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食べ残し

 あの夜、庄吉とおツネは親方の粋なはからいで、枕を並べて床に就いたのだった。

 そもそも自分が仕掛けたくせに、源太はお君からそれを聞かされた。無理矢理約束させられた上野へ行った折、菖蒲の花を愛でながらそんなことを聞かされたのだ。

 なにもお君は、聞き耳を立てるような悪趣味な女ではない。見ぬふり、聞かぬふりを通そうとしたのだが、聞こえてしまったのだそうだ。というより、耳を覆いたくなったそうだ。

 しんと寝静まった家の中のこと、おツネに囁くつもりが、つい声高になってしまったのだろう。あまりに明け透けに聞こえるものだから、お君は頭から夜着を被ったそうだ。でも、そんな程度では何の効果もなかったらしい。お君が顔を赤らめているとは知らぬ庄吉の声が筒抜けになるものだから、身のおきどころに困ったようである。伝法な物言いをしたとはいえ、まだ十九のお君には針の筵だっただろう。それが証拠に、花を愛でるのは申し訳程度で、あちこちの出店を巡りたがった。そして、いつの間にか中食の頃合いになっていた。


「源さん、お腹がすいた。どこかでお昼を食べて帰ろうよぅ」

 それならとあちこちの店へ誘ったのだが、意地でも池の端を離れないとでも言わんばかりに、源太が薦める店をことごとくはねつけてしまう。だったらどうするんだ。そう言えば、はにかむ素振りをみせながら一軒の茶屋の前で足をとめた。

「お君ちゃん、ここはいけないよ。私たちが出入りするような店じゃなさそうだ」

 外見は料理茶屋のようだが、客の出入りがなさすぎる。これが出会い茶屋なのだろうと源太は思った。でなければ法外な料金を要求されるのだろうとも。

「どうして? ここなら静かにお昼を食べられるのでしょう?」

 軒の先にまで届くヨシズを立てかけた店である。二階から菖蒲が群れ咲く池を眺められるようにはなっているが、どうみても素人が立ち入るような店ではない。いくらそういって宥めても、お君は店先から動こうとしない。そのくせ、それがどういう店なのかおぼろげに解っているとみえて、思いつめたような表情をしている。

 いくら宥めても効き目がなく、あまり店先で押し問答しているのも変に思われると思えばこそ、源太はお君の我侭を通すことにした。


 通された部屋は、池に面した二階にあった。障子を開け放つと花見に訪れた人のざわめきが微かに聞こえてくるだけで、二人だけの六畳ほどの場所である。一輪挿しがポツンとあるだけで調度といっても何もない部屋は、二人でいるには広すぎる部屋だった。

 窓から見下ろす池は、生憎の曇り空にもかかわらず陽の光でキラキラ輝いて見えた。そうして景色を楽しんでいると料理が配ばれてきた。黒漆が濡れたような艶を感じさせる細足の膳である。大きめの鉢に少しだけ料理が盛られ、どう見ても空腹を満たすための料理ではない。真昼間だというのに酒がついていた。しかもその酒は土瓶を平たくしたような容器に入っていた。

