一方では、働きもせずにムスビを得ることができるのだ。ぶらぶら遊んで、朝になったら食べ物を恵んでもらう。そういう暮らしを助長しているともいえるのだ。だからといって、急に止めてしまえば本当に食えない人が困るのは目に見えている。では、怠け者に与えなかったら良いのだろうか。そんなことをすれば、きっと弱い者から奪うだろう。同じ人でありながら、卑しい者は必ずいる。その腐った根性が嫌でたまらなかった。



 ガラガラ、ガラガラ……

 足手まといになる庄吉を大八に乗せ、三人は佃島の渡し場にむかった。渡し場には柵が設けられ、出入りを厳しく監視してはいたが、柿色の着物を着た人足が大勢働いていた。


「深川蛤町の飯屋、徳市でございます。同心の高山様に味噌をお譲りいただくことになっておりまして、取りにうかがいました」

「おお、徳市か、息災なようだな。聞いておるぞ。言い出せなんだのを察して、徳市が味噌を買うてくれたと高山殿が申しておった。ときに、この者らは?」

 寄場の陸側の門番にあたる役人も、徳市に気安げな声をかけ、源太と庄吉を訝しげに見やった。

「へい、二人とも手前の婿でございまして、こっちが小間物屋の源太、そっちが根付職人の庄吉でございます。この際ですので、高山様にご挨拶をと」

「そうであったか。あいわかった、帰るおりにはまた立ち寄れよ」

 難なく立ち入りを認めてくれた。


「徳市、もう来たか。三日のうちにと申しておったに、昨日の今日ではないか。なんと律儀な奴だ」

 番小屋に顔を出すと、高山が驚いたように出てきた。

「へぇ、三日のうちにとは思ったのですが、ちぃと段取りが狂いやしてね」

 徳市は、頭を掻いてみせる。なんとも憎めない仕草である。

「段取り? わからぬことを申す奴だ。ところで、この者らは?」

「へぇ、段取りを狂わせた張本人でございます」

「そ、そのような遠回しなことを申してわかるか。もっとはっきり申せ」

「こっちが、小間物屋の源太と申しやす。このたび、お君と所帯をもたせることにしやした」

「お君? あのお君か? そうか……、もうそんな歳になるか。だが、呆れるほど律儀な男だなあ、徳市。でっ? もう一人は?」

「へぇ。神田三好町の裏店で根付を彫っておりやす、庄吉と申しやす。こいつとおツネちゃんが所帯を」

「おツネ……、耳の悪い娘か? たしか、行き倒れ同然の親子を面倒みておると申しておったが、その娘か」

 親方は、恥ずかしそうに首をすくめた。

「徳市、いや、徳! 鼻が高いぞ、ようそこまで……」

 高山の表情がパッと明るくなった。しきりと頷き、労わるように徳市の肩を掴んでゆすった。荒っぽいが、心のこもった励ましである。

「どうでぇ、高山様はこういうお人なんでぇ」

 得意そうに二人を振り返る。この人に褒められることがなにより嬉しいと言わんばかりだ。

「たわけ、そのようなことはどうでも良い。祝言は済ませたのか?」

「い、いえ。なんせ、昨夜(ゆんべ)決まったことでやすから」

「あいわかった。この高山、仲人をいたそう。迷惑でなければだが」

 二つ返事であった。祝言が決まったばかりと聞いて、仲人を買って出る。侍のことを良く思っていない源太や庄吉にすれば、度肝を抜かれるようなことを平然と言った。

「えっ」

 それには源太も庄吉も驚いた。仲人などというものは、仕事仲間の上役か、町役、それか大家に頼むのが普通だろう。それが、れっきとしたお役人が仲人をしようと言ってくれたのだ。そんな立派な仲人など、考えられる限りの知り合いを思い出しても聞いたことがない。

「あのう、まことに有難いことではございますが、あまりに勿体ないことで……」

 おずおずと口をはさんだ源太に向き直り、高山は意外な交換条件をだしてきた。

「心配いたすな、なにも酔狂でやろうと申したのではない。其の方、小間物屋と申したな。店持ちか? それとも」

「荷商いでございます」

「そうか、ならば好都合だ。というのはな、寄場で作ったものを売るのに難渋しておるのだ。よって、仲人をするかわりに、寄場の品を売ってもらいたい。さすれば、放免される者が困らずにすむようになろう。また、其の方は根付職人と申したな。たまにでかまわぬ、根付の作り方を指南してもらいたい」

 なんと抜け目のない申し出であった。


 味噌蔵で味見をし、船に樽を積み込んで初めて、源太はその値段を知った。

「お訊ねいたしますが、この値段は親方に売る特別な値段でございますか?」

「いや、そのような手心はくわえぬ、誰であろうが同じ値だが、それがどうかしたか?」

 高山は訝しげに源太を窺った。

「安すぎます。あまりにも安すぎます」

 がっかりしたように源太が訴えた。

「安うのうては売れまいが。とはいえ、これでも売れぬのよ」

 あらためて高山が源太に向き直る。口をモゴモゴさせながら、しかし、売り方が解らぬとは言えないようだ。

「安すぎるからでございますよ、高山様。誰しも安いものはありがたいものです。が、安かろう悪かろうとも申します。安すぎるとかえって信用できなくなるのが人でございます。もう少し値を上げたほうがよろしいのでは?」