「源さん、せっかくだから」

 お君が酌をし、減太は杯を二度ほど空けた。

「……」

「……」

 互いに気まずいまま時がたった。


『ああ、ご新造さん……』

『ためさん、ご新造はいやだよぅ。おセイって呼んどくれ……』

『お、おセイさん……』

 二人が黙りこくって箸をつけ始めると、どこやらから艶かしい声が忍び入ってきた。


「げ、源さん……」

 きっとそれが聞こえてしまったのだろう。お君が慌てたような声を出した。

「聞くな、聞くんじゃないよ。ここはお君ちゃんの来ていい場所じゃないんだよ、さあ出よう」

 手をつけていない料理がいくつかあるが、そんなことに構ってなどいられない。つと立った源太はお君を急きたて、廊下への襖を開けた。


『清さん、もう待ちきれないよ。どこへでも連れて逃げとくれよ』

『わかってる、わかってるんだよお弓ちゃん。けどね、まとまったものがないことにはのたれ死にしてしまうじゃないか。それはわかるだろ?』

『いつ? いつまで待ちゃいいんだい?』

『そ、そうだな、あと十日がとこ待ってくれないか。そう、十日のうちにはきっと』

『十日だね、本当だね? じゃあ、今だけでも……』

『旦那様、もうこういうことは……』

『何を心配しているんだね?』

『だって、こんなことがお内儀さんに知れたら……あっ』

『心配なんていらないよ。お勝だって承知しているんだから』

『お、お内儀さんが?』

『ああ、丈夫な子を産んでくれそうな人がいたら囲っておしまいってね』

『そ、そんなことをお内儀さんが?』

『なぁに、お勝だって若い番頭とよろしくやっていることでしょうよ』

『そ、そんなばかな。……あぁ、いやぁ』

『なぁに、誰が父親であれ、孕めばお勝の子。お前が孕めば、私の子。それで店は安泰というもの』

『だ、だからって旦那様。あっ、そんなとこを……あぁぁ、だめぇー』

『ああ、おセイさん、おセイさん……』

『ためさん、そんな、あせ……焦っちゃだめだよぅ。我慢しておくれ』


 襖一枚開けただけで、他の客の睦言が奔流となって襲い掛かってきた。

「これじゃ、だめだ。お君ちゃん、なるべく聞こえないところでじっとしているしかないよ」

 襖をピシャリと閉じた源太は、諦めたように窓際に腰を据えた。

 この店に入りたいと言い張ったお君にとっても、それは衝撃的なことだった。こういう類の店がどんな場所なのか。誰がどんな目的で客となるのかぐらいは知っている。大っぴらに顔を曝せない男と女が、ひと時の逢瀬を楽しむ場所だというぐらいは。しかし、こうも明け透けに、こうも際どい場所だなんて思ってもみなかった。

 通りに向かって開け放した障子窓のところにいれば外の喧騒にまぎれて、そこらじゅうから漏れ聞こえる睦言や喘ぎ声が届きにくいと考えたのだ。しかし、一旦聞いてしまったことが災いした。お君の耳の奥には、睦言やら喘ぐ声が渦巻いていたのだ。

「源さん、まだ聞こえる」


「聞くな。聞くんじゃないぞ、お君ちゃん。しっかり耳を塞いでおくんだよ」

 源太は、縋るお君に耳を塞がせると、その上から自分の手で押さえつけた。



 三日ほど遡るが……

 おツネと一夜を共にした庄吉が目覚めたとき、すでにおツネの夜着はきちんとたたまれ、薄っぺらな敷き布団とともに座敷の隅に片付けられていた。そして、妙なことにおツネの姿が見えないのだ。店のほうでなにやら話し声はするのだが、廊下を歩く足音はまったくしなかった。

 どうなっているんだ? おツネはどこかへ行ってしまったのか? それとも、あまり狐の彫り物ばかりするものだから、お稲荷様に化かされたのだろうか。不安なまま声のするほうへいってみると、親方と娘、それにおツネの三人が懸命にムスビを作っている。

「おぅ、さすが職人だね、朝が早ぇじゃねぇか。あっと、うるさくして起こしちまったかぃ? すまねぇがな、こいつだけは済まさねぇとまずいんだ。勘弁しとくれよ」

 どうやら残った冷や飯を全部ムスビにするつもりらしい。

「いえ、起きてみたらおツネさんがいないので、……そのぅ……」

「ああ、おツネちゃんがいねぇから逃げられたとでも勘違ぇしたのかい? こいつは朝から、お、おだやかにたのむよぅ」

 愛想よく振る舞いながらも、親方はムスビを作り続けている。

「おツネちゃん。すまねぇがなぁ、できたやつから配ってやってくれよ。もう待ってるだろうからな。いや、やっぱり俺がやろう。お前ぇ、できるだけ沢山こさえてくれ」

 他に誰もいないからか、親方はかなり大きな声で飯台に残っている冷や飯を顎でしゃくった。

 親方が表戸を開けると、そこにはひもじそうな貌が黒山を作っていた。

「待たしてすまねぇなぁ。今日は数が少ねぇんだ。ちぃと大きくしといたからよぅ、一つで我慢してくんな」

 親方の言葉が終わらないうちに方々から手が伸びてくる。

「慌てんじゃねえ、慌てんなつってんだろううが、っつたく」

 下町特有の荒っぽい口調である。ではあるが、口調とは裏腹に哀れむように沈んだ眼差しを親方は向けている。

「こらっ、一人当て一つだって言っただろうが、莫迦野郎。意地ってやつをみせてくれ、意地をよぅ。いいか、今日いちんち、なんとか生き延びんだぜ」

 怒鳴ったり、いたわったり、なんとも賑やかな幕開けである。が、これが大瓢箪なのだ。それを知らないのは庄吉だけ。そういってしまえば、まるで庄吉一人が世間知らずのようになってしまう。それではあまりに気の毒というものだ。なんといっても、この店があることを知ったのが昨夜なのだから。が、どうやらおツネはそのことを知っているらしく、当たり前のように親方やお君を手伝っていた。新香を盛ってこいといわれて、勝手知ったそぶりで裏へ姿を消したと思えば、勝手場でトントンザクザク新香を刻んで、山盛りにした鉢を持ってきた。遠慮とか戸惑いなど一切おかまいなしにだ。


「あのう……、何が始まったのですか?」

 一人蚊帳の外におかれた庄吉は、恐る恐るお君に訊ねてみた。

「これですか? これはお父つぁんの道楽でね、お客の残したご飯をムスビにして配ってるんですよ」

「食べ残し……ですか」

「ああ、そうですよ。食べ残しだけどね、こうしてヒモジイ思いをして困ってる人がいますからねぇ」

 最後のムスビを握って盆に載せた。それを別の小さめの盆に移しながら、お君はチラチラと庄吉の顔を窺っている。人の良さそうな顔をして、よくもあんな大声で叫ぶものだ。胸の内では腹立たしさと悔しさ、それに恥ずかしさが入道雲のように湧き上がっていたのだ。

「お君、今日も二親が起きられないんだとよ。いくつか包んで持たせてやってくれ」

「あいよ!」

 親方の指図を潮に、お君は小さく会釈して仕事に戻る。竹の皮を台に敷き、そこにムスビを二つ、少しそよいだ指がもう一つ載せた。新香を適当につまんでそれに添える。

 シャッ

 竹の皮の端っこを裂いて紐にする。それを二つ作った。

「お父っつぁんもおっ母さんも起きられないのかぃ、心配だねぇ。これ、食べさせてあげな」

 幼い兄弟に包みを持たせ、手にもムスビを持たせてやる。そしてポンポンと頭の上で自分の手を弾ませた。


 なんということをしているのだ。この人達は何者なんだ。庄吉は驚くばかりだった。



 じっとお君の耳を押さえてやるにも限度というものがある。こうして押さえているかぎり、お君の顔と自分の顔がくっつきそうなままなのだ。そうした睨めっこそのものが、源太の苦手なことだ。だって、こうやって睨みあっていると、互いにどんどん近づいているような気がするのだ。それに、困ったように見つめられると、それがまたバツが悪い。かといって目を閉じれば、あらぬことを想像するので余計に困る。

 じっと手をあげたままで疲れた源太は、一旦手を離すとお君を横に並ばせた。この姿勢なら押さえていてやれるだろう。そう思ったのが間違い。源太は、じきに自分の間違いに気づかされることになる。

 障子窓は腰窓である。窓にもたれかかると、ちょうど肩口まで身をあずけることになる。前屈みでないだけ楽だったはずなのだが、自分とお君の間に挟まっていた手が痺れてしまった。そうっと抜き取ると、達者な左手に押されてお君の頭がこっちに寄ってきた。耳と耳がぴったりくっついてしまったのだ。

 なにを勘違いしたのか、お君がしがみついてきた。

「源さん、……もう……」

「ちょっとお君ちゃん」

「もういい、……いいの」

 男を知らない町娘なんぞいやしない。どうかすると新参者の芸者では太刀打ちできないほどの猛者もいるくらいだ。だが、強面の父親が目を光らせていたせいか、お君は初心なところを残している。