「それよ、そのさじ加減がわからぬのだ。なんとも情けないことだ」

 照れくさそうに苦笑いをした。


 番小屋に戻り、味噌の代金を払うときだった。

「徳市、其の方、良い根付を手に入れたものだな」

 巾着の口を閉めるのに使っていたのが、庄吉に貰った狐の根付であった。柘植の茶色を利用して作ったものだが、それを高山が目ざとく見つけた。

「これでやすかぃ。庄吉がこさえたそうでね、身内になった証だそうでさぁ」

 徳市は、得意げに巾着を渡してしまった。

「むーん、ちょっと中へ入れ。三人ともだぞ」

 高山は、小屋に入るなり、その根付を居合わせた者に見せて回る。そして何やら言い交わしていた。


「庄吉、やはり指南に通ってくれまいか。これほどの品でなくともよい。が、人目を引くような品を作れるようになれば、その腕で暮らしていけよう。その腕、世のために役立ててくれ」

 居合わせた役人たちが集まってきた。そして、根付を見ては盛んに感心している。

「そう言っていただけるのはありがたいのですが、目がかすみまして、一人で来ることなど無理でございます。それに、ノミをうまく使えなくなりました」

「其の方、目が悪いのか? かすむと申したが、まんざら見えぬのではないのだな?」

 高山は奥へ行って見慣れぬ道具を持ってきた。

「住田殿も目が疎うなってな、お上からこのようなものを拝領しておる。これを使えば毛穴まで見えるらしいぞ。試してみよ」

 それが何か知らない庄吉は、言われた通りに目にかざしてみた。すると……。


「うわっ」

 庄吉が悲鳴をあげた。

「なんですか、これは。目がグルグル回ったようですよ」

「そ、そうか。だが、住田殿は良く見えると。もう一度試してみよ。手の先、むこうの壁、どちらが見よいか、試してみよ」

 高山は、きっと初めてのことで驚いたのだろうと思ったのだ。そうは言われても、クラクラッとした気持ち悪さはそうそう味わいたいものではない。だが、熱心に勧めてくれる高山の手前、庄吉は思い切って目にかざした。

「そうではない、ぴったり目に当てるのだ」

 遠くで様子を見守っていた住田が声をかけた。ぴったりと顔につけ、両側に垂れている紐を耳に掛けるのだという。

 言われた通りにしてみた庄吉は、正面の壁を見てみた。眩暈こそないが、依然としてぼやけてしまっている。次に、自分の手先を見てみた。すると、何もしない時よりもはっきり見える。といっても、指を開いたり閉じたりするのが見える程度でしかない。そして最後に顔の前にもってきた指を見てみた。そうしたら、指先の細かい筋までくっきり見えるではないか。

「源さん、見える、見えるよ。指先の筋が見える。筋が途切れているのも見える。こいつはすごいや」

 庄吉は声を裏返している。

「どうだ庄吉、其の方が力を貸してくれるというなら、上役に掛け合ってやろう。さすれば、其の方も腕の奮いがいがあるではないか。どうだ」

 こんなものを体験させられて迷わない者などいないだろう。庄吉も誘惑には弱いようで、源太を、親方を、高山を幾度も見回していた。


「庄吉、それを掛けると歩くのに便利か?」

 手先がよく見えることはありがたい。そうでないと稼ぎにつながらないからだ。だけど、誰かの助けがなければ出歩けないのでは価値が半減してしまう。源太はそれが言いたかった。

「どうやら、見たいところに合わせて取替えねばならぬようだ。そうか、其の方、出歩くに難渋しておるのか。なれば小石川へ参るがよかろう。高山殿、非番の日にでも付き合うてやりなされ」

 住田はそれほど困ってはいないようだが、毎日使っているだけに扱い方を心得ている。

「左様にござるな。よし庄吉、小石川へ参ろう。なに、お上の御用を手伝うてくれるのだからな、金子の心配などすることはない」

 庄吉が何をいう暇を与えず、高山は小石川へ行くことを独り決めしてしまった。

「ところで高山様、味噌の件でございますが、荷商いが手前の務めでございます。いかがでしょう、いくらかでも持ち歩いて売る算段を致しましょうか?」

 遠慮がちに源太が申し出た。どの小間物屋も似たり寄ったりの品を持ち歩いているのだから、客を増やすのが難しいのだ。こんな物が商いになるかは解らないが、妙な物を持ち歩くと評判にはなるだろう。そうすれば客が増やせる。そうふんだのだろう。

「おうおう、それよ。そうしてくれれば助かる。いや、全部売ることはないぞ、そのようなことになれば、人足どもが味噌汁を飲めなくなるでな」

 屈託のない笑顔である。これが本当に盗賊改めの役人かと疑いたくなるような笑顔であった。

 帰りがけ、なにやら調べていた高山が大声を出した。

「徳市、婿殿の祝言だがな、十日後が天赦だ。急なことではあるが、縁者がおらぬのなら構うまい。これに勝る日はないぞ」

 思いがけない縁を結んだのであった。



「たーかーさーごーやーぁ……」

 今日ばかりは大瓢箪も休みをとっている。掃き清められた入り口に打ち水がされ、開け放した店の中に二組の夫婦が神妙に畏まっていた。紋付の羽織を着た新郎と、よそいきの着物をまとった花嫁。脇には紋付の羽織姿の親方と、今日ばかりは髪結いで油をひいてもらったおハツが並んでいる。他に縁者などいない。が、高山が裃姿で意義を正し、華を添えていた。その高山の謡う高砂が通りの外にまで漏れていた。


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