 もう、知らないぞ。どうとでもなれ。

 なるべく間合いをとろうとしていた源太だったが、ここで覚悟を決めた。

 内堀も埋められたのだ。



 大瓢箪での騒動の後、庄吉はおツネと差し向かいでしじみ汁を腹いっぱいごちそうになった。ところが、帰ろうとしてはたと困ってしまった。ここがどこだかわからないのだ。

「さんざんご迷惑をおかけしたうえに、頓馬なことをお訊ねしますが、ここはいったいどこなのでしょう?」

「えっ? あっ、ああそうか。何も聞かずに来なすったんだね? ここは深川だよ。しじみ汁飲んだってのに、蛤町なんでぇ。面白ぇ取り合わせだろ?」

 ここがどこなのかわからないと正直な庄吉に、居合わせた三人は顔を見合わせてしまった。そして、そのうっかり加減に呆れ、クックックと笑いがこみあげてきた。

「い、いや、気に入った。気に入ったよ庄吉さん。お前ぇさん、正直なお人だ。だ、だけどよ……」

 顔を綻ばせてそこまで言った親方が、もう堪え切れない様子でふきだした。

「すまねぇ、すまねぇ、ウッヒッヒッヒッヒッヒ……。だ、だってよ、どこへ行くかぐれえ聞くだろ、普通」

「いやぁ……。どこか近場だと思ってついて来ただけですから。それに、足元ばっかり気になって」

 庄吉は、なんとも情けないといったふうにうなだれ、ついでに首筋に手をやった。

「いやぁ、いいなぁ……。お前ぇさん、源さんを信じきっていなさるんだね? 人と人、そうでなくっちゃいけねぇ。おいらもその仲間に入ぇりてぇや。入れてくれねぇか、えぇ?」

「いえ、そんな大それたこと」

 さすがは客商売をしているだけのことはあると庄吉は感心した。これだけ歳の差がある相手なのに、咄嗟にそんなことを言ってのけるのだからすごいと思う。それもだ、事もあろうに自分と源太の仲間入りをしたいと言うのだから面食らってしまう。それって、自分たちを同列扱いしてるということではないか。なんて懐の広い人だと感心したのだ。

「なあ庄吉っあん、おいら本気だぜ。……そうかい、源さんを信じきってなぁ……」

 どう勘違いしているのか庄吉にはわからない。それでも、そう言ってのけた親方の声音はとても嬉しそうに聞こえた。

「と、ところで勘定はいかほどで?」

「ゆんべの勘定かぃ? ありゃあ源さんからいただいたよ」

「はぁ……。また源さんに迷惑かけちまった」

「なにを言ってるんだい。お宝なんてもなぁ、ある奴が出せばいいんでぇ。だからよ、源さんが困ったときにゃあ、涼しい顔して出してやりな。そんでいいって」

「もう一つお訊ねしてよろしいですか?」

「おう。言えることなら何でも答えてやるぜ」

「さっきの騒ぎなんですが、あれは?」

「ああ、あれな。ありゃあその、なんだ。つまり、貧乏で喰えねぇ奴がいるだろ、そいつらにだなぁ……」

 なにか都合の悪いことでもあるのか、急に親方の口調が勢いを失った。なんとか誤魔化そうとでもしているかのように、しどろもどろである。

「お客の残り物で食いつないでもらってるんです」

 お君という名だそうだ。親方の娘だということはこのとき知った。そのお君が意外なことを言ったのだ。

「残り物っても、あんなに出るのですか?」

「……」

「……」

「旦那さんが知恵はたらかせて、いやでも残り物が出るようにしてくださってるのです」

 おツネはそのからくりを知っているようだ。

「おツネちゃん、それは言わなくても……」

「この店は、酒を注文すると必ずご飯をつけるのです。でも、酒は飲めてもご飯を全部食べるお客はいません。そうやって残り物が出るように」

 そういうことなのか。だけど、酒を注文して飯がついてきたら客が怒るだろうに、どうやって黙らせているのだろう。それに、代金だって割高なはずだ。

「旦那さんがそうしていることを多くのお客さんが知っています。そのおかげで生きていられる人もいます。……私のように」

「おツネちゃん! ……ま、まあそういうこった。だからよ、俺がムスビをやるんじゃなくて、客がくれるということだ。まぁ、んなこたぁ早く忘れてくんな。それよりなぁ、おツネちゃんは俺の娘みてぇなもんだ。大事にしてやってくれよ」

 照れくさそうにすると案外愛嬌のある顔をした親方だ。そうか、あのムスビのおかげでおツネは生き延びることができたのだ。だからおツネのことを娘のように思っているようだ。

「おツネちゃん、庄さんを送ってやんな。住む家と、何が足りねぇか見てくんだぞ」

 親方は庄さんと呼んだ、庄吉さんではなかった。自分たちの仲間になりたいという言葉は、まんざら嘘ではなさそうだ。



 庄吉がおツネに付き添われて長屋へ帰っている間に、大瓢箪に目つきの悪い男が二人立ち寄っていた。

「なあ、徳市さんよぅ、あまり度々来たかぁねぇんだけどよぅ、先にも言ったようにいろいろ物入りで困ってんだ。なっ、目腐れ銭でいいから都合つけちゃあもらえねぇか」

 やけにねっとりした話し方をする男だ。北六間堀の義助と名乗った男は、御用聞きだとも言った。その義助が、自分の縄張りから遠く離れた蛤町にやってきて金の無心である。軽くあしらって追い返していたのだが、今回はやけに粘っていた。箸箱の蓋を開けて中身を並べたり、唐辛子をパラパラ振りかけたり、地回りとそっくりな嫌がらせをしている。

「いいだろ? 僅かばかりの銭じゃねぇか、どこでもやってるこったぜ。でないとなぁ、二つ名があることが知れちまうことになるが、そうなったら困るだろ?」

 薄ら笑いを浮かべながら、それを土間に撒き散らす。

「おそれいりますが、ここは店先ですので、ちょっと外へ」

 出てもらえないかとまで言わず、親方は店を出て堀端までぶらぶら歩いていった。


「おう、手前ぇ何をすっ呆けたこと言ってやがんでぇ」

 柳の下で振り返ったその顔は、まるで仁王である。腹の底から噴き上がる太い声に二人はたじろいだ。

「なんだと、この野郎。下手に出てりゃぁいい気になりやがって。その二つ名を言いふらしてやってもいいんだぜ」

 うまく乗ってくれたと義助はほくそ笑んだ。自分が掴んだ情報は間違いではなさそうだ。となれば、叩かれるのを嫌って頭を下げさせてやる。金ヅルにできると思った。その誘い水として二つ名をにおわせたのだ。

「そうかい。じゃあな、その二つ名とやらを言ってみな」

 案の定、親方の言い方がいくらか穏やかになった。

「この野郎、舐めたことぬかしやがったな。何も知らねぇと思ったら大っきな間違ぇだぞ。ええっ、ニゴロの徳市さんよぅ」

「ほう、感心なこった、知ってんじゃねぇか。その、ニゴロの徳市ってぇのは俺のこった。やけに詳しいようだから聞くんだがなぁ、どぃだけのことを知ってんだ? えぇっ、御用聞きの親分さんよぅ」

 ますます穏やかになった。ただ、まだ腹をさぐっていると義助は思う。

「聞いて驚け。二ゴロの徳市ってのはなぁ」

 聞きかじった情報を小出しにぶつけてやろう。舌なめずりして開いた口が一つ目の秘密を言おうとしたとき、突然親方が怒鳴り声を上げた。

「やかましいやい! 手前ぇみてぇな三下のゴロツキくずれが、気安く口にできる名前じゃねぇやい。江戸の裏を牛耳ってる奴は誰だ? どいつもこいつも俺の息がかかった奴ばっかりってのを知らねぇのか? 知ってたら銭をせびりに来るわきゃあねぇわなぁ。やいっ、三下! 言ってみな、言いふらしていいんだぜ。勝手にやりやがれ。そのかわり、きっちり絞めさせてもらうからよぅ。腹ぁ据えてかかってきな」

 ニゴロの徳市が堅気になって飯屋の親父に納まっている。その噂を知って金を巻上げようとたくらんだのだが、どっこい、逆にふるわれてしまった。人目もあることだし、別の手立てを考えよう。目つきの悪い二人は、ぺっと唾を吐いて立ち去った。それほどに親方の一喝はどすの効いたものだった。



 そしてお君が源太と上野へ菖蒲見物に出かけている頃、大瓢箪を中年の侍が訪ねていた。

「徳市、景気はどうだ?」

 紺の袷に縞柄の袴、素足に雪駄履きである。いたって軽装で、物腰が穏やかだった。

「なんとか、喰うだけは心配いりやせん」

 勝手場へ湯呑みを取りに行った徳市は、後ろを向いたまま答えた。

「おお、そうかそうか。喰うことに困らぬなら何よりだ。ところで、まだ続けているのか?」

 侍は眉尻を下げてムスビを握るまねをする。

「ま、まあまあその話は……、ありがたいことに客が酒を飲んでくれますんで」

 徳市は、煮出したような茶を侍に勧め、そのまま対面するように腰をおろした。

「ところで徳市、今日参ったのはほかでもない。こんな事は言い辛いのだが、そのう……、み、味噌をだな……」

 侍は、気が咎めるのか湯呑みと徳市をかわるがわる見ながら口ごもる。

「高山様、こんなことをお武家様にお願いしたらバチが当りやすが、味噌をわけていただけやせんか。あと五日ほどで樽が空になってしまいやすんで」

 その気持ちを察して、徳市は話を割り込ませた。

「そ、そうか、買うてくれるか。いやありがたい。こういうことは苦手でな、どう切り出せば良いやら困っておったのだ」

 はっとしたように徳市を見つめた侍は、両手を膝にあて、座ったままで会釈をした。もじもじと落ち着きがなかったのが、ほっとした表情に変った。

「ええ、高山様にはずいぶんお世話になりましたのでね、どのようにでもさせていただきますよ。……ですが、一つだけお願いが」

「おお、なんなりと申してみよ」

「えっ、ええ。もう二た月ほどになるのですが、小銭をせびる奴がいましてね、いくら追い払ってもしつこいんでさぁ。こないだもね、昔の名前を持ち出したもんだから啖呵きってやったんでさぁ。そしたらね、表立ってせびらねぇかわり、張り付いていやがんで。それが、御用聞きだってんだから無茶できねぇし」

 その場で灸をすえてほしいというほどの願いである。

「そうか。無礼討ちにでもするか?」

「滅相もない、ビリッとさせてやればいいんで」

「なるほどな。それで、どいつなのだ?」

「橋のたもとに二人いるでやしょう? あの着崩れた奴」

「よし、では帰りがけに退治してやろう。時に、いつ取りにまいるのだ?」

「それでは、三日のうちに必ず」

 ということで話が煮え、高山は店を出た。人足寄場への帰り道、通らにゃならない橋であった。


「ちと訊ねるが、其の方ら奉行所の手の者だそうだが、相違ないか」

 所在なげに立つ二人組。その横をすれ違いざま、高山が何気ない風で声をかけた。

「へ、へい。南の旦那の御用を承っておりやすが」

 突然声をかけられたうえ、奉行所の手先と名指しされて二人は戸惑っていた。もとより強請りタカリを日常にしている後ろめたさもあって、相手を値踏みするのが癖になっている。

「左様か。ところで、最前よりこれに立っておるが、故あってのことか?」

「……」

「それとも、探索……ということか?」

「……」

「奉行所の手先であれば、根城はどこだ?」

「……」

「言えぬか。なるほどのう」

「お侍様、いったい何を仰りたいので?」

「実は大瓢箪の亭主から、謂れのない因縁をつけられて困っておると訴えがあった。金をせびられて、断っても難癖をつけてたかりに来るそうな。まことか?」

「お侍様はどちら様で?」

 下から見上げる目は、卑屈でいて陰険な目であった。

「御用聞きとは名ばかり、たちの悪いゴロツキだと申しておったが」

「どういう意味でございますか? 事と次第によっちゃあお武家様とはいえ面倒なことになりやすぜ」

 義助の目がすうっと細くなった。御用聞きと知って因縁をつけてきたのである。ここはお上のご威光を利用しない手はないというものだ。

「どうやら、まことのようだな」

「お侍様、まことに失礼でやすが、お名前を伺いとうございますが」

 ふてぶてしさを隠しもせず、懐に手を挿し入れた。

「名か? 盗賊改め方同心、高山新十郎。訴えがあったゆえ詮議いたす。同道いたせ」

「えっ、と、盗賊改めの旦那……」

 慌てて懐に入れた手を抜き出した義助は棒立ちになった。

「たわけが。其の方らが掴んだことなど、いくら吹聴しようが屁でもないわ。ニゴロの徳市を甘く見るでない。徳市が大人しうしておる間に悪事は止めよ。今後付きまとうようなら容赦せん。町方同心とは違う、刃引きではないぞ」

 腰に手をやり、刀の柄をトントン叩いたときに見せた目は、仁王様のようにクワッと見開かれていた。


 店の中からその様子を見ていた徳市は、襷を取って深く頭を下げた。


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